2018-03-03 (Sat)

☆特別史跡 三内丸山遺跡
「 三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。
平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。
また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。」
古代(こだい、英: Antiquity)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 本書では主に【中世の一揆】について検討を加える。【日本史学】では基本的に【古代・中世・近世・近現代という形で時代区分が行われており】、中世は大まかには鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・戦国時代・安土桃山時代といった時代を指す。ただし近年は、院政が行われた平安時代の末期を「中世」のはじまりと考える研究者が増えている。
【なぜ近世(江戸時代)の一揆ではなく、中世の一揆をメインにすえるのか】と言うと、後に述べるように、【この時代こそが一揆の最盛期だから】である。

【一揆】は【中世という変革期に誕生】し、【この時代にピークを迎えた】。

歴史の授業や時代劇の影響からか、【一揆の代表は江戸時代の百姓一揆だと思っている人が少なくない】が、実のところ【百姓一揆は本来の一揆が変質した姿でしかない】。

【中世の一揆がスタンダード】なのである。

一揆が歴史の表舞台に登場するのは、【南北朝時代】からである。南北朝の動乱によって既存の秩序や価値観が崩れ、【時代の変化に対応した新しく人間関係】が模索される中で、【一揆】は生まれた。中世の一揆からは、【現代の「人のつながり」を考察する上での多くのヒントを得ることができる】だろう。…

【一揆】という言葉からは、【大勢の人間がより集まって共に行動する様を想像しがち】である。

これは【一揆を「階級闘争」として思い入れたっぷりに評価してきた歴史学界の研究姿勢と無縁ではない】。【革命や暴動のイメージで一揆を捉えようとする】と、大規模で派手な武力闘争だけに目が行ってしまう。多くの人間が集まらなければ一揆ではない、ということになる。

だが、実は【一揆】とは、あの織田信長をさんざんに苦しめた【一向一揆のような巨大なものばかりではない】。【たった二人しかいなくても一揆は結べる】のだ。

【一揆の本質】は【体制を倒す実力行動ではなく、人と人とをつなぐ紐帯にある】と私が主張するゆえんである。…』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、戦後の「マルクス主義史観」に基づく歴史教育の流れの中で、現在でも、間違った解説を続けている典型的な例である「一揆」について、最新の研究に基づいた「正しい理解」を提示し、これまでに考えられていた「一揆」のイメージを180度反転させてくださる良書となります。

さて、著者が書かれている通り、現在の私たち日本の歴史教育において、「古代・中世・近世・近現代という形で時代区分」が行われています。
それでは、「古代」とか「中世」とか「近世」とか「近代」とか「現代」といった言葉の定義がキチンとなされているのかと言いますと、これが全然デタラメなんです。
何故かと言いますと、そもそも、そのような「時代区分」を必要としていたのが「西欧社会のみ」で、その区切り方も、考え方も、すべて「ユダヤ教的な思考」と「数学の論理」が混じり合って、重なり合って、そのような思考の流れの中から「人工的に生み出された西欧独特の時代区分」だから、私たちの日本にはまったく「該当しない」んです。

日本の歴史教育における「時代区分」がデタラメだということは、これまでにも書かせて頂いておりますが、西洋史における「時代区分」と日本史におけるそれとは、トンデモないズレが生じています。

これは、私たちの日本には無関係な概念を、無理やり当てはめようとすることで生じている「明確な誤り」です。
まず、ラテン語で「日が昇る方角」を意味する「オリエント」と呼ばれる地域で、「メソポタミア」と「エジプト」という大きく2つの文明が栄えます。

その「メソポタミア」や「エジプト」で文明が起こるのは、私たち日本人が「縄文時代」だった頃で、何千年も経たあとに生まれたものです。

ここで、仮に、その時代を「古代」だとしてみましょう。
私たち日本の「縄文時代」に遅れること数千年、ようやく先進的な「メソポタミア」や「エジプト」で「文明」が勃興するのが「オリエント」と呼ばれる「東洋」で、他方、劣位にあったという表現は正しくないかもしれませんが、平たく言いますと、「田舎(いなか)」だったのが、「エウロペ」と呼ばれる、現在のギリシャ周辺の限られた地域でした。これが「西洋」のもとになります。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画『エウロパの誘拐』
詳しくはこちらをご参照❤
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☆僕たちがヨーロッパなんだ! ~ ヨーロッパの民主主義と奴隷制度

その「メソポタミア」と「エジプト」の両文明の距離は、どのくらい離れていたでしょう?

