2018-01-06 (Sat)

伝来 :
① 外国から伝わって来ること。渡来。 「一六世紀に鉄砲が-した」
② 代々伝えられること。 「先祖-の刀剣」
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 2000年も前の三国時代から、【中原】がますます【荒廃】し、【北方夷狄】がじょじょに漢人のホームグランドである【中原に入ってくる】。

それが、いわゆる五胡十六国、南北朝から【ずっと近代に至るまで北方民族、夷狄が優位の時代】である。

【漢人が北方から追われ】、百越の世界へ入っていく。【越人は漢人に南に追われ、越南(ベトナム)として残った】。
【約2000年にもわたって、夷狄優位の時代であった】のだ。

しかし、漢語の語幹や文法にもアルタイ語が入ってくるなど、漢人がいくら夷化されても、文明人の優越感は相変わらず強い。…

アルタイ諸語
私は1960年代に日本にやって来た。そのころ、たまに【華僑】関係のグループに呼ばれ、さまざまな集いにも出たこともある。たいてい「日本の文化は何もなかった。孔子、孟子の儒教思想はもとより、文武両道から諸芸諸能、和服、下駄、箸、そして明治維新に至るまで、ほとんど【中国が教えてやった】」云々の話ばかりで終わってしまう。

もっと生産的な話か、もっと面白い話がないのか。あまりにも【つまらない連中ばかり】だから、いつしかつき合うのもやめてしまった。

別に私の個人的体験ばかりではなく、「日本人は自前のものはほとんどない。何もなかったので、ほとんど【中国人が教えてやった】。なのに、その恩義を忘れ、逆に中国が侵略された」というのが、日中の「常識」としてよく語られたものである。

「日本人に教えてやった」という【中国人のお国自慢は国だけではなく、各地方にも欠かせない】。中国でビジネスの経験があった友人の話によれば、どの地方に行っても必ずその地方なりの自慢話を聞かされるという。それはよいとしても【荒唐無稽で何の根拠もない】話も多い。

こういった話が多すぎると、食傷気味で吐くまではいかないにしても、やはり【気持ちが悪いし、つまらない】と友人がこぼした。そんなつまらない連中といちいち付き合ったら、やはり健康的にはよくない。【中国人が「教えてやった」云々】というのが「常識」になっても、【ほとんど根拠はない】。【むしろ、その逆だった】ケースも少なくない。

【中国人】は文化一般だけでなく、特技や漢方でさえ、秘技や「先祖伝来の秘方」として、【誰にも、どこにも、「死んでも絶対教えてやらない」】というのが、すでに【古代から】、風習や民族性から県民性に至るまで【定着し、掟となっている】。

遣隋使や遣唐使の時代から、漢字、儒教、仏教、律令制を【中国は日本人に教えた】。あるいは【中国から「伝来」した】というのが、すでに「常識」として定着している。

【しかし、いったい中国人が「どう教えたのか」】については、あまり「常識」にはなっていない。というのは、【中国の国風としては、「絶対教えない」のは国策】であって、【古代からの文化伝統でもあった】からである。それは決して【外に対してではなく、誰でも、どこでも、変わりはない】。決して【「秘技」や名医の「秘方」に限ったことではない】のである。…【その人が亡くなると、それで終わってしまう】。【絶対に免許皆伝はしない】ものだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、受験用の「お勉強」では、決して学ぶことができない支那についての正しい知識を学べる良書となっています。

受験用の「お勉強」の弊害のおかげで、支那の歴史や支那の国力を、支那人の誇大妄想に騙されて勘違いしている方々がいらっしゃいますが、現代の中華人民共和国ですら、取るに足りない「小国」に過ぎません。

受験用の「お勉強」では、例えば、「あの中国大陸を統一した」みたいなノリで、秦の始皇帝の偉業などと語られますが、先日も書かせて頂きましたように、「えっ!たったの、それっポッチ???」という程度でしかありません。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆実は、大したことはなかった、秦の始皇帝の統一

そして、本文にも書かれていましたように、「約2000年にもわたって、夷狄優位の時代であった」というのが支那の歴史になります。

また、どこかで続きを書かせて頂きますが、北の異民族に支配される南に住む雑種の「漢人」「漢民族」というのが支那の歴史の基本形となります。そして、その支配者がコロコロと変わるんです。

