2018-03-04 (Sun)

租税(そぜい、税(ぜい)、英: tax)とは、国や地方公共団体(政府等)が、公共財や公共サービスの経費として、法令の定めに基づいて国民や住民に負担を求める金銭である。現代社会においてほとんどの国が物納や労働ではなく「お金(おかね、その国で使用されている通貨)」による納税方法を採用しており、日本では税金(ぜいきん)と呼ばれている。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 皆さんは【「一揆」】と聞くと、【どのようなものをイメージ】するだろうか。


私が高校時代の同級生などに尋ねると、たいていは【「農民が竹槍を持って悪代官を襲う」といった答え】が返ってくる。おそらく、この【漫画『カムイ伝』(白土三平著)的イメージ】が【一般的な一揆認識】であろう。

ところが、【竹槍で戦う一揆が登場するのは、実は明治になってからのこと】なのである。

百姓一揆に関する史料を網羅的に蒐集(しゅうしゅう)した青木虹二(あおきこうじ)氏の研究によれば、【江戸時代に発生した百姓一揆は3710件】である。そのうち、一揆が竹槍で役人を殺害した事例は【わずか1件にすぎない】。

明治初年、明治新政府の西洋化・近代化政策に反発する、いわゆる【「新政府反対一揆」】が頻発した。この時代に【一揆が武器として用いたのが竹槍】であった。…

「三重県下頌民暴動之事件」月岡芳年画
【教科書】に「竹槍でドンと突き出す二分五厘」という言葉が載っていたことを覚えているだろうか。相次ぐ地租改正反対一揆を受けて、明治10年に新政府が地租を3%から2・5%に引き下げたことを風刺した川柳である。この頃には【「一揆と言えば竹槍」という認識が広まっていた】のだろう。
こうした竹槍一揆は【明治10年代には沈静化】し、【民衆の反政府運動は自由民権運動へと移行】する。よって、【竹槍一揆の歴史はわずか10年ちょっとに過ぎない】、ということになる。にもかかわらず、【一揆→竹槍という連想が今も根強いのは、なぜだろうか】。

このような【通俗的イメージの形成】には、どうやら【自由民権運動が一役買っている】ようだ。新政府反対一揆の挫折後、民権家は【竹槍一揆を「古代野蛮の風習」として否定的に捉え、進歩的・平和的な自由民権運動の優越性を説く】ようになった。…竹槍をふるって暴れるのはもう古い、それよりも国会開設を要求していこうじゃないか、というわけだ。…

朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの征韓議論。1877年(明治10年)鈴木年基作
【江戸時代の百姓一揆】は【竹槍を武器として用いなかった】ので、【竹槍一揆は時代遅れどころか、直近の流行である】。だから「古代野蛮の風習」という捉え方は明らかに誤りなのだが、【この誤解は以後の一揆研究者にも継承】された。「明治の竹槍一揆は前代の百姓一揆の延長線上にある」という【思いこみから百姓一揆研究が完全に解放されたのは、1980年代以降のこと】である。…

しかし【現実の竹槍一揆】は、長い一揆の歴史の中で、【たった10年を占めるにとどまる】のだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、戦後の「マルクス主義史観」に基づく歴史教育の流れの中で、現在でも、間違った解説を続けている典型的な例である「一揆」について、最新の研究に基づいた「正しい理解」を提示し、これまでに考えられていた「一揆」のイメージを180度反転させてくださる良書となります。

さて、著者が書かれているように、「農民が竹槍を持って悪代官を襲う」というような「一揆」のイメージは、実は大変な誤解であり、そもそも「江戸時代の百姓一揆」ですら「竹槍を武器として用いなかった」とありましたように、明治時代の初頭の「伊勢暴動(1876年/明治九年)」など、「竹槍一揆」は明治時代の産物だったわけです。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 伊勢暴動(いせぼうどう)は、1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾(そうじょう)事件となった。
現行の高等学校「日本史」の教科書では、茨城県で発生した真壁騒動(真壁一揆)と並び、地租改正反対一揆の代表とされている。この暴動を通して、地租が3%から2.5%に引き下げられたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた。」
ここで、「地租改正」についても確認しておきましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 地租改正(ちそかいせい)は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。」

と、ここで、「日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した」と書かれているのですが、果たして事実に基づいた記述なのでしょうか?

