2018-01-08 (Mon)

エルミタージュ美術館(エルミタージュびじゅつかん、露: Эрмитаж エルミターシ、英: Hermitage Museum)は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。

北側のネヴァ川から見た冬宮殿
冬宮殿(ふゆきゅうでん、Winter Palace、ロシア語: Зимний дворец、ラテン文字表記:Zimniy Dvorets(ズィームニイ・ドヴァリェーツ))は、サンクトペテルブルクにあるかつてのロシア帝国の宮殿である。冬宮(とうきゅう)ともいい、ロシア皇帝の冬季の王宮として1754年~1762年の間に建設された。

南側の宮殿広場から見た冬宮殿
建築家はバルトロメオ・ラストレッリで、緑と白の石材を用いたロココ建築は1,786のドアと1,945の窓がある。宮殿の北側はネヴァ川に面し、南側には宮殿広場が広がる。
ロシア二月革命による帝政廃止後は臨時政府(首相:リヴォフ公、後にケレンスキー)が置かれた。十月革命においてボリシェヴィキが突入し臨時政府のメンバーを逮捕、臨時政府庁舎としての役割を終える。
十月革命後、建物はエルミタージュ美術館の本館となった。同宮殿はエカテリーナ宮殿などのその他の建築物とその周辺とともにサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群として世界遺産に登録されている。

宮殿の中央上空から見た冬宮殿
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 2015年3月、東京都の中心部にある日本外国特派員協会でのことだ。記者会見した慰安婦問題の第一人者、現代史家の秦郁彦はAP通信社の「近年、慰安婦問題で(事実関係の)修正の動きが高まっている。目指すところは何なのか」との質問に、こう答えた。
「【日本にとってはもう慰安婦問題は終わっている】。ところが、これを終わらせることを韓国と日本の一部の非政府団体(NGO)が承知しない。完全に(学術論議ではなく)政治問題になっている」

☆【慰安婦問題】安倍首相、平昌五輪不参加の方向で調整…駐韓大使の帰国も検討
日本国内では長年にわたり、慰安婦の実像や実態、何が問題なのか、【世界の同様の事例と何が違うのか】が議論されてきた。産経新聞をはじめとする保守系の論者は、【旧日本軍や官憲による強制連行の証拠は一切ない】ことを指摘してきた。

☆「国民を納得させるのはそちら(韓国政府)の仕事」康京和外相、河野外相との会談で通貨スワップの再開の協議を要請するも、河野外相は拒絶
一方、【朝日新聞をはじめとする左派・リベラル系の識者】は【韓国の対日批判に同調】し、…自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、【吉田清治の証言をもとに】、日本は【強制連行を実行し、女性を性奴隷状態に置いてきたと主張】した。ちなみに、【吉田】は慰安婦を強制連行したと述べた【日本側唯一の証言者】である。

☆元旦の朝日新聞社説「安倍政権は国政選挙を実に頻繁に行った」 ←フェイクニュースだったと判明w~ネットの反応「元旦からフェイクニュースとは… フェイクニュースの盟主の座は絶対に譲らないという熱い思いを感じる」
しかし、両陣営の議論はやがて【保守派が勝利】することとなった。【朝日新聞】などは、強制連行の証拠文書や信頼するに足る証言を【さんざん探し回った揚げ句見つけられず】、問題の所在を強制連行の有無から【「女性の人権問題」へとすり替え】ていく。

☆「合意を破棄しても国際法に違反しないし国際信用度も落ちない」 韓国政府、日本と結んだ合意の白紙化へ手順を踏む~ネットの反応「金借りて踏み倒した奴が俺の信用は落ちてないって言うようなもんだな。お前の自己評価は関係ない」「じゃあはよやれ」
米陸軍が1944年にビルマ(現ミャンマー)で捕らえられた【朝鮮人慰安婦】から【聴取した記録「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本軍捕虜尋問報告第49号」】は次のように記している。

ビルマのミッチーナの慰安婦に関するアメリカ軍の報告書。(1944年10月1日)
《 【「慰安婦」】とは将兵のために日本軍に所属している【売春婦】、つまり【「従軍慰安婦」にほかならない】 》
《 食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入する【お金はたっぷりもらっていた】ようで、彼女たちの【暮らし向きはよかった】 》
《 彼女たちは、ビルマ滞在中、【将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし】、また、【ピクニック、演芸会、夕食会に出席】した。彼女たちは【蓄音機を持っていた】し、都会では【買い物に出かける】ことが許された 》
《 【慰安婦】は【接客を断る権利を認められていた】。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった 》