そもそも、秦の始皇帝が憧れていたのが、私たちの日本です。

『 秦の始皇帝の時代には日本を「蓬莱(ほうらい)仙島」として憧れ、不老長寿の薬を求めて徐福を遣わせた伝説まである。宋の太宗は東大寺の僧、奝然(ちゅうねん)から「日本の万世一系」の話を聞いて、嘆息して臣下に語った。「それは島夷にしかできないことだ」と羨望した。大航海時代が開かれた動機の一つは、マルコポーロの『東方見聞録』に登場する「黄金の国ジパング」を探すためだったことは広く知られている。華夷思想をもち、優越意識が強い中華の民も、神仙の国や黄金の国、日本に対しては一目置いていたのである。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓

徐福については、こちらもご参照❤
↓
☆日本にあった?! 不老不死の薬

また、本文中に遣隋使や遣唐使のお話も出てきましたが、これらも受験用の「お勉強」の弊害のおかげで、正しく理解されていない方々が多いですね❤

『 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉(あぜくら)造りの壮大な倉庫で、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。
その御物には唐や西城、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。
この呼び名には間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。
日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。特に戦後、この見方が浸透しました。
その代表例は遣隋使、遣唐使です。
推古天皇十五(607)年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遣唐使の最初の派遣は舒明(じょめい)天皇二(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、いずれにしろ、日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したという文脈で語られています。
しかし、事実はまったく違うのです。
たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく、随からも裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。
唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。
たとえば、天智天皇八(669)年には2千余人が来ています。天智天皇十(671)年にも2千人来日、という具合です。
ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、三十数回も来ています。
いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。
では彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。
ほかでもありません。日本の文化を摂取するために来たのです。経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。八世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。
鑑真(がんじん)が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名てすが、鑑真がなぜこれほど日本に執着したのか。
聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。鑑真だけではありません。インド人、ヴェトナム人、ソグド人の僧も日本の仏教を学びに来ています。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」

さて、ここからは、昨日の続きとなります。
連日に渡って、繰り返し取り上げておりますが、昨年末の、こちらのニュース。


☆【文春砲】社民党・福島瑞穂が「脅迫・傷害」で捜査中の“武闘派労組”を支援していたことが判明…

とある国会議員も、こんな風に仰られていましたように、

☆質問「なぜ辻元氏の関西生コン疑惑を追求している議員が足立さん以外誰もいないのでしょうか?」→ 足立議員の答えに反響…
社民党の福島瑞穂や、

立憲民主党の辻元清美との関係が深い非常にややこしい連中というのは、

いわゆる「新左翼」と呼ばれるテロリスト連中で、当ブログでは「珍パヨク」とも表現させて頂いておりますが、その「新左翼」「珍パヨク」らが、1960年代の学生運動のさなかに、筆跡で身元が割れないようにと使用していたのが「トロツキストの字」の意である「トロ字」、いわゆる「ゲバ字」と呼ばれるものでした。

詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆ゲバ字、知っていますか? ~ 漢字も書けない「パヨク」

ところが、ほとんどの方々にとって、「新左翼」とか「珍パヨク」っていうのが、いったい何なのかを理解し難いわけなんですが、それは受験用の「お勉強」でしか歴史を勉強してこなかったためで、それを分かって頂くために、そのことを一番理解できる、たった一つの質問を書かせて頂きました。
それが、「大東亜戦争、第二次世界大戦で、本当の意味で勝ったのは、どこの国でしょうか?」です。
そして、その答えが、これです。
「戦争で、本当の意味で勝ったのは、ソ連です」

それでは、「ソ連」っていうのは、どんな国だったんでしょうか?
実は、この「ソ連」という国は、約30年ほど前に滅亡した「失敗に終わった実験国家」だったわけですが、受験用の「お勉強」では、何故か、キチンと正しく教えられることがありません。
この「ソ連」という国を正しく知っておくことで、「新左翼」「珍パヨク」と呼ばれるテロリスト連中のことが理解できるようになりますし、もっと言えば、いま世界で起こっていることの大きな流れが把握でき、そして予測をすることができるんです。
ちなみに、ヒントとして申し上げますと、「中華人民共和国」も「北朝鮮」も、「ソ連」という国が生みだした「傀儡(かいらい)国家」でした。

いまから100年ほど前、1917年に、当時の知識人の間で「ユダヤ人革命」と呼ばれた、最も重要な歴史的な出来事が起こりました。
それが、「共産主義」の実践を通じて、理想とする「社会主義」の国家を目指す、として、「マルクス主義」に気触(かぶ)れた左翼ユダヤ人らが中心となって、ロマノフ王家のロシア帝国を滅ぼし、史上初の「社会主義国家」である「ソ連」を成立させた「ロシア革命」です。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆100年前の「ハイ・ファイナンス」と現代グローバリズム

