2018-04-19 (Thu)

飛鳥宮跡 石敷井戸
関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。
672年に壬申の乱という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都(飛鳥浄御原宮)一帯を守る為に、東山道に不破関(ふわのせき)、東海道に鈴鹿関(すずかのせき)、北陸道に愛発関(あらちのせき)、と3つの大きな関所(三関)を設置させた。 こうしてこれ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【伊勢神宮】の記録資料『太神宮諸雑事記』に、【天武天皇】(第四〇代)の御代、朱雀三年(685)の9月に【式年遷宮】の制度が定められたとあります。

『集古十種』「天武帝御影」
伊勢神宮が現在のような姿に、また、格式を超えた最も尊ぶべき神社とされたのはこの【7世紀から8世紀】、【天武天皇】から次代【持統天皇】の時代だと考えられます。

現代にも受け継がれている【神社に関する諸制度】もまた、【天武天皇】が整備着手したものだとされています。大宝律令(701年)にそれは反映されており、【平安時代】の律令の施行細則【『延喜式』(927年)】に【当時の全国の神社一覧リスト】があります。
「延喜式神名帳」というそのリストを見ると、おもしろいことがわかります。【「神宮」の名称がつく神社】は、【「大神宮(伊勢神宮内宮)」】と、そして、【「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)】、【「香取神宮」(千葉県香取市)】の【3つだけ】です。


これは、関東の、しかも互いに20㎞ほどしか離れていない、茨城県にある「鹿島神宮」と千葉県にある「香取神宮」が、伊勢神宮と変わらず【重要な神社だと認識されていたことを意味】します。


一般的に、堂々とした「神宮」というその正式名称の通り、伊勢神宮が神社の大元で神社というものはすべてここから派生したというイメージを持っている方は多いと思います。長くて深い歴史を経て現在、伊勢神宮が日本を代表する精神的な場所、日本そのものを体現する風景となっていることは間違いありませんが、古い歴史をよく見てみると、【今まで注目されることのなかった、しかしきわめて重要な点】が多数現れます。

【『常陸国風土記』】には、【鹿島の地】において、
《 淡海の大津の朝(天智天皇の御代)に、初めて使人を遣りて、神の宮を造らしめき。それよりこのかた、修理(つくろ)ふこと絶えず》
とあります。【神の宮とは鹿島神宮】を指しており、一見、この、天智天皇の時代に【鹿島神宮が「初めて」造られたと読まれがち】ですが、【「初めて」なのは、使人の派遣】です。

初めて使人を派遣して鹿島神宮の体裁を整え、後の伊勢神宮の式年遷宮、出雲大社の造替遷宮にあたる「修理」を欠かさないようにした、というのがこの記録の本義です。

また、【鎌倉時代に成立】したとされる【『鹿島宮社例伝記』】には、【神武天皇元年に宮柱が建てられた】、とあります。

これらのことから、鹿島神宮宮司で神道研究家の岡泰雄氏は編著『鹿島神宮誌』(1933年)の中でこう述べています。
《 当神社は【神武天皇の御即位の年に創祀されている】から、【その時に社殿もできた】と思われる。しかし、【それ以前にも神子神孫が奉斎していた】ようであろうから、【社殿ももっと前からあった】と思われる。しかし、いずれにせよ太古の家屋は簡素で久しくはもたなかったであろう。》

かたや【香取神宮】は、社伝では、【神武天皇十八年の創建】と伝えられています。しかし、日本書紀の神代下に「一書に曰く」として、
《 斎主(軍の主将)の神を斎の大人(いはひのうし。【フツヌシ】という神のことを指しています)と號(よびな)す。この神、いま【東国の楫取(香取)の地に在す】。》
とあり、岡泰雄氏が述べたように、鹿島神宮と同じく【香取神宮もまた、「神武天皇以前にも神子神孫が奉斎していた」】と考えられます。

つまり、【関東の鹿島神宮と香取神宮】は、【垂仁天皇の御代に建てられた伊勢神宮よりも、はるか昔に創建されている】のです。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の神話に秘められた「謎」の部分を、最近の研究成果から紐解いていく、非常に知的好奇心をくすぐる良書となります。また、現在の我が国の「歴史学者」という肩書を持った連中の中に、未だに多く潜り込んだままとなっている、前世紀の遺物である「マルクス主義史観」に凝り固まった輩(⇒これが我が国の歴史研究における元凶なのは言うまでもありませんがw)についても、容赦なく斬って捨てていらっしゃる著者の姿も、非常に逞しく、好感が持てます。みなさんも、ぜひ、御一読なさってみて下さい。

さて、本日は、昨日までのまとめとして、本書が示唆している重要なポイントを見ておきたいと思います。
繰り返し申し上げますが、古事記の冒頭には、「佐渡島」を除いて、日本列島の東側が出てきていません。