ビルマのミッチーナでアメリカ軍に捕らえられ尋問を受ける慰安婦。(1944年8月14日)
こうした【慰安婦の実情】は、日本国内ではすでに広く知られるようになった。インターネットの普及で誰でもさまざまな情報にアクセスできるようになった結果、【メディアが垂れ流してきた誤報や虚報は、厳しいチェックの目にさらされることになった】のだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、朝日新聞による代表的な「フェイクニュース」について、一連の経緯から朝鮮人売春婦の実態、そして朝日新聞を利用してプロパガンダを展開する外国勢力に至るまでの詳細について、日本語と英語で併記された優れたテキストになります。ぜひ、学校の英語の授業でも、活用して頂きたいものですね❤

折角ですので、「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本軍捕虜尋問報告第49号」に書かれている内容を、もう少し確認してみましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
『 平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育で幼稚で身勝手である。日本人や白人基準においても美人ではなく、自己中心的で、自分のことばかり話す。「女の手練手管を心得ている」。』

手練手管(てれんてくだ)というのは、
『 思うままに人を操り騙す方法や技術、及び、あの手この手で巧みに人をだます手段や方法。
「手練」は巧みな技、「手管」は人を自由に操る(騙す)手段。ともに人をだます手段や技術のことを指す同義語であり、これを重ねて強調した言葉。総じて人を巧みな技で思いのままに操ることを意味する。
(主に吉原の)花魁や遊女が客を引きつけるために、嘘をついたり、他の客に嫉妬させたり、気を持たせたりとあの手この手を用いたことを指す言葉として使われていた。
現在では「男女間の(性的なものも含めた)駆け引き」と言う意味合いで使われる事がある。』
というような意味です(笑)
要するに、「それだけ」だったと書かれているんです❤

そもそも、朝鮮での売春婦というのは、「職業ではなく身分」であって、他の国々のそれとは、そこが根本的に違っています。

『 最近は韓国の正体をあえて書く本が日本で次々と出るようになった。
藪(やぶ)をつついて蛇を出すとはこのことだが、韓国の正体は日本人の想像を超えているのではないかと思うので、韓国理解のための補助線をもう一本引いておこう。
③それは都市化の問題である。
昔の韓国には都市がなかった。日本に併合されてから…少しずつ都市が誕生した。都市には商店街が出現し、その一画には遊女がいるようになった。自由で個人営業の遊女である。
これを当然のことと思ってはいけない。李王朝時代の韓国では、両班以上の男性から招かれて参上する女性には特別の身分があった。それは職業ではなかった。妓生(キーセン)といって、帰りにはたくさんの下賜品があった。お招きがあれば、五十歳でも六十歳でも参上したのは職業ではなく身分だからで、彼女らには廃業はなかった。…

妓生 1890年

妓生 1904年

妓生 1910年
韓国は昔から女性不足の国で、それを支配した北方の中国も女性不足だったから、韓国は毎年、何百人もの両班の娘の献上を中国から強制されていた。…
韓国が慰安婦問題にこだわるのは、それ以外に日本を脅すカードがないからであろう。』

詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆妓生は職業ではなく「身分」です

本文中に「慰安婦の実像や実態、何が問題なのか、世界の同様の事例と何が違うのか」と書かれていましたが、基礎的な知識として、以前にも書かせて頂いておりますので、ご関心があるようであれば、以下の記事をご参照いただければと思います。
こちらもご参照❤
↓
☆卑劣極まりない広島市立大学の「変名教授」
☆ノルマンディに上陸したアメリカ兵たちがやったこと

☆吉田清治は単なる使い捨て

☆ハワイ・ホノルルの「3分の男」たち ~ アメリカ政府も出資した、とある社会システム

☆日本人が、本当の江戸時代を知らない理由 ~ 「遊郭」の例
☆昔から、私たち日本の女性は、「逞(たくま)しい」 ~ 女性優位の日本

さて、昨日のところで、沖縄県の歴史についての「基礎的知識」さえ欠落していると思われる、「売れない芸人」が、


☆村本大輔「沖縄の辺野古の座り込みしてる人達とお酒飲んできた」「プロ市民なんていなくて辺野古高江をただ愛してる優しい人達だった」

☆ウーマンラッシュアワー村本、辺野古で地元民とは交流せず、基地反対派らと交流「プロ市民なんて一人もいない」~ネットの反応「一緒に飲み交わした奴らは沖縄出身者だったか?」「『地元の人の声を聞きたい』って、地元民の社交場アップルタウンじゃなくて?」
左翼リベラルにとっては、非常に「使い勝手の良い捨て駒」であり、それらとツルんでいるのが、