当初の革命の中心人物は、もちろんウラジーミル・レーニンこと、本名・ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフという「マルクス主義者」です。

ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
しかし、もう一人、ロシア革命の指導者の一人でもあったアレクサンドル・ケレンスキーという人物がいて、ロシア革命の「二月革命」(1917年3月8日)では、改革派議員の有力者と目されていました。

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
第一次世界大戦の最中に起きたのが「ロシア革命」でしたので、ロシア臨時政府側のケレンスキーは戦争継続を主張し、ドイツ帝国に対する攻勢を命令していました。
一方のドイツは、反体制派のレーニンたちを、敵対するロシアに送り込み、内部崩壊を目論みます。
ロシアへと送り込まれたレーニンは、「ボリシェヴィキ」という極左集団を率いて、ドイツの願いどおりに、「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げ、厭戦プロパガンダを始めます。
そして、この「ボリシェヴィキ」に財政援助していた組織が、1915年にニューヨークに設立された「American International Corporation」でした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ボリシェヴィキはAmerican International Corporationから財政支援を受けていた。当社は1915年、Frank A. Vanderlipを会長としてニューヨークに設立された。出資者はジョン・モルガン、ロックフェラー、ジェームズ・スティルマン。1917年の役員はPierre S. du Pont、Percy Avery Rockefeller、Albert H. Wiggin、Beekman Winthrop、そしてEmpire Trust CompanyのMatthew C. Brushであった。」

フランク・アーサー・バンダーリップ
1917年7月16日、ロシア帝国の首都ペトログラードで、ボリシェヴィキによる扇動の成果もあって、兵士や工場労働者たちがロシア臨時政府に対して蜂起した「七月蜂起」が発生し、

七月蜂起におけるネフスキー大通りでのデモ
で、この「七月蜂起」が鎮圧された後、1917年9月15日、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に変更、共和制を宣言します。
その一方で、「七月蜂起」に失敗したあとのレーニンは、平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力革命」によって臨時政府から政権を奪取することを志向するようになります。

と、ここまでが昨日までのお話になります。
さて、お話はこのあと、「十月革命」(1917年11月7日)と「ロシア内戦」へと繋がって行きますが、その前に、本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン、よく知られている名前で、レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーと呼ばれる「左翼ユダヤ人」について見ておきましょう。

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー
「新左翼」「珍パヨク」らが、1960年代の学生運動のさなかに使用していた、「トロ字」、すなわち「トロツキストの字」の「トロツキスト」は、この「左翼ユダヤ人」のトロツキーに関係しています。

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 トロツキズムまたはトロツキー主義(英: Trotskyism)は、レフ・トロツキーによって主張されたマルクス主義および共産主義革命理論のこと。トロツキズムを主張する者をトロツキストという。
当初の呼称はボリシェヴィキ・レーニン主義(英: Bolshevik-Leninism)で、「トロツキスト」はヨシフ・スターリンらによる批判用語を自称に採用したものである。
トロツキストの国際組織には第四インターナショナルなどがある。」
「日露戦争」(1904年~1905年)や「ロシア革命」(1917年)よりも前、ロシア帝国が存在している1898年に、ロシア帝国初のマルクス主義政党である「ロシア社会民主労働党」が結成され、のちにボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂するのですが、実際に数の上では、ボリシェヴィキはメンシェヴィキに比べ少数派であったのですが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗ります。
それがレーニンを中心とする、実際には少数派であったボリシェヴィキ(多数派)で、暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴で、これが後の「ソビエト連邦共産党」へと引き継がれていきます。
さきほども書かせて頂いておりますが、このレーニンのボリシェヴィキを財政的に支援していたのが、アメリカのバンカー、つまり金融資本家たちでした。その中心は、言うまでもなく「ユダヤ人」です。
アメリカの当時のバンカーの関係性を詳しく描いているのが、こちらの書物になりますので、ご関心があれば、ご覧頂くことをお勧めさせて頂きます。
↓
☆ノミ・プリンス 大統領を操るバンカーたち(上)──秘められた蜜月の100年

そして、トロツキーはと言いますと、レーニンらのボリシェヴィキ(多数派)ではなく、実際には多数派であったメンシェヴィキ(少数派)に所属していました。

ところが、この実際には多数派であったメンシェヴィキ(少数派)は、党外のヨーロッパ各国の社会主義運動では広い支持を獲得していたものの、強力な指導者もなく、非常に緩い組織で、また、日本の「民進党(旧民主党)」のように、意見や政策の統一すらできない「グダグダ」な連中の集まりでした。

