2018-03-07 (Wed)

ハプスブルク家の紋章
ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。
古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

ハプスブルク家の旗
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【国民国家】は【歴史を共有】することによって成立します。

では、現在の【ドイツ連邦共和国の起源】はどこまで求められるでしょうか。

ドイツ人の祖先といわれる【ゲルマン人】が歴史に登場するのは、【ローマ時代】です。

ゲルマン民族の大移動の推移(紀元前750年-1年)
【辺境の蛮族】と言われるゲルマン人が、西ローマ帝国を滅ぼして【フランク王国】を築きます。

フランク王国の時代別の領土

395年のローマ帝国の分割
フランク王国はフランスでシャルルマーニュと紹介した【カロリング朝・カール大帝】の3人の孫に相続されるときに、【西フランク王国】、【中央フランク王国】、【東フランク王国】に分かれます。この中の【東フランク王国がドイツの始まり】であると言われます。

カール1世死亡時のカロリング朝の版図 (フランク王国 814年)
東フランク王国になってから、カロリング朝の王族や姻戚関係のある貴族に国が分けられます。その地域にいた部族あるいは民族的なつながりというよりも、【行政単位に近いもの】でした。その後、911年に東フランク国王を世襲する【カロリング朝の血筋が絶える】と、血筋に頼らず、分国を受けた有力者(【選帝候】と呼ばれる)によって【選出する方法】をとるようになりました。

ヴェルダン条約(843年)以後における東フランク王国とその宗主権が及ぶ地域。
962年に【オットー1世】が、【ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠】を受けて以降の東フランク帝国は【「神聖ローマ帝国」】と呼ばれます。

『オットー1世』ルーカス・クラナッハ
フランク王国が分かれる前に【カール大帝が受けた位】は、この後、継続して【東フランク国王が継承】しますが、【皇帝の地位はキリスト教会(教皇)に依存】し、【国王の地位は選帝候の合意に依存】するため、【皇帝・国王の地位は強いものではありません】でした。

現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷
オットー大帝以後、290年は世襲王朝が続きますが、【再び血筋が絶える】と、国王も皇帝も選出できない【「大空位時代」】が生じます。

1273年にローマ教皇が【ハプスブルク家】のルードルフを国王に選んで落ち着きますが、このころからドイツは皇帝の国でありながら、【選帝候と呼ばれる複数の有力諸侯の国】としての性格が強くなっていきます。

その後、1438年のアルブレヒト2世以降、【オーストリア大公であるハプスブルク家が帝位を独占】するようになりました。

アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)
その意味で、ここからの神聖ローマ帝国というのは、【ハプスブルク家の歴史】となります。

その後、神聖ローマ帝国は弟の【フェルディナント】が継承し、スペインのハプスブルク家は息子の【フェリペ】が継いで【2系統に分かれます】。…

1547年時点でのハプスブルク家の領土
【ハプスブルク家】は【フランスを挟むように勢力圏】を広げているので、【双頭の鷲】とも言われます。

ハプスブルク家の紋章のモチーフに双頭の鷲が使われるのは、これに由来します。

ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の紋章
【オーストリア=ハプスブルク家】は、1519年に【カール5世】が【神聖ローマ皇帝とスペイン王の2つの地位】を手に入れたときに【絶頂期】を迎えます。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、世界史の教科書に書かれている主要な国家の歴史が、如何に真実から乖離したものであるのか、またそれらの国々と比較したときに、私たちの日本が如何に優れた悠久の歴史を持つ国家であるのか、といったことが俯瞰して理解できる良書となります。ただし、著者が読者に伝えたい真意は、本来であれば、その気になりさえすれば、如何様にもなる優れた私たちの日本であるのに、現実は果たしてどうか、という重要なメッセージを問いかけているところにあります。

現在、私たちが認識する「ヨーロッパ」と呼ばれる地域は、そのほとんどが、もともとのヨーロッパではなく、未開の辺境の地域でしかありませんでした。

日本の「縄文時代」に遅れること数千年、ようやく先進的な「メソポタミア」や「エジプト」で「文明」が勃興するのが「オリエント」と呼ばれる「東洋」で、他方、「田舎(いなか)」でしかなかったのが、「エウロペ」と呼ばれる、現在のギリシャ周辺の限られた地域でした。これが「西洋」のもとになります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆「古代」がある国々、「古代」がない国々


そして、その「田舎(いなか)」でしかなかった「エウロペ」と呼ばれる、現在のギリシャ周辺の限られた地域の北西部に広がる一帯に、もともと住んでいたのがケルト人です。

ケルト人の分布(ヨーロッパ中心部が紀元前1500年から紀元前1000年、それ以外の部分が紀元前400年
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆「ドイツ語」と「フランス語」が混じってできたのが「英語」なんです


ローマの領域の変遷
もちろん、「ローマ帝国」の「ローマ」も、イタリア半島から生じたのですから、「オリエント」と呼ばれる「東洋」から見て、「田舎(いなか)」でしかなかった「エウロペ」=「西洋」よりも、もっと「田舎(いなか)」だったということになります。

上の図の「ローマの領域の変遷」を眺めて頂くと、そのローマが「エウロペ」=「西洋」を飲み込む様子がみてとれます。

2世紀初頭のローマ帝国。
2世紀初頭のローマ帝国の領土が上図になりますが、緑部分がローマの支配を受けない「大ゲルマニア」、ローマ領となったライン川西部と南部を「小ゲルマニア」と呼び、これらを併せた地域が「ゲルマニア」で、紀元前55年及び紀元前53年に、ローマ人として初めてこの地に侵攻したのが「ガイウス・ユリウス・カエサル」になります。

