2017-11-06 (Mon)

逆転クオリア (Inverted qualia) 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか
クオリア(英: qualia(複数形)、quale(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。
簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。
外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 面白いことに、350年以上もたったこの21世紀になって、【パスカルの言葉の正しさ】が明らかになろうとしています。

ブレーズ・パスカル
最近よく【「クオリア」という言葉】が使われることがありますが、このクオリアというのが、【パスカルのいう「繊細なる精神」に連なる】ことだと考えられるからです。…

これはどういうことを意味しているかというと、自然科学、パスカルのいう幾何学的精神では、【「何かを考えている」という現象はわかる】けれども、【その内容、中身、種類までは解明できない】、ということです。

この【自然科学ではわからない種類のこと】を、【クオリア】といいますが、要するに、【パスカルのいう「繊細なる精神」のこと】だと思います。

21世紀になってやっとわかってきたことを、17世紀の中頃にすでに指摘していた、ということは、すごいことだといえるでしょう。パスカルの偉大さは、ここにあるのです。

ヨーロッパの精神の歴史を大雑把に見ると、主に【キリスト教】が出現して以来ずっと、【「繊細なる精神」ばかりの世界】だったといえます。【神や霊魂を信じることは当たり前】のことで、疑うこともしませんでした。これが【中世の哲学】です。

それが、【デカルトの出現で変わります】。

彼は、真理に迫るために、【それまでの考え方や常識をすべて疑う】ことから出発します。

ルネ・デカルト
すると、そこにあると思われるものもすべて、その存在が疑わしくなってしまう。彼は、【数学】こそが最高の学問的方法だと考えていましたが、【それさえも疑った】のです。そうして周囲をすべて疑ったのだけれど、【どうしても疑いきれないもの】に気づきます。

【それは、疑っている当の自分の「存在」です】。

こうしてあの有名な【「われ思う故にわれあり」という命題が生まれた】のです。この言葉は、哲学史上、最も有名な言葉の1つです。

さて、この【「われ思う故にわれあり」】という言葉は、【何を意味している】ものでしょうか。

じつは、この言葉は【「身体」とは区別された「精神」の存在を指し示している】のです。こうして【デカルトは物心二元論、つまり、精神と物体とは別なものだ、という立場を取る】ようになりました。

そして以後、【精神と切り離された物体の自然界】は【独立し、独自の道】を歩み始めます。
デカルトは数学の真理は疑うべからざるものだと確信し、この数学を行う理性は神に由来すると確信したのです。その神が宇宙を創造したのだから、【宇宙は数式で説明できなければならない】としたわけです。

このデカルトの確信は【ニュートン】などに引き継がれて、【西欧に自然科学が確立】し、天体の動きもすべて数式で示すようになります。その成果は巨大で圧倒なものです。
かくてパスカル的にいえば、【幾何学的精神ばかりが近代では一人歩き】し、【科学一辺倒、科学オンリーが主流】となって、現在の近代社会となった、ということでしょう。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「死」に対する心の在り方を、キリスト教徒である著者が、著者なりの考え方でまとめられている書物になります。参考になるのは、中世から近世・近代へと移り変わる西洋社会において、哲学的な面から、「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方が変化していく様子が書かれている点です。私たち日本人の発想とは全く異なる、キリスト教を根幹とした西洋社会というものを考えるとき、この「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方の変化は、押さえておきたい重要なポイントです。

さて、今回ご紹介させて頂きました本文を読んでみて、重要なポイントについて御理解いただけましたでしょうか?

デカルト(1596年~1650年)も、パスカル(1623年~1662年)も、17世紀前半頃の著名人です。私たち日本の国史でいうと「江戸時代」の初頭になります。
私たち日本の国史、それをマラソンに例えてみますと、縄文時代の始まりとされる紀元前14,000年、そこをスタート地点として、私たちが生きている現代をゴールとしたとき、「江戸時代」というのは、あと残り、たったの1キロ程度という時代になります。

この頃、西洋社会は、「中世」という時代から、「近代」(あるいは「近世そして近代」)へと移りゆく時代になります。
「中世」から「近世・近代」へと移り変わる、この頃の大きな特徴は、キリスト教という信仰のうえで、人間に対する「絶対的な神の存在」が揺らぐ、つまり、何でもかんでも「神さまの言うとおり」(=教会の言うとおり)ではなく、「自分たちで考えたって良いんじゃないの?」みたいな、「人間を主体」として考える流れが生じていくことです。
すなわち、「科学革命」、「近代哲学」、「啓蒙主義」、これらが勃興していく時代へと突入していくんです。
本文中に出てきた、デカルトもパスカルも、まさに、その時代の西洋社会の人物です。
そして、この2人の考え方に、重要な相違点が見られるんです。そこが「肝」になります。

デカルトは、「われ思う故にわれあり」という言葉を遺しています。
パスカルも、「人間は考える葦(あし)である」という言葉を遺しています。
さて、どう違うのでしょうか?

