2018-07-22 (Sun)

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【日本】では【3世紀】中ごろ以降、数多くの【古墳】がつくられました。現在の【鹿児島県から岩手県まで】、日本中に実に【10万以上】も築かれたのです。
☆特別史跡公園 西都原古墳群 みやざき公園協会HP
【弥生時代の終わりころ】に【日高見国】は衰退します。先に述べたように、これには気候変動も関わっているでしょう。【東のほうが寒くなった】ことにより、【人々】が【西に移っていった】のです。むろんまだ東にはたくさんの人々が残っていました。【古墳】が【関東に多い】のは、【日高見国の記憶】を持っている人がたくさんいたということです。

詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆西の出雲を平定した、東の「日高見国」

【関西に行った天皇の祖先】はみな、【関東から移った人たち】です。

初代神武天皇のあと、第十代崇神(すじん)天皇が即位するまでに欠史八代といわれる時代があります。この時代の天皇は、【名前はわかっている】ものの、その【事績は記紀にも書かれていません】。
この欠史八代の天皇は【東国との関係が非常に強い人たち】なのではないかと考えられます。おそらく崇神天皇が即位するまでの間は【関東系の人たちが天皇を助けていた】のではないでしょうか。つまり【欠史八代の天皇は日高見国に依拠していた】ため、記紀を書くころには詳細がわからなくなっていたのでしょう。

そのような記憶をもとにして、【古墳時代】には【数多くの古墳】がつくられました。特に【大和】(奈良県)や【河内】(大阪府)には【ひときわ巨大な古墳】が築かれました。【古墳の形】には【円墳】、【方墳】、【上円下方墳】などいろいろありますが、目につくのは、なんといっても【前方後円墳】です。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群と、日本の英雄・ヤマトタケル

前方後円墳の【円は「天」】、【方は「大地・土」】を表します。これは最初に『古事記』がいっているように、【神々の前に「あめつち」があったということを表している】のでしょう。『古事記』のいう天と地を前方後円墳の中に描いているのではないかと考えられます。
前方後円墳の円の部分がまるで山のように盛り上がり、方形(四角)の部分はそこに至る里のようにつくられています。高く盛り上がり天に向かっている山のような円の部分は、「高天原」を思わせます。方形の部分は大地を表し、「葦原(あしはら)の中国(なかつくに)」と呼ばれているこの世を思わせます。棺があるのは円の部分ですから、本来は前円後方墳と呼ぶべきでしょう。
ところが不思議なことに、【前方後円墳に発展していくような原型】が【奈良には見つかっていない】のです。

突然のように前方後円墳が出てきます。一方、【関東にある古墳】の中には【前方後方墳という形】が見つかっています。これは前方後円墳の円が四角い形になっている墳墓で【前方後円墳ができる一つ前段階の形】だと考えられます。
これは何を意味するでしょうか。

おそらく奈良に前方後円墳が突然築かれたのは、関東にあった日高見国の記憶を呼び覚ました人たちが、その古墳づくりの方法を使って築いたものなのではないでしょうか。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、文字記録が今までのところ確認されていない旧石器時代から、世界最古の文明である私たち日本の国史を、「唯物論的歴史観」という西欧独特の誤った歴史観で観るのではなく、本来の正しい日本の国史のあり方を提示されている良書となります。

さて、昨日のところで、「桃太郎」の昔話が語り継ぐ、私たち日本の国史について、書かせて頂きましたが、本文中に「欠史八代」と書かれていた時代のお話であり、戦後の妙なイデオロギーを持つ、「唯物論的歴史観」という西欧独特の誤った歴史観で無理矢理に、私たちの日本の国史を語ろうとする歴史学者が未だに存在しているために、現代の子供たちは学校の教科書で正しい歴史を学ぶことが出来なくなっています。

もし、「欠史八代」を正しいものとして、その間の天皇の存在を否定するのであれば、辻褄の合わない事実が、次々と生じることになります。

昨日の続きになりますが、第十二代景行(けいこう)天皇の皇子である日本武尊(ヤマトマケルノミコト)も、「桃太郎」の「吉備」と関連するお話が出てきます。
日本武尊(ヤマトマケルノミコト)の東征の従者の一人とされる人物に、吉備武彦(きびのたけひこ)がいますが、これは鬼退治で吉備を平定した大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と異母弟(それぞれの母親は第三代安寧天皇(あんねいてんのう)の孫にあたる姉妹になります)であった、若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の子孫になります。
で、その吉備武彦(きびのたけひこ)の娘が大吉備建比売(おおきびのたけひめ)、別名・吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)が、日本武尊(ヤマトマケルノミコト)の妃の一人になります。
このように、この時点ですでに、「欠史八代」なる珍説が論理破綻してしまいます(笑)
第三代安寧天皇(あんねいてんのう)が存在しないでのあれば、辻褄が合わなくなりますね💛

第十代崇神天皇(すじんてんのう)は、

崇神天皇
大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)(日本書紀:吉備津彦命)を「西道」に、大毘古命(おおひこのみこと)(日本書紀:大彦命)を「北陸」に、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)(日本書紀:武渟川別)を「東海」に、丹波比古多多須美知能宇斯王(たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ)(日本書紀:丹波道主命)を「丹波」に、「四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)」として派遣します。


