2017-10-25 (Wed)

カルト(仏: culte、英: cult)は、悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である。良い意味ではなく、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される。

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 自分の運命を左右するような大きな決断をするときには、人は誰しもあれこれ考え、思い悩むものです。特にそれが自分の信念を睹するようなものであればある程、どう心に決着をつけていいのかわかりません。…
【人間が本当の心の安らぎを得るにはどうしたらよいのか】--。

それには、「人間とはどういう存在なのか」という、【人間の存在そものもを問わねばなりません】。

人間の存在を問うとき、【「魂の存在」「死後の世界」「宗教」】、この【3つの原点】についての問いは、【人間の存在の根幹に関わるもの】で、切っても切り離せないでしょう。そこから私の精神的世界への探求が始まりました。
「人間とはどういう存在なのか」「魂は存在するのか」「死後の世界はあるのか」「信仰とはどういうものなのか」…。

ブレーズ・パスカル
私は自分が肌で実感した経験と、【パスカル】や【ウォレス】、【アレクシス・カレル】など、古今の偉人の生き方や言葉から、また私自身の言語学者としての見地から、数十年に及ぶ思索を積み重ね、【その問いに対する答え】を導き出しました。私の答えはこうです。

アルフレッド・ラッセル・ウォレス
【「魂はある」】
【「死後の世界は存在する」】
【「信仰は弱い人間の心の支えになる」】

アレクシス・カレル
人生には、常に不安や迷いがつきまといます。そのたびに、私は偉人たちの言葉を反芻(はんすう)し、自分が導き出した答えに救われてきました。
これから語ろうとすることは、私自身の八十有余年の体験と、その間を通して学んできたことの中から、私自身が納得して掴(つか)み取った【心の平安と魂の安らぎ】についての考え方です。そして、このような精神的な問題については、自分自身が到達したその経緯を明確にしなければ語り得ないことだ、とも思います。
キリスト教徒ならば、そこへと至る経緯を明確にしなければ、語り得ないでしょうし、仏教を信じている人ならば、同じように仏教徒への道を示さなければ語り得ない。無神論の人ならば、無神論という立場を明らかにしなければ魂や心の問題は空疎になってしまう。私はそう思います。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「死」に対する心の在り方を、キリスト教徒である著者が、著者なりの考え方でまとめられている書物になります。参考になるのは、中世から近世・近代へと移り変わる西洋社会において、哲学的な面から、「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方が変化していく様子が書かれている点です。私たち日本人の発想とは全く異なる、キリスト教を根幹とした西洋社会というものを考えるとき、この「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方の変化は、押さえておきたい重要なポイントです。

本文中に、アレクシス・カレルという1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスの外科医、解剖学者、生物学者の名前が書かれています。

アレクシス・カレル
本書をお読み頂ければ詳しく知ることができますが、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもとにある「ルルド」という小さな町に、カトリック教会の巡礼地となっている有名な場所があります。

ルルド
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルー(フランスでは「ベルナデット」)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれている。ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」(アケロ)と呼び、聖母とは思っていなかった。しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。

ベルナデッタ・スビルー
聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていた。ベルナデットが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じる。そして、神父の望み通り、何度も名前を尋ねるベルナデットに、ついに「あれ」は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げた。それは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ」 という言葉であったという。
これによって当初は懐疑的だったペイラマール神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになった。「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年である。家が貧しくて学校に通えず、当時の教会用語だったラテン語どころか、標準フランス語の読み書きも出来なかった少女が知り得るはずもない言葉だと思われたからである。」

このベルナデッタによって発見された泉を「ルルドの泉」と呼びますが、その泉の水によって、不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こっているんです。
学者であり医師でもあるアレクシス・カレルも、自身の患者の達ての願いにより、その患者と共に「ルルドの泉」を訪れたところ、不思議なことに、その患者の病が治ったそうなんです。

ブレーズ・パスカル
また、パスカルについても名前が出てきていましたが、フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆)、思想家、数学者、キリスト教神学者で、まさに「天才」のパスカルは非常に有名ですね。
そのパスカルは、著書『パンセ』の中で、国の「最大の災いは内乱」であると書いています。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆あのパスカルも、見抜いていたこと

