2018-01-24 (Wed)

叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)は、大阪府南河内郡太子町太子にある古墳。形状は円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。

叡福寺北古墳の航空写真
宮内庁により「磯長墓(しながのはか)」として第31代用明天皇皇子・第33代推古天皇皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の墓に治定されている。考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高い古墳として知られる。

聖徳太子磯長墓 拝所
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ドイツの軍学者カール・フォン・クラウゼビッツが【「戦争とは外交目的を達成するための外交手段のひとつである」】と定義し、その定義から【「戦勝国とは外交目的すなわち戦争目的を達成した国である」】という結論が導き出されるわけだが、本項では“戦争目的の達成如何”について論じよう。

カール・フォン・クラウゼヴィッツ
【大日本帝国の戦争目的】は本書冒頭で紹介したとおり昭和16年12月8日正午過ぎに発表され、各紙夕刊に記載された【“帝国政府声明”に明記】されている。声明文の後半に次のように書かれている。
「 而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を分かたんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」
「米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を分かたんと祈念する」とは、【「米英を駆逐して植民地になる前のアジア、すなわち独立したアジアへ戻し、大東亜共栄圏を構築する」】という意味である。【これが大日本帝国の戦争目的】であった。

一方【米国の戦争目的】は、パールハーバー攻撃の翌日、【ルーズベルト】大統領が議会で行った演説に示されている。
それによると【米国の戦争目的】は
①米国【領土】の【保全】
②極東からの【軍事的脅威】の恒久的【排除】
以上の二点である。

フランクリン・ルーズベルト
次に【日米双方、どちらが戦争目的を達成したか】について検討しよう。
大日本帝国は昭和18年8月1日の【ビルマ国の独立承認】を切っ掛けに、【フィリピン】、【自由インド仮政府】、【ラオス】、【カンボジア】、【ベトナム】を【独立承認】した、そして戦後は、【現地残留日本義勇兵】と現地独立軍が【インドネシアとベトナムの完全独立を達成】した。戦争中に白人領土であった【アジア諸国はその殆どが独立を達成】し、明朗本然の姿に復した。そして、日本からの膨大な経済技術援助を得て、【今や世界経済の中心となっている】。【大東亜共栄圏が実現した】のである。【大日本帝国の戦争目的】は戦中から戦後にかけて【達成された】。

【米国の戦争目的はどう】であろう。米国は【フィリピンを失った】。それ故、【ルーズベルトが目指した戦争目的の一項目は喪失した】。米国領土の保全はならなかったのである。

二項目についてはどうであろう。大日本帝国からの軍事的脅威は消滅したが、その代償として、【極東ロシアからのミサイルの脅威に脅える】こととなった。さらに【満州と朝鮮】を日本から切り離し、【共産軍に引き渡し】た結果、【蒋介石軍の台湾逃亡】、【朝鮮戦争】、【ベトナム戦争】が勃発し、【米国は大きな損害】を被り、【威信を失墜】させた。今では【支那どころか北朝鮮からの核ミサイルの脅威にも曝されている】。サッカーの試合ではこれをオウンゴールと呼ぶ。間抜けという意味である。

日本軍に進攻された【英蘭仏の戦争目的】は当然のことながら、【植民地の防衛であった】から、【その目的をことごとく喪失した】。それゆえ、【英蘭仏は紛れもない敗戦国】である。

以上、戦争目的の達成如何を検討すれば、【戦争目的を達成したのは大日本帝国】であって、【米英蘭仏ではない】。よって【戦勝国は大日本帝国である】と決定される。

【日本軍はアジアを解放した】ことにより【戦争目的を達成した戦勝国】と認定される。【この歴史観を戦勝解放史観と名づける】。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、科学者である著者によって科学的に大東亜戦争を分析し、非常に客観的、合理的に、誰にでも理解できる形で、科学的にも正しい歴史観について解説をされている良書となります。

