2018-04-18 (Wed)

葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、日本神話において、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。国譲り(くにゆずり)ともいう。
天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わした。大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【鹿島神宮】に【祭られている神】は【タケミカヅチ(建御雷神)】です。

【香取神宮】に【祭られている神】は【フツヌシ(経津主神)】です。

どちらも、オオクニヌシ(大国主命)がアマツカミ(天津神。高天原にいる神々)に【「国譲り」】をする「葦原中国平定」の際、【最前線に立って物事を終結させる重要な神】です。

【古事記】にはタケミカヅチのみ登場します。【アマテラス】が八百万の神々と協議の結果、選出し、【オオクニヌシの勢力を平定すべく派遣したのがタケミカヅチ】です。

☆出雲観光協会HP
日本書紀では、【タカミムスビ(高皇産霊尊)】が天津神に集合をかけて協議した結果、【タケミカヅチとフツヌシの二神の派遣】が決まり、【平定に成功】します。
古事記では、国譲りの代償として、出雲の地に《わたくしの住所を天の御子の帝位にお登りになる壮大な御殿のとおりに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木を高く上げてお作り下さる》(武田祐吉訳注『新訂古事記』角川書店)ことを、タケミカヅチはオオクニヌシに約束します。これが【出雲大社(島根県出雲市)の由緒】です。したがって、【出雲大社の原型は太古の鹿島神宮にある】と言うことができるでしょう。

【鹿島神宮と香取神宮】は、【現在】もまた、【天皇陛下】が毎年元旦に執り行われる【「四方拝(しほうはい)」の対象となる神社】に数えられています。

平安期には、【伊勢神宮とともに「神宮」の名を称された、ただ二つの神社】でした。そして、そこに祭られている【タケミカヅチとフツヌシは、関東を本拠とした神】なのです。

では、垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代になってから「伊勢に居」ることに決めた【アマテラスは、それまでどこにいたのでしょうか】。

垂仁天皇
【アマテラスもまた東国、広く関東・東北を本拠とする神】でした。

【それ以外には考えられない】ということを、【ここ10~20年の考古学的発見をもとに明らかにしていきたい】と思います。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の神話に秘められた「謎」の部分を、最近の研究成果から紐解いていく、非常に知的好奇心をくすぐる良書となります。また、現在の我が国の「歴史学者」という肩書を持った連中の中に、未だに多く潜り込んだままとなっている、前世紀の遺物である「マルクス主義史観」に凝り固まった輩(⇒これが我が国の歴史研究における元凶なのは言うまでもありませんがw)についても、容赦なく斬って捨てていらっしゃる著者の姿も、非常に逞しく、好感が持てます。みなさんも、ぜひ、御一読なさってみて下さい。

さて、昨日までのところで、繰り返し書かせておりますが、古事記の冒頭には、「佐渡島」を除いて、日本列島の東側が出てきていません。

ところが、本文中にも書かれていた通り、今なお「四方拝」の対象となっている「鹿島神宮」や「香取神宮」に祭られている「東日本の神々」が、かつて西日本の大国であった出雲に「国譲り」させているわけです。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 四方拝(しほうはい)とは、毎年1月1日(元日)の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式。
祝祭日が法定された明治時代初期から1945年(昭和20年)頃までは、この宮中祭祀の行われる1月1日は四方節とよばれていた。
儀式の大要は次の通りである。1月1日(元日)の午前5時30分に、天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた仮屋の中に入り、伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神祇を拝する。この時に天皇が拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)である。」
こちらもご参照❤
↓
☆国譲り物語