で、その最大の災いである内乱を西洋社会において起こそうとするのが、フランス革命に代表されるような「市民革命」の意味不明な存在である「市民」とか、あるいは、キリスト教カトリックに対する抗議運動から始まる凶暴なキリスト教信者である「プロテスタント」などでした。
これらの一連の流れの中で、「リベラル」や「リベラリズム」とか、「共産主義」や「マルクス主義」が生じてくるようになります。

現代の私たち日本において、そこに連なるのが、日本共産党や、立憲民主党であり、宗教的性格を帯びた「カルト集団」です。

☆立憲民主党・枝野代表、選挙後に無所属・岡田克也と協力する考えを明らかに
「リベラル」や「リベラリズム」とか、「共産主義」や「マルクス主義」などは、キリスト教を根幹とする西洋社会で生じてきたものであって、私たち日本人とは、何の関係もないものです。

☆「立憲民主党は信用出来ない」ツイッターに投稿された動画が話題に…(※動画あり)


そして、その大本となっているのが「ユダヤ教」なんです。

中世から近代にかけてのユダヤ人の動きを追って行き、「リベラル」や「リベラリズム」とか、「共産主義」や「マルクス主義」がどのように生じてきたのかを理解することで、現代社会で生活する私たちが、ついつい見逃してしまいがちな大きな流れを把握することができるようになります。
もっとも重要な点を挙げておきますと、ユダヤ社会が分裂をしているということです。

北朝鮮(韓国も含めて)や、その後の支那を巡って、今後起こるであろう出来事を推測する上で、このユダヤ社会が分裂をしているということが非常に重要になってきます。

☆【 #北朝鮮情勢 】米政府高官が非公式警告「韓国からの個人資産の移動を勧める」北朝鮮で活動中のNGOにも非公式伝達 米情報誌報じる~ネットの反応「こういう非公式なのが怖いんだよな…」「これはガチで始まるな」
さて、ここからは昨日の続きになります。
ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争、いわゆる「八十年戦争」(1568年~1648年)のお話ですが、

16世紀中期から17世紀中期までのネーデルラント
このネーデルラントというのは、一つの国家ではなく、それぞれの諸州が政治的に統合されていた地域のことで、そのネーデルラントの中に、八十年戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)があり、北ネーデルラントの中枢であったことから、ポルトガル語でオランダの通称である「Holanda」の由来し、私たち日本人は「オランダ」と呼ぶようになります。

ホラント(北ホラント州と南ホラント州)
「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期の王さまにフェリペ2世に対して、

1598年のフェリペ2世の帝国

フェリペ2世
オラニエ=ナッサウ家の祖であるオラニエ公ウィレム1世を中心にして、ネーデルラント北部諸州が争う形になります。

オラニエ公ウィレム1世
その八十年戦争の初期に、「キリスト教徒に偽装したユダヤ教徒」である「マラーノ(marrano)」たちが移り住んでいて、大規模なユダヤ人コミュニティが形成され、「西のイェルサレム」と呼ばれたアントワープがスペイン軍によって略奪を受けます。

アントワープ(アントウェルペン)
この略奪によって、ネーデルラントの文化、経済、金融の中心だったアントワープが衰退していくようになり、それに代わって勃興してくるのが「アムステルダム」です。ネーデルラントの中心地が、南部から北部へと移り変わることを意味しています。

そして、この時に、ネーデルラント南部の中心地アントワープにいたユダヤ人たちの多くが、、ネーデルラント北部のアムステルダムへと避難していき、そこでコミュニティを形成するようになります。
オラニエ公ウィレム1世は、1577年にユトレヒト州、さらに1578年にアムステルダムを自らの陣営に加えます。

ユトレヒト同盟とスペイン領ネーデルラント(1579年当時)
1579年、ネーデルラント北部7州が、ユトレヒト州の首都ユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印し、「ユトレヒト同盟」が成立します。実は、これが元となって、のちに、独立宣言もなく、うやむやな状況のまま、「ネーデルラント連邦共和国」が成立していたことになりました。つまり、いわゆるオランダと呼ばれる国が、いつ建国されたのかは、誰にも明確にできない、ということになります。