ところが、古代日本の推定人口及び推定人口密度は、

今から約5500年前から4500年前とされる縄文時代中期が最も人口が多いのですが、古事記には描かれていない関東地方と中部地方で人口が多く、かつ人口密度が高いわけです。同じく古事記には描かれていない東北地方でも、面積が広いために人口密度は低くなりますが、人口そのものは多いんです。
縄文時代の人口は、東日本が多くて、西日本は少ないんです。


そして、縄文時代後期(約4500年前から3300年前)には、中部以西の人口が増加し、西日本では九州が最大の人口を抱える地域となっています。

で、ちょうど、この頃に、現在の宮崎県にある、約2万年前の旧石器時代から縄文時代にかけての複合遺跡である『本野原遺跡』において、東日本風の縄文集落が形成されます。これは、西日本最大の遺跡であり、極めて希有な存在でもあります

☆JAPAN GEOGRAPHIC 宮崎県宮崎市 本野原遺跡
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆関東風の遺跡が九州に存在するナゾ ~ 西日本最大級・宮崎県の「本野原遺跡」

さて、これは一体何を意味しているのでしょうか?

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、すなわち、のちの神武天皇の生誕の地も、その近くに存在しています。「高天原」を連想させる宮崎県の高原町(たかはるちょう)に、それは残っています。
『 〈 年(みとし)十五にして、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ 〉
生まれながらにして明達(さか)しく、意かたく……とカムヤマトイハレビコノミコトの資質を書く日本書紀はすぐに、15歳以後の様子に筆を移す。古事記はいきなり、イハレビコが兄たちと東征の謀(はかりごと)を行うくだりを記す。つまり記紀は、イハレビコの幼少時に全く触れていないのだ。
〈 狭野(さの)一帯の山野を駆けめぐって遊ばれたと伝えられる 〉
イハレビコの生誕地の有力候補、宮崎県高原町(たかはるちょう)の皇子原神社(おうじばるじんじゃ)の前にある碑「神話史跡」にはそう記されている。イハレビコの幼名、狭野尊(さののみこと)の由来とされる狭野神社の伝承では、イハレビコは15歳まで、高千穂峰東麓のこの地で過ごした。
霧島火山帯最大の火口湖「御池(みいけ)」にもイハレビコゆかりの「皇子港(おうじみなと)」という伝承地があり、イハレビコが泳いで遊んだと伝えられる。
霧島火山帯最大の火口湖「御池(みいけ)」にもイハレビコゆかりの「皇子港(おうじみなと)」という伝承地があり、イハレビコが泳いで遊んだと伝えられる。
この地からは高千穂峰が正面に望める。御池は今、130種類の野鳥が生息するバードウォッチングの聖地。同町に残る伝承は、豊かな自然の中で伸び伸びと育ったイハレビコの幼少期を想像させる。
「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂国(みずほのくに)は我が御子の知らす国」
古事記では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がこう言ってオオクニヌシノミコトに国譲りさせ、孫ニニギノミコトを高千穂峰に天下らせた。
ここに語られる国は、永遠にみずみずしい稲穂の実る国という意味の最大の美称である。シラス台地が広がる霧島周辺は広大な水田には適していないが、狭野神社の松坂督亮宮司はこう話す。
「宮崎平野を潤す大淀川の源流で水が豊富な狭野一帯では稲作が可能でした。狭野という地名は、稲作ができる貴重な土地という意味。狭野尊は水のある地を探して田を作ったと想像できます」
狭野一帯を稲作先進地と考える考古学的な根拠もある。稲作はもともと、中国の長江流域で発生し、北九州に最初に伝来したとされてきたが、宮崎県の都城市やえびの市など高原町周辺の遺跡で近年、稲を収穫するための石包丁や土器にこびりついた籾殻(もみがら)、国内最古級の水田跡など、初期稲作の痕跡が次々と発見されたのだ。
宮崎県埋葬文化センター元所長の北郷泰道氏はこう指摘する。
「朝鮮半島や南西諸島とも交流があった南九州は、北九州とは別ルートで稲作が伝来した可能性があります」
皇子原の「神話史跡」の碑には続きがある。
〈 やがて成人になられ、高千穂峰を仰ぎつつ将来の国造りの構想を練り、郷土高原を出発した 〉
高原町内には構想を練ったという伝承地「宮の宇都(うと)」もある。父、ウガヤフキアエズノミコトの皇居と伝わる。
「稲作を広めることを話し合ったのでしょう。稲作が普及することで日本は豊かな水穂国となった」
松坂宮司は、種籾(たねもみ)を手に高原を後にするイハレビコの姿を想像している。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆日本で最初の国立公園 ~ イハレビコゆかりの地

もう、お分かりですね❤
そう、『天孫降臨』です。

東日本にあった「高天原」から、天照大御神の命を受けて、九州の宮崎県へとやって来た、このことを物語っていると考えているのが当ブログです。
では、どうやって?
それは、もちろん「海路」によって、です❤

詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆5000年前の日本人が、北海道と青森県の間を船で輸送していたモノ

続きは次回に♥
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