2018-06-07 (Thu)

浦賀水道と外洋の境
浦賀水道(うらがすいどう)は、三浦半島と房総半島に挟まれた海峡である。太平洋と東京湾とをつないでいる。広義では東京湾の一部とされることもある。
三浦半島と房総半島に挟まれ、外洋との境となる三浦市剱崎と館山市洲崎を結ぶ線から、東京湾との境となる横須賀市観音崎と富津市富津岬を結ぶ線に囲まれる海域である。中央部の海底は海水面の低下した氷河期に河川に侵食された東京海谷と呼ばれる深い溝をなす。面積は約400km2。京浜工業地帯や一大消費地である東京都市圏の海の玄関口である東京湾と外洋を結ぶ、海上交通の要衝である。
『古事記』や『日本書紀』に記された日本神話によれば、日本武尊の東征において、相模から上総に渡ろうとした際、突然暴風が起こって海が荒れ進退窮まる。そこで、后の弟橘媛が尊に替わって海に入ると暴風が収まり、この水路を馳水(走水)と名づけたと伝えられている。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 〈 其(そこ)より入り幸(い)でまし、走水(はしりみず)の海を渡る時に 〉

焼遺(やきつ)の火攻めの謀略を返り討ちにした【倭建命】(やまとたけるのみこと)は、さらに東へ進んだ、と【古事記】は記す。【走水の海】とは、相模国の三浦半島から上総国の房総半島への海、現在の東京湾【浦賀水道】である。

浦賀水道の範囲(水色の部分)
このルートは宝亀二(771)年、武蔵国が東山道から東海道に編入され、相模国が武蔵国と直結する以前の駅路(古東海道)。

☆「東海道への誘い」国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所

☆「東海道への誘い」国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所
【古代の人々】は、【湿地帯が広がる東京湾沿岸を避けて海路を通った】のである。十二代景行天皇(けいこうてんのう)の御子である【ヤマトタケル】も当然のように、【この海路を通った】。最短距離7キロ程度。しかし、潮の流れが激しい難所でもある。
〈 其の渡(わたり)の神、浪を興し、船を廻らし、え進み渡らず 〉
古事記は、海を渡ろうとしたヤマトタケルの苦難をそう書く。日本書紀は、それほどの苦難を予想もしなかったヤマトタケルの油断にまで筆を走らす。
〈 「是小海(これちひさきうみ)のみ。立跳(たちはしり)にも渡りつべし」とのたまふ。及(すなは)ち海中に至り、暴風忽(たちまち)に起り、王船漂蕩(ただよ)ひて渡るべくもあらず 〉
飛び越えてでも渡れるほど小さい海だと侮ったヤマトタケルを突然、暴風が襲ったのである。
「 暴風の記述の背景には、三浦半島の勢力が大和政権に抵抗し、敗北したことがある」
神奈川県藤沢市郷土歴史課の荒井秀規学芸員はそう話す。大和政権の相模国進出は二段階とされる。3世紀末~4世紀前半、上下関係を固定しないゆるやかな同盟関係を結び、4世紀後半から従属を迫る進出があった。その際の戦いで、征海権を握っていた地元勢力が「渡の神」のモチーフではないか、という指摘である。

同県逗子市、葉山町境で出土した【長柄桜山(ながえさくらやま)古墳群】は4世紀代の築造。【畿内式の前方後円墳】2基で、いずれも県内最大級の全長90メートル前後あり、三浦半島の権力者を埋葬したとみられる。

☆「長柄桜山古墳群 -ながえさくらやま-」逗子市HP
「 この地では4世紀中ごろ、急に大規模な【前方後円墳】が登場しました。抵抗する勢力が畿内式を採用できたとは考えにくい」

1 桜山うつき野遺跡 2 地蔵山遺跡 3 逗子市No.118遺跡 4 内藤屋敷跡 5 持田遺跡 6 台山稲荷下遺跡 7 沼間台遺跡 8 沼間南台遺跡 9 菅ケ谷台地遺跡 10 沼間ポンプ場南台地遺跡 11 池子遺跡群 12 池子桟敷戸遺跡 13 葉山町No.2遺跡
☆「長柄桜山古墳群 -ながえさくらやま-」逗子市HP
かながわ考古学財団(横浜市)の柏木善治調査研究部長はそう話し、同古墳築造の時代には【三浦半島は大和政権に服属】していたと推測する。
〈 妾(やつこ)、御子に易(か)はりて海に入らむ 〉
暴風に翻弄される船で、ヤマトタケルにそう言ったのは后(きさき)、【弟橘比売命】(おとたちばなひめのみこと)だったと古事記は書く。【オトタチバナヒメ】が身を投じると、荒立つ波が収まった。
同県横須賀市走水の【走水神社】は、【ヤマトタケル】と共に【オトタチバナヒメ】を祭る。

