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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国史 >  日本の鎖国中、貿易を許されていた「オランダ」って、いつ頃に出来た国でしょう?

    日本の鎖国中、貿易を許されていた「オランダ」って、いつ頃に出来た国でしょう?

    『オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク』ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作、1886年 - 1890年。
    『オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク』ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー作、1886年 - 1890年。

    オルレアン包囲戦(Siege of Orléans)は、イングランドとフランスの百年戦争においてターニングポイントとなった、フランスのオルレアンで1428年10月12日から1429年5月8日にかけて起きた戦闘である。この包囲戦は、ジャンヌ・ダルクの主要な軍事行動における最初の勝利であり、1415年にアジャンクールの戦いで敗れた後のフランスにとって、最初の大きな勝利であった。この包囲戦の結果その後のイングランドの軍事力は下降線となっていった








    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【織田信長】本能寺の変殺されなかったら日本の近代化300年早かっただろう……式の解説後を絶ちません

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    中には、「織田信長は生きていたら世界征服をしただろう。それだけのスーパーマンだったのだ」とすら言い出す人もいます。さすがに、マンガのイメージですけど。

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     最近の【NHK大河ドラマ】でも、【ある種の“信長タブー”】があります。

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    というのは、【「信長を凡人として扱ってはならない」という、強迫観念】のような感じです。

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    21世紀の作品を並べますと、【「真田丸」「軍師官兵衛」「江~姫たちの戦国」「天地人」「功名が辻」「利家とまつ~加賀百万石物語」】では【信長は主要人物として登場】しています。

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    【そのすべての作品】で、「戦国で最も傑出した人物」「誰もが恐れた武将」「他の大名とは格が違う」などと、要するに【「最強キャラ」として描かれ】、はては【「天皇になろうとした覇王」というフィクションまで付け加えられる】場合もありました。

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     【小説家や評論家】はえてして、【権威を否定】した人、【たぐいまれなる天才】【神になろうとした】人、【人を人と見ない】残虐な人、として描きます【学者さんでも専門外の人】だと、【これらのイメージにひきずられる】ことがあります。

    ポイント 32

     最初に言っておきます。【みんなが知っている「織田信長」のイメージ】と、【信長を専門とする研究の示す信長像】は、【まったくの別人】と言ってよいほどです(詳しくは、【日本史史料研究会編『信長研究の最前線』洋泉社】をどうぞ)。

    ポイント 31

    信長研究の最前線 (歴史新書y 49) 

    私は【信長を、史実の信長と全く別人の超人として描くことに違和感】を持ち、本書を書こうと思い立ちました。

    織田信長
    織田信長

     ただし、誤解しないでください。私は【信長の超人性を否定する】ことで【信長を貶(おとし)めたいのではありません】。むしろ、【信長の真の魅力を伝えたい】のです。

     まずは全体像を掴んでいただくために、「信長は権威をないがしろにしたのか」「信長は室町幕府を滅ぼしたのか」「信長は革新的な人物だったのか」「信長は戦争の天才だったのか」について、一つひとつ確認してみます。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、学校の授業大河ドラマ映画、はたまた小説漫画ゲームなどなど、色々な場面で登場する、あの「織田信長」について、恐らくは、大多数の日本人間違ったイメージ刷り込まれたままになっていて、そのことについて「驚き」を持って気付かされる非常にお勧めの良書になります。

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    さて、著者が書かれているように、『みんなが知っている「織田信長」のイメージと、信長を専門とする研究の示す信長像は、まったくの別人』となってしまっているのですが、同じような事例は、他にもたくさんあって、先日ご紹介させて頂きましたとおり、「吉原遊郭」に関しても、誤ったイメージが定着していました。

    詳しくはこちらをご参照❤

    日本人が、本当の江戸時代を知らない理由 ~ 「遊郭」の例

    吉原の真実 

    どこかの時点で、事実誤認があって、それが拡大再生産されて、多くの日本国民が誤解をしている。中には、政治的な意味での「プロパガンダ」による捏造もあったりするのですが、そういったものも含めて誤りを正す努力が必要ですね。

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    さて、ここからは10月8日の続きになります。

    世界屈指最長不倒、そして悠久の歴史を持つ私たち日本

    その国史、それをマラソンに例えてみますと、縄文時代の始まりとされる紀元前14,000年、そこをスタート地点として、私たちが生きている現代をゴールとしたとき、「江戸時代」というのは、あと残り、たったの1キロ程度という時代になります。

    日本の歴史 時代区分 マラソン 5

    こちらもご参照❤

    (問題) 縄文時代から現代までをマラソンに例えると、「室町時代」はゴールまであと何キロ?