実は、私たちの日本で言えば、東京から福岡ぐらいの距離で、非常に近く、「オリエント」として一つの文化圏・経済圏を形成していきます。

『 ここで改めて地図を見ていただきたい。現在のエジプトとイラクの間には、ヨルダンとイスラエルの二つの小さな国があるだけで、首都カイロとバグダードの距離はわずか1200キロ。高速道路なら東京ー福岡間ほどの距離しかない。これをどう見るかである。確かに文明の発生は、それぞれの大河によってもたらされたものかもしれないが、時を経て、文明が成熟してくると、二つの文明は密接に交わり始める。別々に捉えて完結させるよりもむしろ、ひとつの「オリエント」として見る必要があるのではないだろうか。
一帯の歴史を見るにおいて、日本語では、なかなか発音しにくい地名や人の名前がたくさん登場する。また、いずれもが、すでに失われた文明として、イメージしにくいというのもあるかもしれない。しかし少しずつでもひもといてゆくと、そこには今に生きるさまざまな事象の誕生があり、失われた文明というよりも、今もなお生き続けているということが分かるはずである。「オリエント」をたずねることにはそんな意味がある。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆人類最古の農業が行われたところは?

で、その「オリエント」(メソポタミア+エジプト)を最初に統一したのが、「アッシリア」(前2500年~前605年)でした。但し、オリエントの統一を果たしたのは、末期の頃になります。

アッシリア王アッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)の浮き彫り
さきほどのところで、「現在のエジプトとイラクの間には、ヨルダンとイスラエルの二つの小さな国があるだけ」とありましたが、現在のイスラエルの地域は、もともと「パレスティナ」と呼ばれる地域で、「ペリシテ人」が居住していた地域でした。

アッシリア帝国の版図
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 「ヘブライ人」(Hebrews)という名称は、一説には、ヘブライ語の「イブリー」(עִבְרִי)に由来し、語根となっている「通る、そばを通る、過ぎ越す、渡る」という意味の動詞「アーヴァル」(עָבַר)が転じたもので、「河(=境界)の向こうから河を越えて来た者」という意味とされている。
紀元前2千年紀初頭の楔形文字の記録には、アッカド語(アッシリア・バビロニア語)の「ハビル」または「ハピル」という語が出てくる。「ハビル人」または「ハビル人」は、南部メソポタミア、小アジア、ハラン・マリ地方で活動していた。
紀元前14世紀頃のエジプトの文書では、「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナで略奪行動を行っていたことが確認できている。このアピル(シリアやメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれた)は民族名を指すものではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系の無法者やならず者といった社会階層を指す言葉であった。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人のカナン進出に何らかの関係があったと考えているが定かなことは分かっていない。
紀元前1200年前後は「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した。最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲヴ北部などに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違いが無い。」
と、このように、「メソポタミア」と「エジプト」の中間点の「パレスティナ」に「海の民」が居住を始め、そのパレスティナで略奪行動を繰り返していたのが、「ヘブライ人」あるいは「ハビル人」あるいは「ハピル人」あるいは「アピル」で、その中に「イスラエル人たちの部族」が含まれていたと考えられています。

『 『旧約聖書』の主要部分は、前7世紀末のパレスティナのユダ王国で成立しました。パレスティナの語源は、海上から来て海岸地帯で農業をしていたペリシテ人からきています。前13世紀初め、北アラビアの砂漠から出て来たヘブル人は、最初はこのペリシテ人の支配下にあった遊牧民集団でした。
最初に海から入ってきた人たちがペリシテ人で、この人たちが住んでいたところに砂漠の遊牧民であるヘブル人が入ってきた。いまはパレスティナがイスラエルによって占領されていますが、イスラエルよりもパレスティナのほうが歴史が古いのです。そういう順番です。
歴史というのは古くから名前のあるほうに優先権がある、占有権が生じます。国際政治では現状維持(ステイタス・クオ)が非常に重要視されていますが、文書で「昔、ここに住んでいた。私はその子孫だから権利がある」とあれば、それを証拠に採用して国際紛争を公平に収めようという意識がとても強い。だから、パレスティナという名前を持ったこと自体が、われわれにはユダヤ人よりももっと古い権利がある、『旧約聖書』の時代から名前があるんだという主張になるのです。
前11世紀末、ヘブル人の12部族が統一されてイスラエル王国が建国されます。このときに12部族が結んだ同盟の契約を監視する神として選ばれたのがヤハヴェ(エホバ)でした。

