2017-09-19 (Tue)

征夷大将軍坂上田村麻呂『前賢故実』(菊池容斎画)
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。
平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【天皇が天皇である証明】は【三種の神器】だが、同時に【天皇が天皇になるための儀式】がある。
【大嘗祭(だじょうさい)】だ。

昭和天皇の大礼記念切手に描かれた、祭礼が行われた大嘗宮
このとき、【神道の秘儀】である【「天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)」】が奏(そう)される。それをもって、【天皇は天皇になる】のだ。
だが、怒り心頭の【長慶天皇】(第98代天皇/第99代後亀山天皇の兄)は【後亀山天皇】に、「天津祝詞の太祝詞事」だけは北朝には絶対に渡すな、と命じた。ということは、【北朝系の天皇はいずれも、本当の大嘗祭は行っていなかった】ということになる。

ちなみに北朝は南北朝時代、5人の天皇が三種の神器も「天津祝詞の太祝詞事」もないまま、つまり【三種の神器が空箱のまま】で、なおかつ【不完全な大嘗祭のもと】、【即位】している。これは5人の天皇が、肉体的にも霊体的にも不完全だったことを意味している。

その後、三種の神器は北朝の手に渡ったが、「天津祝詞の太祝詞事」はあいかわらず伝えられていないままだ。
これは、【きわめて重要なこと】である。

言葉を換えて説明すると、こういうことになる。
政権としての国家、すなわち政体は当時から現在まで、ずっと北朝にある。これは政治の話だ。
しかし、【宗教的な国の姿、宗教的な国体の護持】は、いまだに【南朝にある】ということを意味している。
ちなみに、【そのことをよく知っていたのがあの織田信長】だ。

織田信長
あるときのことだ。
勧修寺晴豊(かしゅうじはるとよ)という公家が織田信長に、「関白、太政大臣、将軍のどの地位でも就ける」と打診したことがある。だが【信長は、それをにべもなく断った】。

このときの信長の本心は、自ら天皇になることにあったからだ。
というのも【織田家は平氏でも藤原氏でもなく、本姓は「忌部氏(いんべうじ)」】なのである。しかも【信長は、後南朝の人間】だった。

だから、【北朝系の天皇家に「天津祝詞の太祝詞事」が伝わっていないことを知っていた】。それに加えて【信長は、「天津祝詞の太祝詞事」をいえた】のである。
そうであれば、三種の神器さえ手元にあれば、自ら天皇になることも決して不可能ではない。

信長暗殺の背景には、こうした事実が隠されているのである。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、タイトル通り、そのものズバリで、『古事記』に隠されている「暗号」について、たくさんのヒントが書かれている書物になります。
『古事記』について、まだ、よく知らないという方には、まずはラノベ風に書かれた、こちら(↓)の書物で『古事記』に触れて頂き、そこから流れを掴んだ上で、別の書物をお読みになられると良いかと思います。実は、そんなに難しくはなく、むしろミステリアスで、とても楽しいのが『古事記』の魅力になります。
こちらをご参照❤
↓
☆小野寺 優 ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語

そして、ある程度、『古事記』について知った上で、著者が書かれている書物をご覧頂きますと、一気に『古事記』の世界に引き込まれることだと思います。
こちらもご参照❤
↓
☆竹内睦泰 古事記の宇宙

☆竹内睦泰 古事記の邪馬台国

ぜひ、皆さんも、『古事記』に触れて頂き、今なお、私たちの日本中にある神話の時代を伝え残す史跡を巡ってみてください。
きっと、新しい発見があることと思います。

さて、昨日も書かせて頂きましたが、この南北朝時代、室町時代というのは、私たち日本の悠久の歴史の中で、

それをマラソンに例えれば、現代というゴールまで、たったの2キロもない、そういう時代になります。

そして、その、ほんの少し前、地球上に現れた巨大なモンゴル人による(※中国人ではありませんw)モンゴル帝国、それと歴史を繋げることで、私たち日本の国史といわゆる世界史との位置関係が理解できるようになります。

ところで、先日、こんなニュースが流れていました。

「 光秀の狙いは室町幕府再興か 「本能寺の変」10日後の書状原本発見
戦国時代の武将、明智光秀が「本能寺の変」で主君の織田信長を討った10日後に、反信長派の豪族に宛てた書状の原本を発見したと、三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、明らかにした。信長に京都から追われた室町幕府の15代将軍、足利義昭を再度入洛(じゅらく)させようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授は「光秀らが義昭を奉じて室町幕府を再興させようとする政権構想がうかがえる」としている。」
☆光秀の狙いは室町幕府再興か 「本能寺の変」10日後の書状原本発見
有名な「本能寺の変」の、その黒幕は誰なのか、という論争に関わるニュースです。「日本史の謎」とか「永遠のミステリー」とか、言われているものです。
この「本能寺の変」は、天正10年6月2日(1582年6月22日)の早朝の出来事でした。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)
戦後の学校教育において、織田信長は1573年に足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放したので、「室町幕府」が滅亡した、と覚えさせられているのですが、先程のニュースでも分かるように、足利義昭は織田信長が殺された(1582年)後も生き残っています。

足利義昭像(古画類聚)
基本的なところですが、「幕府」って何でしょうか?

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将(このえのだいしょう)の唐名。
中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。」
つまり、「幕府」という言葉の持つ意味は、王様の家来の本営のことだと分かります。

ですので、私たちの日本で考えますと、天皇の御住いが「御所」で、その家来である武家の筆頭が拠点としたところを「幕府」と言っている訳です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方」などと呼ばれており、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。」
で、当時の天皇が、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)で、在位は弘治3年10月27日(1557年11月17日)~天正14年11月7日(1586年12月17日)となります。

正親町天皇像(京都・泉涌寺蔵)
本文中に、「勧修寺晴豊(かしゅうじはるとよ)という公家が織田信長に、「関白、太政大臣、将軍のどの地位でも就ける」と打診したことがある。だが信長は、それをにべもなく断った。」と書かれていましたが、これも三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)といって議論がなされている問題なのですが、その問題はともかく、天皇によって正式に武家の頂点の地位を与えられなければ、足利義昭を単に京都から追い出しただけで、織田信長が「室町幕府」を滅ぼしたことにはならないんです。

現に、足利義昭は、征夷大将軍という有事における武家の最高職に、永禄11年(1568年)~天正16年(1588年)まで就いているんです。
重要なのは、天皇の権威があってこそ、天下を取れるということです。これを、戦後の学校教育では、教えようとしません。ですので、歴史の流れが掴めなくなってしまうんです。

ちなみに、織田信長は、天正3年(1575年)に、平時における武家の最高職である右近衛大将(うこんえのだいしょう)に任官しています。また、権大納言(ごんだいなごん)にも就いています。
一方の足利義昭は、翌年(1576年)、備後国(びんごのくに)・鞆(とも、現広島県福山市)に拠点を移し、これ以降を、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」と呼んでいます。
しかし、足利義昭の官職は近衛中将のままです。つまり、天皇の権威によって、織田信長が上位に立ったわけです。

これこそ、足利将軍にとってかわる「天下人の地位」を表象するもので、織田信長は、以後「上様」と呼ばれることとなります。
織田信長亡きあとの、豊臣秀吉も、徳川家康も、すべて同じで、天皇の権威により、その地位を不動のものとします。天皇あってこそ、なのです。
ちなみに、足利義昭は、天正16年(1588年)1月13日に、征夷大将軍の職を辞します。
そして、豊臣秀吉から山城国に領地を与えられ、さらには文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)、いわゆる「朝鮮出兵」にも参加したりしています。
続きは次回に♥
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