ヤマトタケルが臨時の御所を設け、軍旗を立てたと伝わる岬は【御所ヶ崎】とも【旗山崎】とも呼ばれる。その沖合にはオトタチバナヒメが侍女と一緒に身を投じたと伝わる【「むぐりの鼻」】がある。
「 偉業の陰の妻の献身は、【女性なしで歴史は語れない】ことを示しています」
同市在住の歴史研究家、鈴木かほる氏はそう話す。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本が誕生する際、『古事記』には描かれていない関東から東側の地域を、ヤマトタケルの活躍によって、西側の大和政権の下に統一をしてゆく過程を、その足跡を綿密な取材によって辿ることで、読者に具体的にイメージを描かせる良書となります。

さて、本書のご紹介も本日で最後になりますが、『古事記のミステリー』について、少し書かせて頂きたいと思います。
これまでのところで、『古事記』・『日本書紀』は、当時の最高権力者・藤原不比等(ふじわらのふひと。本名は史(ふひと)。)の下で作成された歴史書ですが、同じ時代を描いているにもかかわらず、何らかの目的を持って、書き分けていたと考えられるということを書かせて頂きました。

『藤原不比等』菊池容斎
その藤原不比等のお父さんが、私たちの日本の「国史」において、最大の氏族である「藤原氏」の始祖にして、『大化の改新』の中心人物である、中臣鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原鎌足(ふじわら の かまたり)で、藤原氏の元となる中臣氏の祖が天児屋命(あめのこやねのみこと)で、「天孫降臨」により、邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から地上世界(九州)へと降り立つ際に、一緒に付き従った神さまの1人になります。

菊池容斎画 藤原鎌足肖像
天児屋命(あめのこやねのみこと)は「祭祀」を司る神で、他にもう一柱の「祭祀」を司る神がいらっしゃります。
天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に御隠れになられた際、岩戸の前で祝詞(のりと)を唱え、天照大神が外を覗こうとしたときに鏡を差し出した神さまで、邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から地上世界(九州)へと降り立つ際に、一緒に付き従った神さまの1人になります。
その神さまが、天太玉命(あめのふとだまのみこと)で「祭祀」を司る神です。
古事記において布刀玉命(ふとだまのみこと)、日本書紀において太玉命(ふとだまのみこと)と表記されている天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖とするのが斎部氏(いんべうじ)で、名を「斎部」と改める(803年)以前は忌部氏(いんべうじ)でした。
つまり、こんな感じ(↓)になります。

○天児屋命(あめのこやねのみこと) ⇒ 中臣氏(なかとみうじ) ⇒ 中臣鎌足=藤原鎌足 ⇒ 藤原氏
○天太玉命(あめのふとだまのみこと) ⇒ 忌部氏(いんべうじ) ⇒ 斎部氏(いんべうじ)
※ただし、藤原氏を名乗るのは藤原鎌足の嫡男・不比等とその子孫のみで、他の者は中臣氏に復するように命じられています。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 忌部氏(いんべうじ)、のち斎部氏(いんべうじ)は、「忌部」または「斎部」を氏の名とする氏族。
天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族で、「忌部首(いんべのおびと)」、「忌部連(いんべのむらじ)」、「忌部宿禰(いんべのすくね)」のち「斎部宿禰」姓を称した。古代朝廷における祭祀を担った氏族である。
氏族名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。しかしながら、勢力を増す中臣氏に奈良時代頃から押され始め、固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著された。しかしその後も状況は変わらず、祭祀氏族の座は中臣氏・大中臣氏に占有されていった。
部民としての忌部には、朝廷に属する品部(ともべ = 職業集団)と忌部氏の部曲(かきべ = 私有民)の2種類が存在した。品部である忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。事績の少なかった中央氏族と異なり、こうした地方氏族は随所に跡を残している。
『古事記』や『日本書紀』では、天岩戸の神話において天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天児屋命(あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は天孫降臨においてもともに付き従っている。そのうち天太玉命が忌部氏の祖、天児屋命が中臣氏の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。なお、記紀では天児屋命の方が天太玉命よりも重要な役割を担っているが、これは編纂当時の中臣氏と忌部氏の勢力差を反映しているとされる。逆に忌部氏側の『古語拾遺』ではその立場は逆転している。」
このように「祭祀」を司る神々の子孫である両氏がライバル関係にあり、お互いの主張を書き遺していることが理解できるかと思います。『古事記』・『日本書紀』は、当時の最高権力者・藤原不比等(ふじわらのふひと)の下で作成された歴史書ですから、当然、藤原氏の書き描きたい事が書かれており、そして知られたくないことは書かれてはいないはずなんです。

『古事記』には、日本が誕生する際、関東から東側の地域は描かれてはいません。
伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)による「国生み」で生まれたのは、下図の赤い丸で囲っているところのみです。つまり、赤い丸で囲っているところ以外に「高天原」があるはず、ということになります。