分裂前のイスラエル王国(紀元前11世紀~紀元前8世紀)
このときヤハヴェは唯一神ではなかった。イスラエル人はまだ一神教徒ではありませんでした。ギリシアも神話に見られるように多神教ですし、エジプトにもたくさんの神様がいた。イスラエルにも12部族ごとに神様がいました。
そのあと、ユダ部族出身のダビデがイスラエル王となり、ペリシテ人を撃破してイェルサレムに都を定め、ダビデの息子のソロモン王はヤハヴェの大神殿を建設しました。ダビデ王やソロモン王の話は、ヨーロッパ人は大好きなので、多くの絵画の主題になっています。

紀元前830年代のユダ王国(黄色)
ソロモン王の死後、王国はダビデ家に忠実な南部のユダ王国と、北部のイスラエル王国に分裂します。200年たった前720年、北部のイスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされ、北部の10部族の人々は帝国の各地に移住させられて消滅します。イェルサレムのユダ王国だけが残りました。

フランチェスコ・アイエツ『エルサレム神殿の破壊』
前627年にアッシリア帝国が滅亡すると、ユダのヨシヤ王は北部を奪い返します。前621年、イェルサレムのヤハヴェ神殿の修復を行ったときに、神殿から「申命記」の写本が発見されました。
その写本には、
「イスラエルの民はヤハヴェ神と契約を結び、ヤハヴェ以外の神々を信仰しないと誓ったのに、契約に背いたので、ヤハヴェはイスラエルに対して怒っており、罰としてイスラエルを滅ぼそうとしている」
と書かれてありました。本来は部族同盟の契約であったものが唯一神との契約にすり替えられたわけですが、ヨシヤ王はこの新解釈を文字通りに受け取った。
「ヤハヴェを唯一神として信じなかったから私たちは滅ぼされた。これからは心を入れ替えて、ヤハヴェだけを信仰します」
として、ヤハヴェ以外の神々の祭壇や神像を破壊したのです。
こうしてユダ王国で、人類の歴史上初めて一神教の王国が誕生することになったわけです。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
ユダヤ人の単純思考の素 ~ バビロン捕囚

少し長くなりましたので、本日はここまでとさせて頂きますが、「一揆」のお話から始まって、日本の歴史教育における「時代区分」の間違いを指摘するつもりが、私たち日本人が「縄文時代」を迎えて、その後何千年も経たあとに生まれた文明でしかない、「メソポタミア」や「エジプト」を併せた「オリエント」の勃興期を確認している中で、それを史上初めて統一した「アッシリア」、そして「オリエント」の一地域でしかないパレスティナで、略奪行動を繰り返していた「イスラエル人たちの部族」を含む山賊、現在で例えれば「イスラム国(IS)」ですが、そこからヘブル人の12部族が統一されイスラエル王国の建国となり、のちに「イスラエル王国」が南と北に分裂し、やがて、「北だけ」がアッシリア帝国に滅ぼされ、何故か「南だけ助かっている」・・・という流れになってしまいました(笑)

まだまだ、「時代区分」は「古代」のままでしかなく、要領の悪さをご指摘いただくことになるかもしれませんが、そこは大目に見て下さい❤
で、最後に、これは当ブログの勝手な仮定の1つに過ぎませんが、どうして南のユダ王国は、アッシリアに滅ぼされなかったのでしょうか?

答え(仮説) ⇒ 「裏切った」 「北を売った」
と考えると、とてもスッキリとするのですが。。。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
あっ、それから、もう1つ。
ここまでの「古代」という「時代区分」では、イギリスも、フランスも、アメリカも、ロシアも、ドイツも、イタリアも、スペインも、スイスも登場していませんが、歴史を語る上で、その「時代区分」というのは、本当に必要なことなのでしょうか?

続きは次回に♥
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