2017-12-14 (Thu)

清軍ジャンク船を沈めていくイギリス軍艦
阿片戦争(アヘンせんそう、英: First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。

イギリス軍の鎮江攻略
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ペリーの要求は、【日本の歴史教科書がいう貯炭場の借用、捕鯨船の補給基地の確保ではなかった】。それらは口実だった。

日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃
歴史の真実とは「過ぎ去った後にすべてがわかる」(ヘーゲル)のである。その明らかな証左は、【下田に捕鯨船がはいった記録さえないこと】である。…

アメリカの日本開国の目的は、捕鯨船の安全確保のためではなく、当時貿易相手国としてもっとも富を生み続けていた【清国の市場】をめぐるイギリスとの通商戦争を先回りして【確保する貿易ルート】だったのだ。捕鯨船の安全確保などという口上は、アメリカ国内世論をまとめるための便法に過ぎなかった。…

日本とのロジェスティック・ルート(兵站線)の確保、支那との太平洋ハイウェイ構想は、【ロスチャイルド家がその発想の遡源(そげん)】になり、全体の流れとしてはマニフェスト・ディステニー(明白なる運命)の論理的結末でもあった。…
アメリカで【ロスチャイルドのロビイストとして暗躍】した、【パーマーという謎めいた人物】がいる。

村松剛の【『醒めた炎』】は彼を「アメリカのアジアへの進出を1840年代のはじめから熱心に主張し、日本を含む極東全域の地図や資料を自費で印刷して、国家議員の全員にいくども配布している」ほどで、まさにマニフェスト・ディステニーの信奉者であり、【日本をキリスト教の国に出来ると信じていた人物】として紹介している。…


【パーマーは当時のニューヨーク商工会を牛耳る、最高裁判所顧問兼務国務省嘱託でもあった】。…』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、もちろん英雄・西郷隆盛について書かれた書物ですが、思想家・西郷隆盛、詩人・西郷隆盛といった、精神的な側面や内なる魅力を浮かび上がらせるべく、著者ご自身が西郷隆盛の足跡を辿り、ゆかりの場所を紹介しつつ、読者に対して、問いを投げかけている良書です。

さて、本文中で「太平洋ハイウェイ構想」と「ロスチャイルド家」との関わりが指摘され、その「ロスチャイルドのロビイストとして暗躍」したのがアーロン・パーマーなる人物として登場しています。
以前にも書かせて頂いておりますが、このアーロン・パーマーと同じくロスチャイルドのエージェントだったのが、ニューヨークの富豪のオーガスト・ベルモントで、

オーガスト・ベルモント
その奥さんが、ペリーの娘のキャロラインでした。

ペリーの娘 キャロライン
ペリーの黒船来航(1853年)の直前の1852年夏に、ニューヨークである書物が発刊されていました。
『 1852年夏、ニューヨークで発刊されたこの書は、アメリカの日本開国プロジェクトを意識したものだった。当時のアメリカは、英国やフランスなどのヨーロッパの大国に比べれば、まだ弱々しい新興国であった。そのアメリカが海軍力の4分の1を使って進める国家事業が日本開国プロジェクトだった。…
本書『日本 1852』は、アメリカの世紀のプロジェクトとも言える日本開国計画に強い関心を寄せるアメリカ国民に向けて書かれた。当時の日本は極東の閉ざされた未知なる島国であり、国民の日本に対する興味が高まっていた。それだけに時宜にかなった出版であった。…
当初、日本開国プロジェクトを委ねられたのはペリー提督ではなく、1851年に東インド艦隊司令官に就任していたジョン・オーリック提督であった。しかし、オーリックはその任に相応しくないとして解任され、ペリーにその大役が任された。…
ペリー提督の娘キャロラインは美貌で知られ、ニューヨークの富豪オーガスト・ベルモントに嫁(か)していた。ベルモントはイギリス・ロスチャイルド家のエージェントであった。ロスチャイルド家にはベルモントの他にもう一人のエージェントがいた。それが法律家アーロン・パーマーだった。このパーマーこそが「日本開国計画」を立案し、時の政権に建言した人物だった。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆キリスト教徒にとって理想的な社会 ~ アメリカ

重要なポイントですので、念のために書かせて頂きますが、「イギリス・ロスチャイルド家」の手下であるということを、正しく認識しておく必要があります。あくまでも、ボスはイギリスだったということです。

