2018-02-24 (Sat)

ジョーカー(Joker)は、トランプの中に含まれる特別なカードである。「ババ」とも呼ばれる。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 では、ここで、【日本と正反対】といっていい【欧米的な精神】をよく理解するために、【ジョーカーと呼ばれる道化師(どうけし)】について考えてみたい。

トランプの【ジョーカー】が、ジャックやクイーン、キングよりも【強く】、

エースよりも【強い】のは誰でもご存じのとおりだが、

そんな【ジョーカーという役割の者】を、【各宮廷の王様は必ず雇っていた】。

そして、荘厳このうえもない【宮廷】において、【ジョーカーだけ】はどんなふざけたことを言っても許され、いわば【オールマイティの位置づけ】をされていた。

『笑う道化師』ヤーコブ・コーネリス・ファン・オーストサネン 1500年頃
たとえば【絶対王朝時代の宮廷】においてすら、【家来】はもちろん、【女王】にしても、【王】にしても、【やっていいことと悪いことのけじめが厳然と存在】していた。

にもかかわらず、なぜ、【ジョーカーだけは、何をやっても許された】のであろうか…?

その理由は、まず【ユダヤ教的精神(ヘブライズム)】にまで立ち戻って考えなければわからない。

つまり【ユダヤ教の精神】によれば、【神だけが絶対】であって、被造物である人間は、どんなに絶対的に見えようと、つまり【国王といえども、絶対であるということはあり得ない】。

しかも、そこに【ギリシャ的精神(ヘレニズム)】に裏打ちされた【数学的、西欧的なものの考え方】がプラスされると、どういうことになるか。

【絶対でないもの】は、すなわち【仮説にすぎない】ということになり、見掛けだけはものすごく荘厳だとしても、所詮は仮説にすぎないとされる。

☆北朝鮮が軍事パレード実施、大陸間弾道ミサイルを4基披露
とすれば、当然、【馬鹿にしたっていい】わけで、西洋的論理主義の赴くところ、【それを許す存在がどうしても必要となってくる】。

☆「絶対に笑ってはいけない平昌五輪」 金正恩氏のそっくりさん、北朝鮮「美女応援団」に接近し退場に~ネットの反応「美女軍団反応してないな。笑ったら殺されそう」「ちょっとでも笑顔を見せたら帰国後収容所送りになるんだろうな」

☆【動画】平昌五輪に江頭2:50が登場!北朝鮮応援団の目の前で記念撮影
だが、そんな存在を正統的なものと見なす通念が一般に根づいては、絶対王朝にしても国王にしても困る。そこで、当時、【最も卑しい人間】だと考えられていた【道化師】に、その【特権が与えられた】のである。いずれにしても、【ヘブライズム的伝統】の上に【ヘレニズム精神】を接木(つぎき)するのに必要な緩衝剤(かんしょうざい)として、【ジョーカーは誕生】したわけである。

『宮廷道化師』ウィリアム・メリット・チェイス
しかも、こうした伝統は、今も生きている。

【西欧社会におけるユーモア精神】というのがそれである。

したがって欧米諸国の政治家の場合には、演説の際に【ジョークを特に重視】する。うまいジョークをスパッと言えれば、それだけで人気が出てくる。

だから、政治家は、皆、ジョークを作る専門職の連中から、ジョークのコツを習っている。

そして、演説の途中でうまくジョークをはさむのだが、それはホッと一息入れるということではなく、【私は今必死になって演説をしていますが、これだって仮説にすぎないんですよ、ということを強調するため】なのである。

この考え方をさらに進めていけば、【たとえ私に敵対するような意見が出てきても、それだってやはり仮説なのだから、お互い討論してよりよい意見に収束する努力を怠ったりしませんよ、ということになる】。これがまさに、【デモクラシー】というものの在(あ)り様(よう)なのである。

そういえば、【共産主義諸国の政治家たちの演説】には、およそ【ユーモアというものが感じられない】。

☆習氏の長~い演説、3時間半 出席者はあくびにトイレ
それは、【ギリシャ精神やローマン・カトリック精神と無縁】で、【被造物】である【皇帝】を【平気で絶対化】してしまうような【ビザンチン精神の流れを汲んでいるから】ではあるまいか。

つまり、【旧ソ連】は【デモクラシーというものの歴史的な洗礼を受けていない国】だったのである。

1895年のレーニン
【マルクスの考え方】からすれば、【資本制社会が滅びた後】に、【社会は社会主義、共産主義へ】と進化することになっており、

とすれば本来資本制的な遺産は、社会主義がすべて継承するはずであった。おそらく、【マルクス】にしてみれば、【イギリスかドイツに革命が起こると想定していたはず】で、【それがロシアという前近代的な国で起こってしまった】のだから、【大変な見込み違いであった】わけだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「数学」の本質である「論理」を知ることで、契約社会とも言われる欧米社会の根底にある「論理」や、キリスト教の精神の根幹にある「論理」などが、すべて「数学の論理」から説明することができ、一方で、それらとはまったく異なる、私たち日本人の思考方法に基づく「常識」が、「数学の論理」からは説明不可能であり、それらの日本人と欧米人の考え方の違いを「数学の論理」で浮き彫りにすることで、私たち日本人一人ひとりに「気づき」を与えてくれる良書となります。