    古事記の暗号 

    そして、この頃西洋社会は、「中世」という時代から、「近代」(あるいは「近世そして近代」)へと移りゆく時代になります。

    「中世」から「近世・近代」へと移り変わる、この頃の大きな特徴は、キリスト教という信仰のうえで人間に対する「絶対的な神の存在」が揺らぐ、つまり、何でもかんでも「神さまの言うとおり」(=教会の言うとおり)ではなく「自分たちで考えたって良いんじゃないの?」みたいな、「人間を主体」として考える流れが生じていくことです。

    すなわち、「科学革命」「近代哲学」「啓蒙主義」これらが勃興していく時代へと突入していくんです。

    平和を長く享受した、江戸時代私たち日本と違って、西洋世界では、同じ宗教なのに殺し合いをする、地球中を侵略していく、そんなトンデモな時代でした。

    ポイント 31

    また、キリスト教徒によって追放されたり虐殺されたりされるユダヤ人がいる一方で奴隷貿易やアヘン貿易で富を築くユダヤ人も居ました。

    そんなユダヤ人が関係した、イギリスにおける「ピューリタン革命」において、王さまのチャールズ1世が処刑されたのが、1649年のことになります。

    チャールズ1世の処刑
    チャールズ1世の処刑

    さらに、そこから45年後中央銀行であるイングランド銀行が設立されました。

    イングランド銀行憲章の調印(1694年)
    イングランド銀行憲章の調印(1694年)

    このイングランド銀行の設立にも、実はユダヤ人が関係しています。

    西洋社会において、「中世」という時代から、「近代」(あるいは「近世そして近代」)へと移りゆく時代であるこの頃、西洋の王さまたちは、借金手形を乱発するようになります。ところが、身勝手な西洋の王さまたちは、しばしば借金を踏み倒したりしていました。約束なんて、知ったことか、という態度です。これですと、おカネを貸す方が一方的に不利になってしまいます。そこで、王さま個人への貸付ではなく、キチンとした契約に基づいた国家に対する貸付へと変わって行くようになります。それが、現代でいうところの「国債」へと整えられていくわけです。

    そして、その始まりは、オランダにありました。

    1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲(着色部分)
    1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲(着色部分)

    中世後期北ドイツを中心バルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟「ハンザ同盟」と呼ばれるもので、古高ドイツ語「ハンザ」「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指したものでした。

    ハンザ同盟の主要交易路
    ハンザ同盟の主要交易路

    少しお話が逸れてしまいますが、現在のフランス東部に、かつて「ブルゴーニュ」と呼ばれる地域圏が存在していました。

    ブルゴーニュ地域圏
    ブルゴーニュ地域圏

    エスカルゴとかブルゴーニュワインでも超有名なところです。

    以下はWikipediaからの抜粋です。

    「 ブルゴーニュ地方は、ボルドーと並ぶワインの銘醸地である。ボルドーと比べ小規模な個人経営の農園が多いことが特徴。コート=ドール県を中心に生産されるワインは、主に赤はピノ・ノワール種白はシャルドネ種のぶどうで作られる。その他にガメイやアリゴテ、ピノ・ブランなども使用される(ワインに使用できるぶどう品種はそれぞれのAOCによって規定されている)。世界で最も高価なワインとされるロマネ・コンティ等著名なワインが数多く存在する。」

    ピュリニー=モンラッシェのブドウ畑
    ピュリニー=モンラッシェのブドウ畑

    若くから武勇に優れ、後に豪胆公の異名を取ったフランス王子フィリップ2世が、1363年ブルゴーニュ公領を与えられます

    豪胆公フィリップ2世
    豪胆公フィリップ2世

    ブルゴーニュ公領
    ブルゴーニュ公領

    1369年フランドル伯ルイ2世の娘マルグリット3世と結婚

    マルグリット・ド・ダンピエール
    マルグリット・ド・ダンピエール

    「フランドル」というのは、中世毛織物業を中心商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した、オランダ南部ベルギー西部フランス北部にかけての地域のことです。