まず、パスカルの言葉を確認しておきましょう。
「 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。」

大震災や台風。
誰でも身近に思い起こすことができるのではないでしょうか?
人間は、葦にすぎない。
この意味は、現在の私たち日本国民なら、誰でも、理解ができると思います。
そして、こう続きます。
「 だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。」
つまり、自然は猛威を振るうだけ、何も知らない。でも、人間は「知っている」と、その決定的な違いについて述べています。
さらに、こう続きます。
「 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」
パスカル(1623年~1662年)の時代は、ガリレオ・ガリレイが「望遠鏡」を使って、広大な宇宙に目を向け始めた時代です。

ガリレオ・ガリレイ
また同時に、ガリレオ・ガリレイは「顕微鏡」を使って昆虫の複眼を描いたりしています。
ちなみに、「望遠鏡」も「顕微鏡」も、最近連日にわたって書かせて頂いていた、あの「ネーデルラント」の眼鏡職人であるサハリアス・ヤンセン、その父親のハンス・ヤンセンが関係しているのですが、このお話は、また別の機会に書かせて頂きます。

サハリアス・ヤンセン
つまり、当時の時代背景として、それまで未知の世界であった広大な宇宙とか、逆に、ミクロの世界への関心が、技術の発達によって非常に高まっていたわけです。

で、そういった時代背景がある中で、広大な宇宙、猛威を振るう自然、それと比べれば、確かに如何にもちっぽけな存在である「人間」だけれども、その反対にミクロの世界と比較すれば、巨大な存在として「人間」を捉えることもできる、そういう風に、パスカルは考えたんです。
このことから、パスカルは、「人間」の存在が中間的なものであると捉え、時間や空間において劣勢にある「人間」、思惟(しい)・精神において優勢にある「人間」、その不安定な状態にある「人間」が唯一確信を持てる存在、それが「神さま」である、という風に繋がって行きます。

つまり、「人間」は、そもそも不安定な状態にあるものであり、そのため「不安」が生じるのですが、それは不安定な状態にある「人間」が知らないだけで、「神さま」は全てを知っている、その「神さま」が「人間」を含む世界を創造されたのだから、「人間」は不安定ではありつつも、確かな存在であり、「神さま」を信じることで心安らぐ状態になるのだって、パスカルは考えたんです。
一方、デカルトは、本文中にも書かれていましたように、先入観を排除し、真理に至るために、まず、あらゆるものを疑います。当然、「神さま」についても、です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もないことから偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付くことがあるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである。」
そして「神の存在証明」を試みるのですが、当時、デカルトらの論理展開は、次のようなものでした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 我々は「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟することができる。ところで「任意の属性Pを備えた存在者S」と、「Sとまったく同じだけの属性を備えているが(Sは備えていない)「実際に存在する」という属性を余計に備えている存在者S'」では、S'のほうが大きい。よって「可能な存在者の中で最大の存在者」は(最大の存在者であるためには、論理的必然として)「実際に存在する」という属性を持っていなければならない。ゆえに「可能な存在者の中で最大の存在者」は我々の思惟の中にあるだけでなく実際に存在する。ところで、可能な存在者の中で最大の存在者とは神である。したがって、神は我々の思惟の中に存在するだけでなく実際に存在する。」
要するに、「人間」の思惟のなかに「神さま」という観念があるのは、不完全である「人間」が作り出したものではなく、完全である「神さま」が、不完全である「人間」に対して、生まれながらにして与えたものである、という風に考えたわけです。

そして、同様に、自然界も「神さま」が創造したものであって、そこには「神さま」が決めた一定の法則があって、その法則の中に「人間」も存在している、だから、その自然界の法則を追求することは「神さま」の意思にかなうと考えます。ここに、精神と物体の切り離し、あるいは「神さま」と自然界の切り離しが行われ、物体あるいは自然界のみを追求していくようになります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。」
こうして、西洋近代の「合理主義哲学」が形成されていきます。
自然科学では解明不能な、現代でいう「クオリア」を認識していたパスカルは、デカルトらの考え方に対して否定的でした。
この両者の考え方の決定的な違いに、お気付きでしょうか?

デカルトは、「二元論」で思考しています。「真」か「偽」か。そして、自然科学オンリーを追求していく流れが、やがて、 観念や精神、心などの根底に物質があり、それを重視する考え方である「唯物論(ゆいぶつろん)」へと発展し、エンゲルスやマルクス、そして共産主義、現代の左翼リベラルへと繋がって行きます。


では、パスカルはどうでしょうか?
本日の最後に、パスカルが『パンセ』に書き遺した次の文章を御紹介させて頂きますので、考えてみてください。
「 懐疑論。
この世では、一つ一つのものが、部分的に真であり、部分的に偽である。本質的真理はそうではない。それは全く純粋で、全く真である。この混合は真理を破壊し、絶滅する。何ものも純粋に真ではない。したがって、何ものも純粋な真理の意味においては、真ではない。人は殺人が悪いということは真であると言うだろう。それはそうである。なぜなら、われわれは悪と偽とはよく知っているからである。だが、人は何が善いものであると言うだろう。貞潔だろうか。私は、いなと言う。なぜなら、世が終わってしまうだろうからである。結婚だろうか。いな。禁欲のほうが優っている。殺さないことだろうか。いな。なぜなら、無秩序は恐るべきものとなり、悪人はすべての善人を殺してしまうだろうからである。殺すことだろうか。いな。なぜなら、それは自然を破壊するからである。われわれは、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものとしてしか持っていないのである。」

ブレーズ・パスカル
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