さて、著者は、「日本と正反対といっていい欧米的な精神」を理解するための例として、「ジョーカーと呼ばれる道化師」を挙げ、「欧米的な精神」の根っこのところに大きく横たわっている「ユダヤ教」、そしてその後の「キリスト教」の考え方があり、そこに、もう一つの要素として「数学の論理」が加わって、一つの大きな精神体系を形成している、ということを解説されています。
以前にも書かせて頂きましたが、ユダヤ教やキリスト教の聖書の中、「創世紀」の最初に書かれている、第六日の部分に、次の記述があります。
・神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
このあと、神さまは第七日に休暇を取ります。
で、そのあと、再び、次の記述があります。
・主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
このあと、男(アダム)と女(イブ)のお話になるわけですが、私たち日本人は、「八百万の神々」と同じように「人」も「成る」もの、つまり、人間は自然とこの世に生れ出る存在、という風に考えているのに対して、ユダヤ教やキリスト教では、「唯一絶対の神」による「造り物」でしかないのが「人」となります。

しかも、ユダヤ教徒の考え方では、あとから、神さまが息を吹き込んだ「人」、つまり、男(アダム)から連なるのが自分たち「ユダヤ教徒」であり、それをゴイ(Goy、ヘブライ語: גוי)と呼び、それよりも以前に造られた「人」は、獣、家畜、海空の生き物と同時に造られたもので、男(アダム)とは異なる、ゴイム(goyim、גוים、גויים)だと考え、蔑(さげす)み、差別しています。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆こんなに違う!!! 『古事記』と「モーセ五書」
☆それって必要? ゴイ(Goy)とゴイム(goyim)の違い

それは兎も角、ユダヤ教徒やキリスト教徒の考え方の根底には、「唯一絶対の神」による「造り物」でしかない「自分たち」は、「唯一絶対の神」が「命じたこと」を絶対に守らないといけない、という風に考えてしまいます。
現代の私たち日本人からすれば、なぜ、そんなことに拘(こだわ)っているのか、と不思議で堪(たま)らないのですが、地球上に存在する、ユダヤ教徒やキリスト教徒、或いはイスラム教徒にとっては、まったく疑問を挟む余地がないんです。
で、その考え方や、単なる解釈の違いから生じた利権の繋がりを中心として、揉め事を起こし、軋轢を生じさせ、紛争や戦争を延々とやって来た、何とも「クダラナイ」歴史、それが、私たち日本を除く「世界史」です。

そして、そんな「殺し合い」を「正当化」するまでに発展させたもの、それが「数学の論理」になります。
この世界は、「唯一絶対の神」の「造り物」でしかない。
「造り物」に過ぎない「人」などには、「唯一絶対の神」の「お考え」など、知ることができるはずがない。
こうして、「人」は、良く分からない、この世界の現象を、「神秘的」、「不可侵」な「唯一絶対の神」の「為せる技」である、と解釈をしていました。
ところが、ある段階で「数学の論理」が、次の展開を生み出します。

本書でも第1章で触れられているのですが、そもそも、「数学の論理」は、「解」そのものを求めるところからではなく、はたして「解」があるのかどうか、というところからスタートします。
その「数学の論理」で考えていきますと、「神は、あるいは死後の世界はあるかないか」という当然の疑問に突き当たります。
この疑問に対して、パスカル(1623年6月19日~1662年8月19日)は、『パスカルの賭け』として知られる「決定理論」的な解釈によって、問題に対する「解」を示します。

ブレーズ・パスカル
『 パスカルはフランスの哲学者、実験物理学者であり、数学者、思想家、そして宗教家でもあった天才です。「人間は考える葦(あし)である」という有名な言葉は彼の『パンセ』の中の言葉だし、また、「クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」と、思わず納得してしまうような面白い言葉もその中に残しています。
『パンセ』は『瞑想録』と訳されているのですが、この『パンセ』を読んだとき、私は、目の前にあった暗闇が明るい日差しにパッと吹き払われたように感じたのです。それは、「賭(か)けの精神」の必要性について、彼が述べていたからです。
例えば、神が存在するかどうかという点については、あるかないか、どちらか賭けることだ、と言っている。そしてこの賭けは、人間にとって避けることのできない賭けである、と彼は言うのです。
どちらにも賭けないことだってできるではないか、と言うかもしれません。しかしそれはもう、できないのです。なぜなら、「神は、あるいは死後の世界はあるかないか」と問いかけられたとき、すでに「あるかないか」を決める「船に乗り込んでしまっている」のです。だから、どうしてもどちらかに賭けなければならない。
パスカルはこの選択をするとき、非常にわかりやすく現実的な問いかけをしてくれます。それは、「あるのかないのか」選ばなければならないのなら、どちらのほうが私たちにとって利益が多いかを考えてみよう、というものです。
「神はない」のほうに賭けて死んでみて、神も死後の世界もないとしたらそれだけの話です。しかし、死んでみたら神も死後の世界もあったとしたら、賭けに負けたことになるし、大変です。
それに対し、「神がある」のほうに賭けて勝負に勝ったら、私たちはまるもうけをする。もし負けたとしても、つまり神と死後の世界がなかったとしても何も損はしない。ならば、ためらわずに神があるほうに賭ければいい、とパスカルは言うのです。魂の存在や死後の世界を信じるかどうかも同じです。
私は、このパスカルの賭けの精神を知ったとき、文字通り目から鱗が落ちる思いでした…
信仰というものは、最終的には賭けに繋がる、ということが実感としてわかったのです。残りの一歩、最後の一歩は賭けでしかないのです。そしてこの賭けは、損することの絶対にない賭けだったのです。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆パスカルと「クレオパトラの鼻」