昨日のところでも書かせて頂きましたが、大東亜戦争の開戦目的を、大日本帝国は見事に達成しており、その意味においては、日本は戦争に勝ったと言えます。
しかし、本当の意味で勝ったのは、「ソ連」でした。それは、戦後、東欧、中欧、中国、北朝鮮、ベトナムなど世界各地に「共産主義国家」が誕生していることからも明らかな事実です。

一党独裁の共産主義国家である、であった国

自国をなんらかの定義で「社会主義国」と宣言した全ての国。(社会主義を宣言した期間で色分け)
そのことを前提とした歴史の見直しが、現在、アメリカでも急速に進んでいます。
『 「日米戦争では、アメリカにも問題があったのではないか」
「その通りだ。アメリカのルーズヴェルト民主党政権には大きな問題があった。
当時、野党の共和党も米軍幹部も懸命に警告したのに、ルーズヴェルト民主党政権は、日米戦争を仕掛けたソ連・コミンテルンの秘密工作に振り回されてしまった」
こんな会話が日米の知識人の間で交わされる日が近い将来、訪れるかもしれません。
アメリカでは機密文書などの情報公開に伴い、近年、日米戦争を含む近現代史の研究が進んでおり、これまでのような単純な日本悪玉論に異を唱える知識人が増えてきているからです。
コミンテルンとは1919年(大正八年)、ロシア共産党のレーニンが創設し、1943年まで存在した、共産主義政党による国際ネットワーク組織のことです(そのネットワークは戦後も形を変えて続きました)。その目的は、世界各国で資本家を打倒して共産革命を起こし、労働者の楽園を作る、というものです。
このソ連・コミンテルンの対外工作によって世界各地に「共産党」が創設され、第二次世界大戦後、東欧や中欧、中国、北朝鮮、ベトナムなど世界各地に「共産主義国家」が誕生しました(厳密に言えば「社会主義国家」を自称した)。かくして第二次大戦後、アメリカを中心とする「自由主義国」と、ソ連を中心とする「共産主義国」によって世界は二分され、「東西冷戦」という名の紛争が各地で起こりました。
ある意味、20世紀は、ソ連・コミンテルンとの戦いでした。
ソ連・コミンテルンと共産主義を抜きにして20世紀を語ることはできません。そしてこの「東西冷戦」は1991年のソ連の崩壊によって終結したと言われていますが、それはヨーロッパの話です。残念ながらソ連崩壊のあとも、アジア太平洋には中国共産党政府と北朝鮮という2つの共産主義国家が存在し、国民の人権や言論の自由を弾圧しているだけでなく、アジア太平洋の平和と安全を脅かしているからです。
この中国共産党政府と北朝鮮という2つの共産主義国家が第二次世界大戦後、なぜ誕生したのか、その経緯を調べると、アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト民主党政権がソ連に協力して、アジアの共産化に手を貸した「歴史」が見えてきます。
第二次世界大戦当時、アメリカとソ連は同盟国でした。そして、アメリカのルーズヴェルト政権は、ソ連のスターリンと組んで国際連合を創設し、戦後の国際秩序を構築しようとしました。その交渉過程の中で、ルーズヴェルト民主党政権は、こともあろうにソ連・コミンテルンによるアジア共産化--特に中国共産党政府と北朝鮮の誕生--に協力したのです。
それから半世紀が過ぎ、多くの機密文書が公開されたことで、日本を開戦に追い込み、東欧とアジアの共産化に協力したルーズヴェルト民主党政権の問題点が、アメリカの保守系の歴史学者やジャーナリストたちの手によって次々と明らかにされています。…
端的に言えば、アジア太平洋で戦争を引き起こし、世界を混乱させたのは日本ではなく、ソ連・コミンテルンとルーズヴェルト民主党政権だったのではないか、という視点が浮上してきているのです。日本からすれば、我々が戦ったのはアメリカのルーズヴェルト民主党政権だったわけですが、そのルーズヴェルト民主党政権はソ連・コミンテルンの工作員たちによって操られていたのではないか、ということです。
日本は誰と戦ったのか。
日本の真の敵は、アメリカではなく、ソ連・コミンテルンではなかったのか。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆戦争を引き起こし、世界を混乱させたのは「共産党」と「民主党」でした