「国生み」のあと、「神生み」があって、そして天照大御神(あまてらすおおみかみ)のお話に移ってゆき、「出雲の国譲り」ののちに、「天孫降臨」によって邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から地上世界(九州)へ渡り、その際に、天児屋命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)は付き従った、という一連の流れになりますが、これを裏付けるのが、縄文時代の中期から後期にかけての、日本列島の人口分布の変化です。

今から約4000年前に、突如、西日本では最大規模かつ関東風の建造物(本野原遺跡)が造られます。

詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆関東風の遺跡が九州に存在するナゾ ~ 西日本最大級・宮崎県の「本野原遺跡」

☆皇居があったことを端的にしめす地名 ~ 「宮崎」

そして、その頃までは、九州をはじめ西日本では「農耕」がなかったのではないかと考えられているのですが、一方で、東日本では約5000年前には「農耕」が行われていたことが判明しています。九州はじめ西日本において、「農耕」が行われていた形跡が確認されるのは、今から約4000年前から後のことになります。つまり、東日本が1000年ほど先行していることになります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆御存知ですか?古代日本の民族大移動 ~ あさっては『紀元節』の日です

また、「国生み」で生まれた島々には、ある共通点があります。それは、貴重な資源である石器の材料となる「黒曜石」や「サヌカイト(讃岐岩)」などの産地だった、ということです。
ちなみに、東日本では、伊豆諸島の神津島(こうづしま)にまで「黒曜石」を採りに行っていた時期も判明しておりまして、それが今から38,000年前のこととなります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆古代の日本は、実はスゴ~く、資源大国だった?!

ところで、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を御祀りするのが世界遺産である「春日大社」ですが、

☆春日大社HP
主祭神は、四柱の神々になり、当然、中臣氏(のちの藤原氏)の祖である天児屋命(あめのこやねのみこと)とその妻である天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)が祀られているのですが、残りの二柱の神々を御存じでございますでしょうか?
しかも、こちらの方が上位に御祀りされているのですが。。。
○ ( )
○ ( )
○天児屋命(あめのこやねのみこと)
○天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)

答えは、建御雷神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)です。どちらも、東日本の神さまです。

『 鹿島神宮に祭られている神はタケミカヅチ(建御雷神)です。

香取神宮に祭られている神はフツヌシ(経津主神)です。

どちらも、オオクニヌシ(大国主命)がアマツカミ(天津神。高天原にいる神々)に「国譲り」をする「葦原中国平定」の際、最前線に立って物事を終結させる重要な神です。
古事記にはタケミカヅチのみ登場します。アマテラスが八百万の神々と協議の結果、選出し、オオクニヌシの勢力を平定すべく派遣したのがタケミカヅチです。
日本書紀では、タカミムスビ(高皇産霊尊)が天津神に集合をかけて協議した結果、タケミカヅチとフツヌシの二神の派遣が決まり、平定に成功します。
古事記では、国譲りの代償として、出雲の地に《わたくしの住所を天の御子の帝位にお登りになる壮大な御殿のとおりに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木を高く上げてお作り下さる》(武田祐吉訳注『新訂古事記』角川書店)ことを、タケミカヅチはオオクニヌシに約束します。これが出雲大社(島根県出雲市)の由緒です。したがって、出雲大社の原型は太古の鹿島神宮にあると言うことができるでしょう。
鹿島神宮と香取神宮は、現在もまた、天皇陛下が毎年元旦に執り行われる「四方拝(しほうはい)」の対象となる神社に数えられています。平安期には、伊勢神宮とともに「神宮」の名を称された、ただ二つの神社でした。そして、そこに祭られているタケミカヅチとフツヌシは、関東を本拠とした神なのです。
では、垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代になってから「伊勢に居」ることに決めたアマテラスは、それまでどこにいたのでしょうか。
アマテラスもまた東国、広く関東・東北を本拠とする神でした。それ以外には考えられないということを、ここ10~20年の考古学的発見をもとに明らかにしていきたいと思います。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆西の出雲を平定した、東の「日高見国」

いかがでしょうか?
当時の最高権力者・藤原不比等(ふじわらのふひと)の下で作成された歴史書に、知られたくないことは書かれてはいないはず、という部分がここです。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 元々は常陸の多氏(おおのうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国つ神)で、海上交通の神として信仰されていた 。さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。」
つまり、中臣氏(のちの藤原氏)の祖の天児屋命(あめのこやねのみこと)も東日本が本拠地だったということです。
ちなみに、奈良にいる鹿は、鹿島神宮の鹿の子孫で、現在でも鹿島神宮の境内には鹿がいます。
それでは、本日の最後になりますが、「走水神社」をお参りさせて頂いた時の写真を載せさせて頂きます。






ぜひ、皆さまも、お参りに行ってみて下さい❤
続きは次回に♥
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