    フランドル

    これによって、フィリップ2世広大な領地を支配することになります。

    フィリップ2世の領地

    以下はWikipediaからの抜粋です。

    「 「フランドル」という呼び方は、元々フランス語から由来されている地域名である。日本では英語由来のフランダース(Flanders 、ただし英語での発音はフランダズに近い)もよく使用され、歴史学では古くからのオランダ語の発音に基づくフランデレンやフランデルン(舞台ドイツ語においても同様)、フラーンデーレン(Vlaanderen)も使用される。ドイツ語ではフランダーンもしくはフランデアン(Flandern)である。

     フランス王家ヴァロワ家傍系(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)フランドル女伯マルグリットが結婚し、フランドルブルゴーニュ公国の一部となった。」


    で、この頃、イギリスとフランスは犬猿の仲だったことで有名で、「百年戦争」と呼ばれる、1337年から1453年までの、実際には116年間に渡って戦争を続けていましたその戦争の結果現在の英仏国境が確定したとされています。

    このイギリスとフランスの特殊な関係は、以前にも書かせて頂いておりますので、ここでは省略をさせて頂きます。

    こちらをご参照❤

    Toward an Alliance of Hope (希望の同盟へ)

    米中もし戦わば 

    ユダヤ教の「金貸し」とキリスト教の「金貸し」と『阿呆船』

    ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 

    そのイギリスとフランス「百年戦争」で、フランス王の家来であるはずのブルゴーニュ公は、イギリス側に付きます

    その「百年戦争」のあとも、事実上最後のブルゴーニュ公とされるシャルル突進公は、歴代のブルゴーニュ公が追求した「反フランス」「マース川、モーゼル川の間にある全領域を手に入れる」という目的を継承します。

    『シャルル突進公』ピーテル・パウル・ルーベンス画
    『シャルル突進公』 ピーテル・パウル・ルーベンス画

    1474年ブルゴーニュ戦争が勃発、

    ブルゴーニュ戦争
    ブルゴーニュ戦争

    1477年ナンシーの戦いで、シャルルは戦死、切り刻まれたシャルルの遺体が確認されたのは3日後だったと言われています。

    戦いの後発見されたシャルル突進公の遺体。作者未詳(1862年)
    戦いの後発見されたシャルル突進公の遺体。作者未詳(1862年)

    この戦いで、当時ヨーロッパ最強と謳われたブルゴーニュ軍に勝利し、その名を確固たるものにしたのがフランス側に付いていたスイス軍で、スイス傭兵の評価決定的なものとなります。

    詳しくはこちらをご参照❤

    スイスには、「スイス語」はありません

    世界一豊かなスイスとそっくりな国ニッポン 

    そして、ブルゴーニュ公領はフランスへ、フランドルを含むネーデルラント17州は後にハプスブルク家へと帰属するようになります。

    この時、フランス側とハプスブルク家側とにブルゴーニュ公国の遺領が分かれたことが原因となって、フランス王家とハプスブルク家長きにわたる抗争が勃発していくようになります。

    ポイント 32

    ハプスブルク家の絶頂期君臨したのが、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位1519年~1556年)です。

    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 『カール5世』1548年
    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 『カール5世』1548年

    彼は同時にスペイン国王にも就いていましたので、その領土は、現在のヨーロッパの大半を占めるほどでした。

    カール5世時代のハプスブルク家の領土
    カール5世時代のハプスブルク家の領土

    そして、あの「宗教改革」で有名なマルティン・ルターが登場するのも、このカール5世の時代です。

    マルティン・ルター
    マルティン・ルター

    このカール5世は、スペイン・ネーデルラント関係の地位と領土を全て息子のフェリペ2世に譲り、オーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土弟のフェルディナント1世に継承させます。

    その結果、オーストリア系ハプスブルク家スペイン系ハプスブルク家両方に挟まれた格好になったのが、フランス王国で、1589年以降、メディチ家の財力を受け継いで繁栄していくのが、「ルイ王朝」とも呼ばれるブルボン朝フランス王国です。

    また、イギリスで「イギリス国教会」が成立するのも、この時代です。

    詳しくはこちらをご参照❤

    教皇、国王、そして金融

    ハプスブルク家とメディチ家

    豊洲利権と蓮舫 

    そして、アンチ・カトリックプロテスタントが猛威を振るうのもこの時代でした。

    そして、そんな中から「オランダ」が誕生します。



    続きは次回に♥




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