そして、この歴史の見直しの流れから、いま私たちの目の前で、「ソ連」の「傀儡」である「北朝鮮」と「中華人民共和国」を解体するべく、国際社会は大きな流れを持って動いているのだということを、私たち日本人は知っておく必要があります。
「北朝鮮」と「中華人民共和国」を解体したあとの、新しく生まれ変わる「平和なアジア」、そのアジアを率いるリーダーとなるべき唯一の国、それが私たちの「日本」です。

私たちの日本は、昔からアジアのリーダーでした。そのことを確認するために、お話は、一昨日の続き、聖徳太子の時代へ戻ります。
今から1400年ほど前、漢滅亡から400年ぶりに、「隋」によって支那が再統一されますが、この「隋」の支配層も「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」でした。

600年頃の世界地図
そして、その隋と私たちの日本との間に位置する朝鮮半島を確認いたしますと、

576年頃の朝鮮半島周辺の様子
高句麗、新羅、百済の3つの国があります。
整理のために、紀元前の朝鮮半島を見てみますと、

紀元前の古朝鮮とその周辺
様々な部族集団が見られますが、女真(満州族)と同系の「挹婁(ゆうろう」、それとは別の「扶余(ふよ)」、「濊貊(わいはく、かいはく)」、「沃沮(よくそ)」、「濊(わい)」、これらはほぼ同一言語とされていて、古代朝鮮の民族集団であったと思われます。
一方で、朝鮮半島の南部を支配していたのが「辰国」で、そこは私たち日本人が住んでいた地域で、古代からの日本の領土でした。
で、古代朝鮮の民族集団の「扶余(ふよ)」から高句麗、百済が起こり、支那人の流民が新羅を建国します。

375年頃の朝鮮半島周辺の様子
新羅を建国した支那人である始祖が赫居世(カクキョセイ)で、その時の重臣が「瓢公(ここう)」と呼ばれる日本人でした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 瓠公(ここう、生没年不詳)は、新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。」
「 『三国遺事』によれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある。」
赫居世(カクキョセイ)は日本人の子孫ではないと当ブログでは考えていますが、「瓢公(ここう)」と呼ばれる日本人は実在していた、さらに、新羅の第4代の王となる日本人である「脱解(だっかい)」は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫の稲飯命(いなひのみこと)に繋がる人物ではないかと考えています。
稲飯命(いなひのみこと)は、神武天皇のお兄さんの一人です。
『新撰姓氏録』にも、文字による記録として、「稲飯命は新羅王の祖である」としてハッキリと残されています。

詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆支那、朝鮮の歴史認識は、「あの大学」が元凶のひとつなんです

その日本人である「脱解(だっかい)」以降、その子孫が36代にも亘って新羅王を受け継いでいきます。

さて、お話を元に戻します。

500年頃の世界地図
「北魏」という「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」の国に対して、5世紀初頭から高句麗は、「貢女」をしていました。

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 貢女(朝鮮語: 공녀、コンニョ)は、一般に女性を朝貢品の1つとして献上することである。帰国が出来た女性は国内でも還鄕女(朝鮮語: 환향녀、ファンヒャンニョ)として蔑視・差別待遇を受けた。現在でも朝鮮語・韓国語で女性を節操のない女だと罵倒して卑下する言葉として用いられるファニャンニョン(화냥년)の由来となっている。」


そんな高句麗は、6世紀に入ると、モンゴル高原の「遊牧民」である「突厥(とっけつ)」と対立を始めます。
ところが、「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」の「北魏」に代わって、同じく「遊牧騎馬民族」の「鮮卑(せんぴ)族」の「隋」が興ると、巧妙な外交で突厥を分裂させ、「隋」との緊張が高まり、やがて戦争へと発展し、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近していきます。

