2018-03-02 (Fri)

一揆(いっき)とは、『孟子』に由来する言葉で、本来は揆(やり方、手段)をひとつにするという意味で、平安時代後期から鎌倉時代には武家が団結する意志や集団行動を表す言葉として使われているが、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた。江戸時代になると、幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。こういった誤解のため、日本の一揆が英訳されて日本国外に紹介されるに際しても、 riot, revoltといった暴動や反乱を意味する語として訳されるのが一般化してしまった。近世の「百姓一揆」もpeasant uprisingと英訳されて紹介されているが、現実にはpeasantの意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており、彼らはむしろ英語で農場経営者を指す語であるfarmerと訳すのがふさわしい事を考慮すると、これも歴史的事実に即した英訳とは言えない。また逆に、政府に対する暴動、反乱を意味するドイツ語の「Putsch」を日本語訳する際にカップ一揆、ミュンヘン一揆とするように「一揆」の語を当てることが慣用化している面があるが、これも中世の日本の一揆とは似て非なるものと言わざるを得ない。
室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
いわゆる暴動に該当するのは、一揆の形態のひとつに過ぎない、土一揆である。

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 しかし、どうしても【「一揆」】には、【革命的イメージ】がつきまとう。


2010年から2011年にかけてアラブ世界において革命が連鎖的に発生した際には(後に【「アラブの春」】と総称された)、インターネット上で
「日本の歴史で言えば【一揆のようなもの】」
とか
「世直し【一揆】」
とか、【「一揆」にたとえる】意見が目に付いた。

【反政府の民衆運動】を【「一揆」と捉える見方】は今に始まったことではない。1918年(大正七)、富山県の港町の女性たちが、地主や米問屋による米の買い占め・売り惜しみに反発して米を売るよう【強要】した事件、すなわち【米騒動】は、当時の新聞では【「越中女一揆」と報道】された。
いわゆる【60年安保闘争】も【「一揆」とみなされることがある】。ノーベル文学賞作家・【大江健三郎】の小説『万延元年のフットボール』(1967年)は、1860年(万延元)の【百姓一揆】と1960年(昭和三十五)の【安保闘争】を【重ね合わせ】た作品である。

これは、【世間一般がそのようなイメージを持っている】、という問題にとどまらない。

【専門家である日本史研究者も、多かれ少なかれ「一揆」を革命的なものとして捉えている】のである。

1981年に【東京大学出版会から刊行】された【『一揆』全五巻】は、今なお【一揆研究の基本文献】だが、このシリーズは序論で【一揆を「前近代日本の固有の階級闘争」と把握している】。

【階級闘争】は【共産主義の基本的な概念】で、非常に単純化して説明すると、【階級社会において被支配階級が支配階級による搾取を拒否するために展開する闘争のこと】である。

現代風に言えば、【反体制・反権力の抵抗運動】、といったところだろうか。その【究極の形態】が、【被支配階級が支配階級総体を否定する、つまり体制をひっくり返す「革命」】である。

カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは1848年に発表した【『共産党宣言』】において、【「すべての歴史は階級闘争の歴史である」と規定】している。

共産党宣言
階級闘争は繰り返し行われ、その度に社会は変革され、発展していく。そして、【無産階級(プロレタリアート)】による【政治権力の奪取(プロレタリア革命)】によって階級闘争の歴史は終わり、【共産主義社会が実現】する。これが【マルクスの唱える「階級闘争史観」という歴史観のあらまし】である。

それでは、【なぜ戦国時代や江戸時代の一揆が「階級闘争」と認定されたのだろうか】。

それは、【戦後を生きる歴史家の夢と希望】が【「一揆」に投影されたから】である。

軍国主義への反省から、【敗戦後の日本では共産主義が流行】した。【歴史学界でも「マルクス主義歴史学」が主流】となった。彼らは【共産主義社会を理想視】し、【日本における共産革命の成功に期待】した。

したがって、【戦後歴史学】では【「日本の人民が権力と闘った歴史」を明らかにすることが最重要の課題】となった。このような潮流の中で、【一揆史は「階級闘争の歴史」として研究された】のである。
「過去の歴史において、民衆は一揆を起こして権力と闘った。我々も革命のために闘おうじゃないか!」
というわけだ。【こうした研究傾向】は、ソ連が崩壊し革命の夢が潰(つい)えてからも、多少の修正はなされたものの、【依然残っている】。

けれども本書で述べるように、【現実の一揆は常に権力と闘っていたわけではない】。

冷たい言い方をすれば、【前近代の一揆が「階級闘争」であるという主張は、事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるものである】。

つまり、【そう信じたかった】というだけの話なのである。

本当は、【暴動や革命より、むしろ「人のつながり」の一つのパターン】と見た方が、【一揆の実態に近い】のだ。…
そして、【一揆】を「階級闘争」ではなく【ソーシャル・ネットワーク】として捉えた時、【一揆は単なる“昔の出来事”ではなくなる】。【一揆研究が現代日本と接点を持つ】のだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、戦後の「マルクス主義史観」に基づく歴史教育の流れの中で、現在でも、間違った解説を続けている典型的な例である「一揆」について、最新の研究に基づいた「正しい理解」を提示し、これまでに考えられていた「一揆」のイメージを180度反転させてくださる良書となります。

さて、本日のところでは、「一揆」そのものについてではなく、現在の日本史学界に根づよく残る「マルクス主義史観」について確認して見たいと思います。
と、その前に、大江健三郎が出てきましたので、まずは、これを確認しておきましょう。