このうち、「西道」に派遣されて、鬼を退治した大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)(日本書紀:吉備津彦命)のお話が「桃太郎」の昔話として語り継がれているわけです。
第十代崇神天皇(すじんてんのう)は3世紀前半に実在した天皇で、同じ時代に生きていた大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)(日本書紀:吉備津彦命)の陵墓が中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)になります。

大吉備津彦命墓 拝所
昨日のところで書かせて頂きました、吉備津神社と吉備津彦神社が存在し、桃太郎の鬼退治の拠点だったと考えられるその場所に、

大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)(日本書紀:吉備津彦命)の陵墓である中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)が存在しています。

中山茶臼山古墳
さて、お話を戻しまして、第十二代景行(けいこう)天皇の皇子である日本武尊(ヤマトマケルノミコト)は、九州や東北の征伐に派遣されるのですが、その東征に付き従ったのが吉備武彦(きびのたけひこ)で、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)(日本書紀:吉備津彦命)の異母弟の子孫であり、その娘が日本武尊(ヤマトマケルノミコト)の妃の一人になります。
そして、備中国風土記逸文には、次の記述が見られます。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 備中国風土記逸文である『宮瀬川』(みやせがわ)によると、賀陽郡に『伊勢御神社』(いせのみかみのやしろ)の東に河があり、河の西に『吉備建日子命宮』(きびたけひこのみことのみや)があるので、この河を『宮瀬川』と称した、とある。」
『伊勢御神社』(いせのみかみのやしろ)というのは、恐らく、現在の岡山県総社市にある神明神社(しんめいじんじゃ)ではないかと思われるのですが、その場所を地図で確認してみましょう。


図中の黄色の丸の部分が、さきほどの桃太郎の鬼退治の拠点だったと考えられるその場所になります。
そして、海水面を上昇させてみますと。。。

☆Flood Maps
先ほどの記述の中で、『伊勢御神社』(いせのみかみのやしろ)の東に河があって、その河の西に『吉備建日子命宮』(きびたけひこのみことのみや)がある、とありましたが、その河が古代の高梁川(たかはしがわ)ではないかと考えられています。
高梁川(たかはしがわ)の支流である小田川の堤防決壊によって、甚大な被害をもたらした最近の西日本豪雨のニュースでも、皆さんの記憶に新しいのではないでしょうか。

☆小田川治水工事 完成時期前倒しへ 真備地区視察の石井国交相表明
余談になりますが、上のニュースにあります、高梁川と小田川の合流地点付近にある柳井原貯水池は、そもそも明治40年に始まる改修工事で、もともと東西の2本(東高梁川・西高橋川)の流れであったものを、現在に見られる一つの河川の形へと整備した結果、旧西高梁川の一部を貯水池として残したもので、一部ではありますが、元に戻すような工事をしていることになります。

さらに申し上げますと、岡山平野西部の高梁川下流域は、現在の倉敷市の酒津から南に三角州や干拓地・埋立地が拡がっているのですが、この平野の三角州は、もともとは酒津を頂点とする半径数キロメートルほどの小規模なものでしかなく、その南側には瀬戸内海の入り江が広がっていました。それが、江戸時代になってからの本格的な干拓が始められて以降、現在のような形へと変化していったわけです。

試しに、海水面を上昇させてみますと、こんな感じ(↓)になり、そのことが良く理解できるのではないかと思います。

☆Flood Maps
本日は長くなりましたので、ここまでとさせて頂きますが、『伊勢御神社』(いせのみかみのやしろ)の東に河があって、その河の西に『吉備建日子命宮』(きびたけひこのみことのみや)がある、とあり、その河が古代の高梁川(たかはしがわ)ではないかと考えられているわけですが、それでは、その古代の高梁川(たかはしがわ)はどのような流れであり、『吉備建日子命宮』(きびたけひこのみことのみや)は、果たして何処にあるのでしょうか。

続きは次回に♥
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Re: タイトルなし * by みっちゃん
omachiさん、こんばんは^^
ご訪問&コメント有難うございます。
なるほど!奈良時代へのタイムスリップは、とても面白そうですね💛
ですが、当ブログが興味を持っているのは、私たち日本人が、「圧倒的に世界最古の文明」だとされているところ、にあります。
「仏教」が入る前に、すでに、高度な「思想」・「思考」を保持していたというところが、非常に重要だと思っています。
それらを保持していたからこそ、聖徳太子から始まる「神仏習合」が可能であったのではないでしょうか?
それでは、私たち日本人が「仏教」が入ってくる以前に保持していた「思想」・「思考」って、何でしょうか?
それを忘れている日本人の方々が、残念ながら、非常に多いのではないかと、当ブログでは考えています。
ということで、これからも何卒宜しくお願い致しま~す☆彡
ご訪問&コメント有難うございます。
なるほど!奈良時代へのタイムスリップは、とても面白そうですね💛
ですが、当ブログが興味を持っているのは、私たち日本人が、「圧倒的に世界最古の文明」だとされているところ、にあります。
「仏教」が入る前に、すでに、高度な「思想」・「思考」を保持していたというところが、非常に重要だと思っています。
それらを保持していたからこそ、聖徳太子から始まる「神仏習合」が可能であったのではないでしょうか?
それでは、私たち日本人が「仏教」が入ってくる以前に保持していた「思想」・「思考」って、何でしょうか?
それを忘れている日本人の方々が、残念ながら、非常に多いのではないかと、当ブログでは考えています。
ということで、これからも何卒宜しくお願い致しま~す☆彡
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。