600年頃の世界地図
隋は高句麗に対して、100万に及ぶ大軍を起こし、3度にわたって攻撃(高句麗遠征、612年~614年)をしていますが、いずれも失敗しています。

隋の高句麗遠征
そして、当時の私たち日本は、第33代・推古天皇(すいこてんのう)の治世(593年1月15日~628年4月15日)となります。

推古天皇像(土佐光芳画・部分)
即位直後、異母兄の第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第二皇子であった厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子(当時19歳)とし、「摂政」を行わせます。

用明天皇
その推古天皇の「摂政」を務めた人物が、「聖徳太子」です。

聖徳太子
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。
多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。
一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。」
595年、高句麗から渡来した慧慈(えじ)という仏僧が帰化、先に渡来していた百済から来た慧聡(えそう)と共に仏教を広めます。
597年、百済から阿佐太子(あさたいし)という百済の王子が朝貢にやって来て、その時に聖徳太子の絵を描いています。

聖徳太子二王子像
同年、吉士磐金(きしのいわかね)を新羅に派遣、翌年には「鵲(カササギ)」を献上品として持ち帰っています。

カササギ
この「鵲(カササギ)」は、江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」などと呼ばれた鳥で、朝鮮では、こんな笑い話(↓)もあります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 朝鮮語ではカササギを「까치(Kkachi、カチ)」と呼ぶ。大韓民国では首都のソウル特別市をはじめとする多くの都市が市の鳥に指定している。また、ソウルの地下鉄にはカチ山駅という駅がある。済州島には生息していなかったが、1989年に新聞社と航空会社が協賛して半島の生息種を約50羽放鳥した。天敵のいない環境で一時期10万羽以上にまで増殖し、外来種として生態系と農作物に深刻な被害をもたらしている。済州島のカササギは有害野生動物に指定され、自治体による計画的な駆除が行われている。」

598年、新羅がクジャクを献上品として送ってきます。

クジャク(孔雀)
599年、百済がラクダ・ロバ・羊・白いキジを献上品として送ってきます。
なんか動物ばかりで、他にもっと良いものが無かったのでしょうか?とも思いたくなりますが、御覧の通り、朝鮮半島の南部にあった「百済」や「新羅」は、私たちの日本に対して「朝貢」していたことが理解できます。リーダーとしての日本の一端が、ここにも見られます。

576年頃の朝鮮半島周辺の様子
さて、このあと、日本は、あることが切っ掛けとなって、戦争を始めます。
が、本日は長くなりましたので、ここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

- 関連記事
-
- イギリスの自虐史教育を終わらせた「教育黒書運動(Black Paper Movement)」 (2019/03/11)
- 台湾は、日本と平和条約を結んだ独立国家です (2019/03/08)
- 「マルクスの理論」を知らない&理解できないのが「パヨク」 (2019/03/07)
- アメリカの憲法で定められた民主主義の原則を踏みにじった、とんでもない政治家 (2019/03/06)
- 1400年前に、日本に「朝貢」していた国々 (2018/01/24)
- 「日本が侵略した」という主張は、科学的には絶対に説明できないんです (2018/01/23)
- アジアの守護神 ~ それが、私たちの「日本」なんです (2018/01/22)
- 私たち日本人の誇り 「自衛隊」 (2016/03/11)
- サッチャーって、すごいの? ~ 日本人が奴隷として売り飛ばされた時代 (2016/03/10)
- アリストテレスって誰? ~ 民主主義と奴隷制度とSEALDsと。。。 (2016/03/09)
- 昭和天皇が見抜かれていた大東亜戦争の遠因 ~ クリスチャンによる非道な人種差別 (2016/03/08)
- まずしい家庭の、ごく普通の主婦の日記 ~ 『十二月八日』 太宰治 (2016/03/07)
- アンペラの意味 ~ Amant Pen deritaan Rakyat (2015/11/19)
- 出た所勝負(でたとこしょうぶ) (2015/11/18)
- 「江の島」と「二子玉川」にあったもの ~ パレンバンに舞い降りた「空の神兵」 (2015/11/17)