奈良時代の聖武天皇の治世に、天皇の名において、「墾田永年私財法」という命令(=「勅(ちょく)」)が下されました(743年)。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 (原文) 勅。如聞。墾田拠養老七年格。限満之後、依例収穫。由是農夫怠倦、開地復荒。自今以後、任為私財無論三世一身。悉咸永年莫取。其国司在任之日。墾田一依前格。但人為開田占地者。先就国有司申請。然後開之。不得回並申請百姓有妨之地。若受地之後至于三年。本主不開者、聴他人開墾。
天平十五年五月廿七日
(訳文) (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、期限が到来した後は収公していた。しかし、そのために農民は怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は三世一身に関係なく、全ての場合において、永年にわたり私財としてよいこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後に開拓を認める。また、公衆に妨げのある土地の場合は、占有の申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。
天平15年5月27日 」

聖武天皇
『 神亀元(724)年から天平勝宝元(749)年にわたる聖武天皇の治世こそ、奈良が絶頂を極めた時代というべきでしょう。
ところが、戦後の歴史家たちはこの時代を評価していません。
この時代にも政権争いはありました。疾病もあったし、天災も起こりました。これらは大なり小なり、いつの時代にもあるものです。そこばかりに目を注いで強調していたら、時代の本当の姿は見えてきません。しかし、戦後の歴史家たちはそういうものがすべてであるかのように、この時代を述べてきました。
挙げ句には、それをしずめるために大仏殿を建てたり、日本中に国分寺をつくったりして、人々はその労役に駆り出され、ひどい目に遭って大変苦しんだなどと言い出す始末です。
思い込みで歴史を語ってはいけません。事実を見ていかなければなりません。彼らは進んで国家の仕事に協力したのです。少数のをそれが多数であったかのように取り上げてはなりません。
朝廷は開墾を奨励し、それまで国家の統制が及ばなかった未墾地が開かれていきます。中でも大きかったのが、天平十五(743)年に出された墾田永年私財法です。これは新しく開墾した土地の私有を認めるものです。これによって、人々の開墾への意欲は大いにかき立てられ、水田が広がっていきました。有力な貴族や寺院、地方豪族も盛んに私有地を広げていきました。
歴史を語るなら、こういう新しい動きに注目すべきでしょう。
国の起こりや歴史をまとめようという動きも出てきました。律令政治の仕組みが整って、国家の自覚が強くなった表れです。それが…『古事記』の成立です。稗田阿礼が以前からあった『帝紀』や『旧辞』を暗記し、天皇の由来を語る物語などを加えて口承し、それを太安万侶が書き取ったものです。和銅五(712)年に朝廷に献上されました。
『日本書紀』は朝廷の事業として編纂されました。天武天皇の皇子の舎人親王が中心になって編纂されたもので、記録性が強く意識された歴史書です。養老四(720)年に完成しました。
また、地方の伝説や地理、産物などを書いた『風土記』も出されました。これは和銅六(713)年のことです。これら数多くの文献の出現は、この時代の文化の成熟にほかなりません。…
聖武天皇は鎮護国家のために平城京の中央に東大寺を建立し、16メートルの高さがあるブロンズ(青銅)の大仏をつくらせました。…

その制作を担ったのは国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)でした。この人の大変すぐれた手腕は、『続日本紀』という公式記録で絶賛されています。
中国の大仏は岩場を掘ったものですが、東大寺の大仏は素材がブロンズです。大変な技術を要する大事業です。これを成し遂げた国中連公麻呂は大いに称賛されていい。ところがどういうわけか、この人の名は歴史の中であまり語られていません。おかしなことです。国中連公麻呂はもっとクローズアップされていい存在です。