『 日本とアメリカとの関わりで、最初にして最大とも言えるのが、日本史の大転換点だった幕末の開国、そして明治維新への関わりでしょう。
長崎の出島という狭い窓口のみで、西洋との関係を保ってきた鎖国の国・日本に、風穴を開けたのがアメリカでした。…
しかし、幕末の動乱を経て発足した維新政府が国政の模範としたのは、アメリカではなくもっぱらヨーロッパでした。…
憲法に限らず、大正末期までの日本では、下手にアメリカをほめると、単に拘束を嫌うだけの「自由主義者」と揶揄されたり、軽薄な人間というレッテルを貼られたりしました。当時の日本の知識人にとって、「西洋」とは、もっぱらヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリスを指していたのです。
とはいえ、アメリカが手をこまねいて見ていたわけではありません。とくに経済戦争では、米英が互いにしのぎを削りあった勢力争いの最前線は日本でした。財閥の銀行の金融資本の系列を、どちらの国の銀行が組み込むかという争いです。
争いの当事者は、アメリカのロックフェラーとイギリスのロスチャイルドでした。この両者がせめぎあっていたために、明治、大正前半までの日本は、結果的にどちらからも自由だったのです。
ところが、大正の終わりからアメリカの力が全般的に強くなって、イギリスが大きく衰退します。そうすると、目ざとくそれを見てとった日本の各界のリーダーたちはいち早くアメリカの模倣へと視線を切り替え、日米関係が濃密なものになっていきました。…日本は急激にアメリカナイズされた国になります。
そのために、アメリカの教会団体の支援を受けたプロテスタントのミッションスクールや大学が一流の地位を得るようになりました。東京山の手の一角は、戦前から「気分はすっかりワシントン・ハイツ」という感じになり、最先端の若者はニューヨークの最新ファッションを身につけて銀座へ繰り出したのです。

モガの例(1928年 銀座)
人々は彼らを「モボ」「モガ」と呼んでもてはやしました。「モボ」とは「モダンボーイ」、「モガ」は「モダンガール」の略です。…
というわけで、日本は明治以来、ヨーロッパの文化を西洋文化と捉えて模範にしていたのに、第一次世界大戦が終わるころには、急激にアメリカ文化に迎合するようになりました。』
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆モボ・モガは、アメリカの単なる模倣です

「大正末期までの日本」の知識人は、「西洋」と言えば、「ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリスを指していた」と書かれていますが、ここも重要なポイントで、当時の世界の5大国は、大英帝国、ロシア帝国、フランス帝国、ハプスブルク帝国(オーストリア)、プロシア帝国で、その中でも突出していたのがイギリス(大英帝国)でした。


イギリス帝国統治下の経験を有する国・地域。現在のイギリスの海外領土は赤い下線が引いてある。
そして、そのイギリスと覇権を争っていたのがロシアです。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆日本へと波及した19世紀の「グレート・ゲーム」

さて、以上のポイントを踏まえた上で、お話を元に戻しまして、ペリーの黒船来航(1853年)に遡ること13年前、私たち日本の御近所で起こった出来事がありますが、お分かりでしょうか?

当時、世界最強であったイギリスが、貿易の自由化を求めて、「清」に対して行った「対清征伐」、いわゆる「アヘン戦争」(1840~1842年)です。

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵
この「対清征伐」を、学校の授業では「アヘンを強調」して教えていますが、アヘンは単なる口実、いちゃもんであって、終戦に際して締結された「南京条約」にアヘンの「ア」の字もないことからも明らかで、そもそもイギリスも清も、アヘンの密貿易を黙認(のちに合法化)していたんです。

年間の中国のアヘン輸入の増加を示すグラフ(1650-1880年)

1841年8月26日、アモイで清軍を蹴散らす第18近衛アイルランド連隊。
この時、イギリスは「香港島」を割譲され、イギリスの永久領土として手に入れます。

香港島
余談ですが、のちに九龍(きゅうりゅう)もイギリスが手に入れるのですが、

九龍
そこから英国資本のコングロマリットであるハチソン・ワンポアが誕生します。1980年代からは、長江実業グループ傘下の多国籍企業となり、現トップが李嘉誠(りかせい)で、これも「客家(ハッカ)」です。

李嘉誠(りかせい)
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆客家とキリスト教とユダヤ人

その李嘉誠が、支那からの撤退を一貫して続けているのは周知の事実ですね❤

☆資産家の李嘉誠氏、5870億円でビル売却-香港オフィスタワーで最高額

☆【中国の視点】香港の超人・李嘉誠氏:中国不動産売却継続、バブル崩壊予測か
それでは、本日の最後となりますが、明日は、ペリーの黒船来航(1853年)の8年後に、アメリカで起こった出来事について見てまいりたいと思いますが、それが何かお分かりでしょうか?

それが「南北戦争」(1861~1865年)です。

☆トランプ氏が南北戦争でも妄言 奴隷制めぐり戦ったはずが…歴史知識の欠如露呈
実は、この産経新聞の記事は、2017年2月に編集局ワシントン支局長となった黒瀬悦成によるものですが、まったくお話にならない、お勉強が足りていない内容の記事となっています。ということで、本日はここまでとさせて頂きます。

続きは次回に♥
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