例えば、「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟」、いわゆる「ユダヤ人ブント」というロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会主義(社会民主主義)団体がありましたが、

1905年、オデッサでのポグロムに際し殺害された同志の遺体を囲むユダヤ人ブンド党員。
政治的にメンシェヴィキに属していた彼らは、ヨーロッパ各地でのポグロム(ロシア語で「破滅・破壊」を意味、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為を言う)の激化に悩まされ、ロシア革命後の1920年代初めに多数派は共産党(ロシア共産党→ソビエト連邦共産党)に合流、つまりレーニンを中心とするボリシェヴィキ由来の共産党に合流しますが、のちに実権を握ったスターリンが支配するソ連の弾圧政策によって壊滅的打撃をこうむり、戦後のソビエト連邦共産党政権のもとで活動の根を絶たれ、1948年に消滅してしまいます。
ここで重要なのは、「一握り」の支配的な権力を握る、レーニンの「ボリシェヴィキ」と、幅広く支持を集める絶対多数の「メンシェヴィキ」、この分裂の状態があったという点、そして、「一握り」の支配的な権力を握る、レーニンの「ボリシェヴィキ」を支援していたのが、「ユダヤ人」を中心とするアメリカのバンカーである点、そして、その反対の立ち位置である絶対多数の「メンシェヴィキ」に属していた「ユダヤ人」たちが非常に数多くいたという点です。

つまり、「ユダヤ人」は分裂しているんです。この頃からすでに。
これは、現在でも同じ構図になっています。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆グローバリストのユダヤ人と、シオニストのユダヤ人は違うんです

そして、迫害されるユダヤ人を、本当に助けたのが、私たち日本人なんです。

東條英機
『 多くの日本人も世界の人々も知らないことがある。それは日本人がユダヤ人を救った話だ。…まず樋口中将と安江大佐である。
二人の名前は「ゴールデン・ブック」に掲載され、顕彰されている。ゴールデン・ブックは、ユダヤ民族に貢献した外国人の名が記されている。…だが、本当に「ゴールデン・ブック」に記載されるべき人物が東條英機であったことを、知る人は少なかろう。
1930年代末に、2万人ものユダヤ人難民がナチスの迫害を逃れ、シベリア鉄道で満州国境へやってきていた。

当時、関東軍ハルビン特務機関長だった樋口少将が、新京に司令部を置く関東軍参謀長に、ユダヤ人難民の入国の許可を求めた。当時の参謀長が、東條英機中将だった。入国を許可しなければ、ソ連がドイツに送り返すところだった。東條は「民族協和と八紘一宇の精神」に従って、2万人のユダヤ人の入国に許可を与えた。ドイツ外務省が日本政府に対して、強硬な抗議を行ったが、東條は「当然な人道上の配慮」だとして一蹴した。…東條は東京裁判で「A級戦犯」として、処刑された。ヒトラーと同列であるかのようにして、言われ無き不当な扱いを受けた。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆「ゴールデン・ブック」の日本人

本日は長くなりましたので、ここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

- 関連記事
-
- メキシコから地下トンネルを潜って、アメリカにやってくる不法移民は、どこの国の者たちでしょうか? (2018/03/17)
- 失血死する中華人民共和国 (2018/03/16)
- トランプの鉄鋼関税で、困ってしまう国々は? (2018/03/15)
- 韓国の「フィンランド化」と「ストックホルム症候群」 (2018/03/01)
- 「輸血」ができない中華人民共和国 (2018/02/28)
- 「止血」しているだけの中華人民共和国 (2018/02/27)
- 「門外不出」は、中国人の体に染みついた、抜きがたい伝統なんです。 (2018/01/07)
- 中国から「伝来」、というのは真っ赤なウソなんです (2018/01/06)
- 実は、大したことはなかった、秦の始皇帝の統一 (2017/12/30)
- 「中国語」が始まったのは、1918年になってからのことなんです (2017/12/29)
- 世界の見方に合わせただけ ~ 「チーナ」と「支那」 (2017/12/28)
- 「中国人」は、実は19世紀まで存在しなかったんです (2017/12/27)
- 中国人にとっての「正しい歴史認識」 (2017/12/26)
- 「お歯黒」と支那の神話 (2017/12/01)
- 中国人を「支那人」と言ってしまうと困ってしまうこと (2017/11/30)