大仏建立に要する費用を集めるために広く一般から寄付を募る勧進の役目は、民衆に人気のあった行基(ぎょうき)という僧侶に依頼されました。
聖武天皇は次のような詔を出されています。
「 朕(ちん)は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継いだ。
朕の志は広く人民を救うことであり、努めて人々を慈しんできた。国土の果てまで思いやりと情け深い恩恵を受けているはずであるが、天下のもの一切がすべて仏の恩恵に浴しているとはいえない。そこで三宝(仏・法・僧)の威光と霊力に頼って、天地とも安泰になり、よろずの代までの幸せを願う事業を行って、生きとし生けるものことごとく栄えることを望むものである。
そこで天平十五年、菩提の大願を発して、廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像一体をおつくりすることにした。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙に広め、これを朕の智識(ほとけに協力する者)としよう。そして最後に朕も衆生(しゅじょう)もみな同じように仏の功徳を蒙(こうむ)り、ともに仏道の悟りを開く境地に至ろう。
天下の富を所有する者は朕である。天下の権勢を所持する者は朕である。この富と権勢をもってこの尊像をつくるのは、ことはなりやすいが、この願いを成就することは難しい。ただいたずらに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪におちいることを恐れる。…国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵したり、乱したり、無理に物資を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向を知らしめよ」
この聖武天皇のお言葉には、権勢を誇る気持ちと人民を思う心が同時にあり、それをもって大仏をつくろうと呼びかけています。大仏制作で天下のもの一切が仏恩に浴するようにと望んでおられることがよく伝わってきます。
聖武天皇はさらに国家の安定を祈って、全国に国分寺と国分尼寺を建てさせました。七重塔が各地に建てられました。この時代を天平と呼んだのは、天下が平らであることを願われたからですが、実際にそうだったといえるでしょう。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆日本の大仏 VS 中国の大仏 ~ 偉人・国中連公麻呂

「日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した」のが、本当はいつの時代であったのか、もうご理解いただけたのではないでしょうか?

そもそも、私たちの日本において、古来より、その年の収穫物を、感謝の気持ちを込めて、神さまに「お供え」する習わしが存在していました。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 初穂(はつほ)とは、日本において秋の稲の収獲に先立って神に献じる熟した稲穂のことである。早穂(はやほ)、先穂(さきほ)、最華(さいか)などとも言う。
古代においては、祭祀を主導した豪族がその費用や供物とするために…徴収したものが初穂であったという。後に…律令政府が確立されると、初穂は律令政府を代理する国府に納められる田租(でんそ・「租」)へと転換して、後の租庸調制を構成する1つとなったとされている。
今日、伊勢神宮では神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)に先立って抜穂祭(ぬいぼさい)が行われており、その他の神社や一部地域の民間でも秋の収獲祭より以前(八朔、重陽など)に抜穂の行事を行う所がある。これが初穂の元来の形と考えられる。元々は文字通り稲(を含む穀物)の穂であったが、後に穀物以外のものにも拡大され、その年初めて獲れた野菜や海産物、狩の獲物を神仏に供えるものも初穂と呼ぶようになった。さらには、そのような初物の代わりとして献じられる金銭をも指すようになった。今日、神社に納める金銭のことを「初穂料」と呼ぶのはこれに由来する。米を納める場合でも、稲穂が米粒に代わり、「散米」と称して撒いたり、白紙に包んで「おひねり」として供えたりした。さらには、炊いた飯や餅として供えるものも現れた。
このような、その年初めてのものを神に供えるという初穂の習慣が、後に、「初物」と呼んでそれを貴んだり、近隣や知人の間で初物を贈りあったりする習慣に発展した。」

つまり、神さまへの感謝の気持ちを表す「初穂」こそが、私たち日本の「税金」の原型ということになります。

明治時代の初頭に、「地租改正」、つまり「税金」を巡っての不満が溜まりに溜まって、「地租改正に反対する一揆」が頻発したのは事実です。
でも、それは、明治新政府が当時置かれていた状況や、それまでの「納税(=年貢)」の在り方の変更などを多面的に考えなければならない事象であって、ほんの一時的に新政府に対する「反政府」・「反権力」の暴動が生じた現象は、私たち日本の悠久の歴史を考えたときに、微妙な誤差の範囲に属する「無視しても良い事象」でしかないもので、それを殊更(ことさら)に強調したいという「マルクス主義者」が、教育界に存在している事実。そのことに対して、私たち日本人は、もっと声を挙げていかなければなりませんね❤

☆「ベトナム民間人虐殺という蛮行を犯した韓国軍は日帝残滓であり日本軍の分身」発言の立命館大学・徐勝教授に研究費が2,000万円も支出されていることを杉田水脈議員が問題視 「誰が審査をしているのか公表してほしい」

☆杉田議員、『韓国軍蛮行は日本のせい』発言の大学教授に支払われた研究費を指摘 「全くのデタラメ。こういった事を発言する人の所に二千万円以上の研究費が入っている」
続きは次回に♥
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