「クレオパトラとカエサル」 ジャン=レオン・ジェローム画 (1886年)
紀元9年、ゲルマン系の族長「アルミニウス」に率いられたゲルマン諸部族軍とローマ帝国軍が激突します。「トイトブルク森の戦い」です。

トイトブルク森の戦い
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 トイトブルク森の戦い(トイトブルクもりのたたかい、羅: Clades Variana、ドイツ語: Schlacht im Teutoburger Wald)は、紀元9年にゲルマン系ケルスキ族の族長アルミニウスに率いられたゲルマン諸部族軍とローマ帝国の間で行われた戦いである。ゲルマン諸部族はゲルマニア総督(ライン方面総司令官)の配下のローマ軍団をほぼ全滅させた。トイトブルクの森の戦い、トイトブルクの戦いとも称される。なおドイツ語ではローマ軍総司令官の名を取ってウァルスの戦いと呼ばれる。」

トイトブルクの森
「 ローマ軍の総司令官はプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスであった。彼は由緒正しい家柄の貴族であり、7年にゲルマニア総督に就任した。ウァルスの軍は、3個ローマ軍団(第17軍団、第18軍団、第19軍団)と、アウクシリア(補助兵)6個大隊、同盟軍騎兵3個大隊から構成されていた。

プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスと会見するゲルマン部族
ウァルスはこの地のゲルマン諸部族に貢ぎ物を求めるだけで、あえて征服しようとはしなかった。ケルスキ族他の諸部族はウァルスのこの平和主義をうまく利用し、戦争の準備ができるまでの時間稼ぎをした。

機が熟すと遠方の部族がローマ帝国に対して反乱を起こした。ゲルマン人の一部族であるケルスキ族からの援助を取り付けたウァルスは、軍を組織してこれらの部族を討伐するための軍事行動を開始した。
ローマ軍が分け入った「トイトブルクの森」は、道も細く、辺りは沼沢地であった。さらに、天候は激しい嵐となっており、行軍するローマ軍の隊形は乱れ、組織的な行動ができなくなっていた。アルミニウスはローマ軍との正面衝突を避けて、森の中に兵を潜めると共にローマ軍へのゲリラ戦を仕掛けた。このような待ち伏せ攻撃は連日、繰り返し行われた。それでもローマ軍は一歩も引かなかったが、雨とともに続く襲撃によって一方的に殺戮され、およそ2万人のローマ軍兵士が死亡、ウァルスは自決した。

トイトブルク森の戦いで奮戦するアルミニウス
この敗北を聞いた皇帝アウグストゥスは、「ウァルスよ、我が軍団を返せ!」(Quintili Vare, legiones redde!)と叫んだといわれている。当時のローマ軍は国境線防衛に必要な数以上の常備軍を備えておらず、ウァルスの敗北はライン方面の軍団が消滅したことを意味した。このためウァルスの軍団の後背地にあたるガリアはゲルマン人侵攻の恐怖に包まれたといわれ、アウグストゥスは暴動が起こらないように戒厳令を実施した上で、各属州総督の任期を延長した。」
この戦いの後も、ローマによるゲルマニア侵攻が行われたものの、最終的にローマによる征服を阻止したこともあって、2000周年を迎えた2009年に、ドイツで記念式典が行われたほどの英雄になります。

アルミニウス立像(デトモルト)
で、このゲルマニアに侵攻する前に、カエサルが侵攻し、支配したのが現在のフランス、ベルギー、スイスおよびオランダとドイツの一部に相当する地域の「ガリア」でした。この地に住んでいたガリア人はケルト人の一派になります。ちなみに、現代ギリシャ語の「ガリア」(Γαλλία) は、フランスのことを意味しています。

ガリアの地勢図(紀元前1世紀)
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ガリア戦争(ガリアせんそう、ラテン語:Bellum Gallicum, ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、紀元前58年から紀元前51年にかけて、共和政ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現:フランス、ベルギー、スイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争を指す。」
この戦争で、ローマに抵抗した「アンビオリクス」は英雄であり、ベルギーのトンヘレン(トンゲレン)に銅像が立っています。

アンビオリクスの銅像

また、現代ギリシャ語の「ガリア」(Γαλλία) 、フランスでは、「ウェルキンゲトリクス」がフランス最初の英雄とされています。

ウェルキンゲトリクスの像
上の画像は、フランスのクレルモン・フェランという町のジョード広場にあるウェルキンゲトリクスの像です。

もっとも、どれほど英雄視されていたとしても、結局は支配されちゃったのですが。。。

『カエサルの足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス』リオネル・ロワイエ(1899年)
ところで、どうして、こんなに長々と書かせて頂いているかと申しますと、13世紀になって、「ローマ教皇がハプスブルク家のルードルフを国王に」選んだわけですが、その「ハプスブルク家」というのは、「ガイウス・ユリウス・カエサル」と同じ、「ユリウス氏族」に属している一族(⇒自称ですがw)だからです。

つまり、ケルト人の住む地に、ゲルマン人が侵入し、ローマ人と争い、最終的に分裂後の西ローマを滅ぼし、「フランク王国」を作り、やがて3つ分かれ、いわゆる「西欧」を形成する土台となるわけですが、あろうことか、敵であったはずの「ガイウス・ユリウス・カエサル」の一族を、自分たちの「王さま」として喜んで迎え入れたという流れになってしまう訳で、こんな「訳のわからない歴史」を、さも「継続した歴史」であるかのように語っているのが、現代の西欧諸国になります。
私たち、日本人が形成してきた「日本の歴史」とは、明らかに異なっていることがご理解いただけましたでしょうか?

続きは次回に♥
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