強大な帝国であるスペインとの対抗上、1580年9月、ユトレヒト同盟はフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たにネーデルラントの君主として迎えることを決めます。

エルキュール・フランソワ・ド・フランス
そして、公然とスペイン王国の支配を否定するため、議会によって、フェリペ2世の統治権を否認する統治権否認令が布告されます。
ところが、一旦はネーデルラントに入ったものの、わずか数年でアンジュー公フランソワはフランスへと戻ってしまいます。
さらに、1584年には、オラニエ公ウィレム1世が暗殺され、ユトレヒト同盟は指導者を欠く状態に陥ってしまいます。
1585年、ユトレヒト同盟はフランス王アンリ3世に北部7州の主権を委ねることを申し出ますが断られ、さらにイングランド女王エリザベス1世に同様の申し入れをして、またもや断られます。
そのイングランド女王エリザベス1世と「良い関係」にあったイングランド貴族に、初代レスター伯ロバート・ダドリーという人物がいました。

初代レスター伯ロバート・ダドリー
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 1558年にプロテスタントのエリザベスが即位するとただちに主馬頭に取り立てられ、翌1559年には枢密顧問官に列した。女王の寵愛を受け、やがて女王と愛人関係となり、結婚の噂も立ったが、1560年の妻エイミーの事故死をめぐる疑惑で女王との結婚は困難になった。1564年にはレスター伯爵に叙されるとともにケニルワース城を与えられた。
しばしば女性問題で女王の逆鱗に触れた。特に1578年にレティス・ノリスと再婚した時の女王の怒りは激しかった。1585年にはスペインに対抗するネーデルラント反乱軍の援軍の指揮官として派遣されたが、女王に独断でネーデルラント総督職を引き受けたことにより女王の不興を買い、さらに指揮官としても無能だったため、1586年には召喚された。」

『エリザベス女王とレスター伯の肖像画』ウィリアム・フレデリック・イェームズ
1585年8月、スペイン軍によって包囲されていたアントワープが降伏します。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 1579年のユトレヒト同盟にもアントウェルペンは加わり、反スペインの姿勢を鮮明とした。しかし、1583年末までに同市の周辺地域はスペインに占領されており、オラニエ公ウィレム1世もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと、1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降服を余儀なくされた。
降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられた。 そのほとんどがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へと移住したことは、オランダが黄金時代を築いていく前提となった。一方、その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人の統制下におかれた。こうしたことの結果、アントウェルペンに代わってオランダのアムステルダムが世界商業・金融の中心地となっていった。」
で、イングランド女王エリザベス1世は、スペイン軍に追いつめられるネーデルラント反乱軍の支援を決定し、レスター伯ロバート・ダドリーを5000人の軍勢と共に派遣します。

1586年のデン・ハーグでのレスター伯のパレードを描いた絵画
レスター伯ロバート・ダドリーは、大した成果も挙げないまま本国へ戻って行くのですが、ここで重要な歴史上のポイントを迎えることになります。
スペイン王・フェリペ2世は、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期の王さまですが、

1598年のフェリペ2世の帝国
「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、熱狂的なカトリックでした。
だからこそ、プロテスタントが蔓延るネーデルラントの鎮圧を行っているわけです。自分たちの所領なのですから、最もな理由ですね。
一方、イングランド女王エリザベス1世はプロテスタントであり、プロテスタントが蔓延るネーデルラントに援軍として軍隊を派遣したわけです。

エリザベス1世
さて、これで揉め事が起こらない理由が、一体どこにあるでしょうか?
イングランド王国とスペイン王国、そしてネーデルラントの位置を確認してみましょう。

もう、お分かりですね。戦いの舞台は、海の上になります。
ここに、英西戦争 (1585年~1604年)が勃発します。歴史上の重要なターニングポイントとなる戦争です。
私たちの日本でいえば、「本能寺の変」(1582年)の3年後のお話になります。
続きは次回に♥
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