ちなみに、この『パスカルの賭け』に対して、現代の科学者・リチャード・ドーキンスなんかは、否定的です。

クリントン・リチャード・ドーキンス
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 リチャード・ドーキンスは著書『神は妄想である』の中で「反パスカルの賭け」とでもいうべき主張をした。「神が実在する可能性がわずかながらあるとしよう。そうだとしても、神が実在することに賭けて信仰し、捧げ物をし、神のために戦い、神のために死ぬよりも、神が実在しないことに賭けた方が充実した一生を送ることができるだろう」と述べたのである。
この賭けは、人が意識的に選択できることを前提としている。しかし信念を意識的に選択することはできないと主張する批判者らは、パスカルの賭けは神への信仰を意識的に装ったものに過ぎないという。さらに「全能の神がいるなら、そんなごまかしは通用しないだろう」と主張する。」

で、そのパスカルとは異なった方法で「解」を示したのがデカルト(1596年3月31日~1650年2月11日)でした。

ルネ・デカルト
『 面白いことに、350年以上もたったこの21世紀になって、パスカルの言葉の正しさが明らかになろうとしています。
最近よく「クオリア」という言葉が使われることがありますが、このクオリアというのが、パスカルのいう「繊細なる精神」に連なることだと考えられるからです。…
これはどういうことを意味しているかというと、自然科学、パスカルのいう幾何学的精神では、「何かを考えている」という現象はわかるけれども、その内容、中身、種類までは解明できない、ということです。
この自然科学ではわからない種類のことを、クオリアといいますが、要するに、パスカルのいう「繊細なる精神」のことだと思います。21世紀になってやっとわかってきたことを、17世紀の中頃にすでに指摘していた、ということは、すごいことだといえるでしょう。パスカルの偉大さは、ここにあるのです。
ヨーロッパの精神の歴史を大雑把に見ると、主にキリスト教が出現して以来ずっと、「繊細なる精神」ばかりの世界だったといえます。神や霊魂を信じることは当たり前のことで、疑うこともしませんでした。これが中世の哲学です。
それが、デカルトの出現で変わります。彼は、真理に迫るために、それまでの考え方や常識をすべて疑うことから出発します。すると、そこにあると思われるものもすべて、その存在が疑わしくなってしまう。彼は、数学こそが最高の学問的方法だと考えていましたが、それさえも疑ったのです。そうして周囲をすべて疑ったのだけれど、どうしても疑いきれないものに気づきます。それは、疑っている当の自分の「存在」です。こうしてあの有名な「われ思う故にわれあり」という命題が生まれたのです。この言葉は、哲学史上、最も有名な言葉の1つです。
さて、この「われ思う故にわれあり」という言葉は、何を意味しているものでしょうか。
じつは、この言葉は「身体」とは区別された「精神」の存在を指し示しているのです。こうしてデカルトは物心二元論、つまり、精神と物体とは別なものだ、という立場を取るようになりました。
そして以後、精神と切り離された物体の自然界は独立し、独自の道を歩み始めます。
デカルトは数学の真理は疑うべからざるものだと確信し、この数学を行う理性は神に由来すると確信したのです。その神が宇宙を創造したのだから、宇宙は数式で説明できなければならないとしたわけです。
このデカルトの確信はニュートンなどに引き継がれて、西欧に自然科学が確立し、天体の動きもすべて数式で示すようになります。その成果は巨大で圧倒なものです。
かくてパスカル的にいえば、幾何学的精神ばかりが近代では一人歩きし、科学一辺倒、科学オンリーが主流となって、現在の近代社会となった、ということでしょう。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆パスカルとデカルトと「クオリア」

以上、長々となってしまいましたが、「欧米的な精神」、「数学的、西欧的なものの考え方」といったものが、何となくでもイメージして頂けましたでしょうか?
こういった大きな流れが、これまでの長い歴史に中にあって、私たちが生きる現代社会にさまざまな影響を与えているということ、まずは、それを理解しておくことが大切だと思います。
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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