「 『神社の系譜』(宮元健次著)では、
「 『常陸(ひたち)』とは『常世(とこよ)の国』の意味で、不老不死の聖地を指し、伝承では天に最も近い場所であると考えられてきたものという」
とあります。
しかも常陸には、「高天原(たかまがはら)」という地名の場所があるのです。そこは鹿島神宮から約2キロメートル東に離れた、神宮の飛び地である境内。
「 敷地の東隅に“鬼塚”と呼ばれる全長80メートルほどの大古墳があり、その上に立つと太平洋が一望のもとにおさめられ、西北に筑波山を望む絶景の地」
(『鹿島神宮』東実著)で、美しい松林が一面に生い茂る東側はすぐ鹿島灘の海岸という位置にあります。
この飛び地の本社、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮と、すぐ近くの千葉県香取市にある香取神宮が実は非常に重要な存在なのは意外と知られていません。
そもそも呼称に「神宮」が付くのは、最高に格の高い神社のみです。平安時代の『延喜式神名帳』で「神宮」の呼称で記されたのは、鹿島、香取、伊勢の三社だけだったのです。以後、明治までその扱いは変わりませんでした。
「神宮」と付く貴重な三社のうち、二社までが関東にあり、そのうちの一社の境内として「高天原」が残されている…ここには、なにか深い意味があるのではないでしょうか。
高天原とは高いところ、神々がおられるところを思わせ、富士山を思わせ、富士山の見えるところという意味もあるのでしょう。実は鹿島神宮、香取神宮は、富士山が見える範囲のほぼ東端に位置しています。つまり、鹿島神宮からは筑波山と富士山が見え、その飛び地てある「高天原」は富士山が見える東端であり、日が昇るところなのです。
ちなみに伊勢神宮のある伊勢のあたりは、平地から富士山が見えるほぼ西の端と言われています。富士山を仰ぐことができる東の端と西の端に三社しかない「神宮」が置かれていることにも、なんらかの意味が隠されているように思います。」
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆富士山を仰ぐことができる「東の端」と「西の端」

さて、一昨日のところで、古代日本の推定人口及び推定人口密度を確認しましたが、

「縄文時代・草創期」は、まだ依然として寒冷な気候であり、海水準も現在より数十メートル程度低かったと考えられていて、その後、気候が温暖化へと向かい、「縄文時代・中期」頃には、現在よりも2~3メートル海水準も高くなり、内陸まで海岸線が入り込んだ「海進」の状態となります。

☆Flood Maps
縄文時代では、「中期」が最も人口が多く、関東地方と中部地方で人口密度が高いということが、さきほどの表から読み取れるわけですが、面積が広い東北地方でも、人口そのものは多く、全体の傾向として、「縄文時代を通じて、人口は東日本に多く西日本に少ない」、「基本的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず、人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってから」ということも理解できると思います。

で、「縄文時代・中期」頃の、現在よりも2~3メートル海水準も高かった「海進」の状態で、さきほどの「鹿島神宮」と「香取神宮」の位置を確認してみますと。。。

上の地図の、どこに位置しているか、お分かりいただけますでしょうか?
さらに拡大したものが、これ(↓)です。


どのように神社が配置されているのかが、お分かりいただけましたでしょうか?
それでは、もっとハッキリとさせるために、「息栖神社」の位置も確認してみましょう。

☆神栖市観光協会HP



そして、その「息栖神社」に祭られているのが「久那戸神 (くなどのかみ)」です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。
主祭神
久那戸神 (くなどのかみ、岐神) : 社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。」
「 岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。
別名:久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀
「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。」
『古事記』に描かれていない、空白の日本列島の東側を埋める、本書で解説されている「日高見国(ひたかみのくに)」が、如何に「海路」を重視しているのかが、御理解いただけましたでしょうか?

それでは、本日の最後に、九十九里浜の名所も確認しておきましょう。

黒漆塗りの権現造りの社殿で有名なのが「玉前神社」です。

屋根も銅板葺になっています。

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 玉前神社(たまさきじんじゃ)は、千葉県長生郡一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神は次の1柱。
玉依姫命 (たまよりひめのみこと) : 社伝では、玉依姫命は海からこの地に上がり、豊玉姫命から託された鵜葺草葺不合命を養育した。のち鵜葺草葺不合命と結婚し、神武天皇(初代天皇)らを産んだとされる。」

その「玉前神社」から東南方向へ向かうと、有名な「東浪見(とらみ)の鳥居」があります。



ぜひ、皆さんも、足を運んでみて下さい。


続きは次回に♥
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