☆【文春砲】社民党・福島瑞穂が「脅迫・傷害」で捜査中の“武闘派労組”を支援していたことが判明…

社民党の福島瑞穂や、

立憲民主党の辻元清美との関係が深い非常にややこしい連中、

いわゆる「新左翼」と呼ばれるテロリスト連中なんですと書かせて頂きました。

で、この良く分からない「新左翼」と呼ばれるテロリスト連中、当ブログでは「珍パヨク」とも表現させて頂いておりますが、いったい何なの?ということで、受験用の「お勉強」では、絶対に出てこない「正しい歴史」をご確認いただくために、大東亜戦争、第二次世界大戦で、本当の意味で勝った、「ソ連」の歴史を紐解いているところです。
実は、この「ソ連」という国を正しく知っておくことで、「新左翼」「珍パヨク」と呼ばれるテロリスト連中のことが理解できるようになりますし、もっと言えば、いま世界で起こっていることの大きな流れが把握でき、そして予測をすることができるんです。
ちなみに、ヒントとして申し上げますと、「中華人民共和国」も「北朝鮮」も、「ソ連」という国が生みだした「傀儡(かいらい)国家」でした。

いまから100年ほど前、1917年に、当時の知識人の間で「ユダヤ人革命」と呼ばれた、最も重要な歴史的な出来事が起こりました。
それが、「共産主義」の実践を通じて、理想とする「社会主義」の国家を目指す、として、「マルクス主義」に気触(かぶ)れた左翼ユダヤ人らが中心となって、ロマノフ王家のロシア帝国を滅ぼし、史上初の「社会主義国家」である「ソ連」を成立させた「ロシア革命」です。
一昨日までの主な登場人物は、ドイツが敵対するロシアに送り込んだ反体制派で少数派のボリシェヴィキを率いたテロリストのウラジーミル・レーニンこと、本名・ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフという「マルクス主義者」、

ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
改革派議員の有力者で、第一次世界大戦のさなかの革命時に、ロシア臨時政府を率いたアレクサンドル・ケレンスキー、

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
そして、当時のヨーロッパ各国の社会主義運動で広い支持を獲得、多数派を形成していたものの、日本の「民進党(旧民主党)」のように、意見や政策の統一すらできない「グダグダ」な連中の集まりでしかなかったメンシェヴィキに属していた、本名、レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン、よく知られている名前で、レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーと呼ばれる「左翼ユダヤ人」でした。

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー
ちなみに、「新左翼」「珍パヨク」らが、1960年代の学生運動のさなかに使用していた、「トロ字」、すなわち「トロツキストの字」の「トロツキスト」は、この「左翼ユダヤ人」のトロツキーに関係しています。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆ゲバ字、知っていますか? ~ 漢字も書けない「パヨク」

そして、レーニンのボリシェヴィキを財政的に支援していたのが、アメリカのバンカー、つまり「ユダヤ人」を中心とする金融資本家たちでしたが、他方、「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟」、いわゆる「ユダヤ人ブント」というロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会主義(社会民主主義)団体なんかがありましたが、政治的にメンシェヴィキに属していて、決して「ユダヤ人は一枚岩ではない」というところまでが前回までのお話でした。

1905年、オデッサでのポグロムに際し殺害された同志の遺体を囲むユダヤ人ブンド党員。
「七月蜂起」(1917年7月16日)に失敗したあとのレーニンは、平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力革命」によって臨時政府から政権を奪取することを志向するようになり、軍事革命委員会を設置、武装蜂起の準備を進め、軍事革命委員会の指令下にあるボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍)を組織します。
そして、1917年11月6日、ケレンスキー率いるロシア臨時政府は、ボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠、これに対して軍事革命委員会の委員長であったトロツキー率いる、ボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍)は、次々と首都・ペトログラードの印刷所、電信局、通信社などの要所を制圧します。
1917年11月7日、ロシア臨時政府の閣僚が残るサンクトペテルブルクの冬宮殿に、防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図に、部隊が突入し、8日未明の午前2時ごろに占領します。

防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影

『冬宮への突入』、1920年の再現群像劇
実は、このとき、ケレンスキーが動員できる戦力は「死の大隊」と呼ばれる2個女性大隊のみでした。

死の大隊の女性たち
死の大隊の女性たちは、反ボリシェヴィキのために戦闘に参加しましたが、ボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍)に戦力差で圧倒され敗北し、全員が捕虜となります。
つまり、レーニンやトロツキーといったマルクス主義者の男どもは、女性たちに対して武力で攻撃したということになります。

こうして、ロシア臨時政府は倒れ、ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁されます。
これが、ロシア革命の「十月革命」(1917年11月7日)になります。
で、ケレンスキーはどうなったのかと言いますと、冬宮殿を脱出し、のちにフランスへ亡命、さらにアメリカへと渡り、1970年まで生き延びていました。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・"ネル"・トリットンと再婚した。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーはアメリカ合衆国に脱出し、1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。1946年2月にリディアは脳卒中を起こし、4月10日に彼女と死別した。
リディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。その間、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けてケレンスキーを監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。
1970年にニューヨークの自宅で死去した。十月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。死後、ニューヨークの在外ロシア正教会およびセルビア正教会からボリシェヴィキによる政権奪取の責任を問われて埋葬を拒否され、遺体はロンドンに埋葬された。」

ケレンスキーにも、ユダヤ人の支援がある、というところがポイントです。

続きは次回に♥
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