大江健三郎
『 日本でも、「リベラルの凋落」は、少なくとも数年前から始まっていました。
たとえば、リベラルの人たちの持つ特性としては、自らが言っていることと、やっていることが明らかに違う、という「二重基準性」があります。
この二重基準性はどこから来たものなのでしょうか。
実際に、「リベラルの評判が悪い」という毎日新聞出版書籍本部編集者による聞き書きの書『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞社刊)という長いタイトルの本の著者・井上達夫東大教授(法哲学者)は、「リベラリスト」を自認する学者です。その彼が「リベラルの問題」として、「言っていることとやっていることが違うという、ダブルスタンダード」にあると言い切っています。
リベラルなマスコミ人は、「反権力」や「報道・言論の自由を追及する」と言いながら、朝日新聞による一連の慰安婦報道のように、平気で根拠のない嘘の事実の記事を報道したりします。

☆【森友】『エビデンス? ねーよそんなもん』の高橋純子(朝日新聞)氏「裏付けとなるデータが不適切とわかったのだから顔を洗って出直してこい!
また、リベラルな政治家は、「戦争責任がある日本政府は、中国・韓国に謝罪せよ」と言いながら、自分たちは日本政府の税金から来る給料をもらって生活しています。
しかし、平成27(2015)年に出版された佐々木俊尚氏の『21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ』(NHK新書)では、こう言い切っています。
「 この勢力は長い間にわたって、新聞やテレビ、雑誌で強い発言力を持ち、自民党政権に対するアンチテーゼとして、日本社会に強い影響を与えてきた。
この勢力はたとえば、原発に反対し、自衛隊の海外派遣に反対し、日本国憲法9条を護持し、『国民を戦場に送ろうとしている』と自民党政権の集団的自衛権行使や特定秘密保護法案に反対している。文化人で言えば、【大江健三郎】氏や【瀬戸内寂聴】氏、音楽家の【坂本龍一】氏、学者では『九条の会』事務局長で東大教授の【小森陽一】氏、神戸女学院大学名誉教授の【内田樹】氏、経済学者の【浜矩子】氏。政治勢力としては【福島瑞穂】氏と【社民党】、【生活の党と山本太郎となかまたち】。元経産省官僚の【古賀茂明】氏。一緒にくくられることに抵抗のある人もいるだろうが、メディアの上で『リベラル勢力』という呼び方で視界に入ってくるのはそういう人たちだ。
しかし、この『リベラル勢力』は、いま完全にほころびているのだ。最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の『リベラル』と呼ばれる政治勢力はリベラリズムとはほとんど何の関係もない、彼らが拠って立つのは、ただ『反権力』という立ち位置のみである。」』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆桃太郎の鬼退治、安倍総理の「パヨク退治」

と、このように、私たちの日本で「リベラル」を自称している「左翼リベラル連中」、実は「隠れマルクス主義者」に属する連中で、自分たちの正体が「マルクス主義者」であるということを明らかにされたくないと考えている連中になります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆リベラルは左翼である、ということを隠したい「小林よしのり」の本音 ~ ヤマオパコパコ、ミパコパコ、合わせてパコパコ、ムパコパコ♪

で、その特徴が「二重基準性」であり「ダブルスタンダード」であるわけですが、それを言い換えますと「矛盾している」、つまり「論理的でない」「論理的思考ができない」ということになります。

さて、著者が書かれているように、『一揆』全五巻は、一揆研究の基本文献で、そこでの大前提が「一揆を前近代日本の固有の階級闘争」としているように、非常に露骨な「マルクス主義史観」が存在しています。

で、このクダラナイ本を書いたのが「青木美智男」になります。

青木美智男
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 青木 美智男(あおき みちお、 1936年(昭和11年) -2013年(平成25年)7月11日 )は、日本の歴史学者。元専修大学文学部教授。
福島県東白川郡棚倉町出身。明治大学文学部地理学科卒業。東北大学大学院文学研究科修士課程修了。日本福祉大学助教授・同教授を経て1997年4月より専修大学教授。2007年3月専修大学を定年退職。
専門は日本近世社会史・文化史。」

☆「広辞苑」に台湾が「中華人民共和国」の一部として表記されていることに対し、台湾が修正要求~ネットの反応「岩波書店じゃあしょうがない」

☆広辞苑、台湾を「台湾省」と20年前から記載 日本政府声明よりも踏み込んだ記述に「誤りとは考えていない」~ネットの反応「そういう立ち位置で発行されてると認識するべきだな」「岩波書店だしなあ」
あの辞典として信憑性が無くなったと言われている岩波書店の「広辞苑」にも、青木美智男の名前が載っていますが、「一揆」については書かれていないようで・・・。
☆『広辞苑』10年ぶりの改訂で「みうらじゅん」の名も登場。思うままに拾い読んでみたら凄さの本質が見えた
「マルクス主義史観」に基づいて、嘘の「一揆」の歴史を捏造したのが青木美智男ですから、功績を残したというよりも、日本の子どもたちに害悪を与えた存在と言っても良いでしょう。
この青木美智男と同じようなのが藤木久志で、こんな本(↓)を出したりしています。



朝日新聞と同様、平気で嘘を書いた本(粗悪品)が堂々と出版されていたりしますので、書物を選ぶ際には十分ご注意下さいませ。

☆朝日新聞元部長が示す「新聞社崩壊」驚愕のシミュレーション 2025年の新聞読者数は約2600万人~ネットの反応「押し紙で販売店に押し付けてる分を差し引いたら実読者数は半分以下になってるんじゃない?」
続きは次回に♥
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