2017-09-18 (Mon)

紅葉の吉野山
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 日本史上において、【天皇がふたり存在するという異常事態の時代】があった。
【南北朝時代】である。

年代としては、【後醍醐(ごだいご)天皇】主導による【建武の新政】が失敗し、

後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)
【足利尊氏(あしかがたかうじ)】が【北朝(偽朝)】の光明(こうみょう)天皇を擁立した1336年から、【両朝合一】で同意を得た1392年までの56年間の出来事だ。

伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
その間の経緯を、簡単に記しておこう。
1333年、後醍醐天皇が全国の武士に綸旨(りんじ)を発したことで、【鎌倉幕府は崩壊】。建武の新政と呼ばれる【天皇親政】が始まった。だが、恩賞配分への不公平や政治的手腕の失敗により、【後醍醐天皇は失脚】。【足利尊氏が光明天皇を擁立】したことで、後醍醐天皇は【吉野】へ移る。

後醍醐天皇図(1890年、尾形月耕・画)
ここに【京都(北朝)と吉野(南朝)】という、【ふたつの朝廷が並立】することになった。
これが南北朝と呼ばれる時代だ。…

春の吉野山
【天皇】が【天皇であるための存在証明】が【ふたつ】ある。

ひとつは有名な【三種の神器】(八咫鏡・やたのかがみ/八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま/草薙剣・くさなぎのつるぎ)だ。

三種の神器(イメージ
もうひとつは、【神道におけるさまざまな秘儀】である。

前者は、【政体】を継ぐ者のシンボルであり、後者は【国体】を継ぐのに絶対に欠かせないものだ。

混乱はしていても、【このふたつを手にした者が本物の天皇】であることに変わりはない。南北朝が分裂したときには、【三種の神器も神道の秘儀も、すべて後醍醐天皇(南朝)の手にあった】。
つまり、あくまでも【南朝が、正統の天皇家だった】のである。

だが1392年、南北朝は合一する。
【持明院統(じみょういんとう/北朝)】と【大覚寺統(だいかくじとう/南朝)】が、【交替で皇位に就くという約束】が結ばれ、

後亀山天皇像(大覚寺蔵)
南朝の第99代【後亀山(ごかめやま)天皇】は北朝の第100代【後小松(ごこまつ)天皇】に、【三種の神器を渡した】のである。

後小松天皇像(雲龍院蔵)
だが、交替で皇位にという約束は、【北朝のバックにいた足利将軍家によってあっさりと破られてしまう】のだ。

ここで怒ったのが、後亀山天皇だった。
『正統竹内文書』によれば後亀山天皇は、三種の神器こそ北朝に渡したものの、【もうひとつの重要な天皇の存在証明である秘儀は、絶対に教えなかった】という。

世の中にはまったく知られていないことだが、【この天皇の存在証明が分離するという異常事態】は、以後、解決されることもなく、【現在まで続いている】のである。
つまり、三種の神器は北朝にあるが、【宗教的な秘儀はいまだ南朝の手にある】のだ。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、タイトル通り、そのものズバリで、『古事記』に隠されている「暗号」について、たくさんのヒントが書かれている書物になります。
『古事記』について、まだ、よく知らないという方には、まずはラノベ風に書かれた、こちら(↓)の書物で『古事記』に触れて頂き、そこから流れを掴んだ上で、別の書物をお読みになられると良いかと思います。実は、そんなに難しくはなく、むしろミステリアスで、とても楽しいのが『古事記』の魅力になります。
こちらをご参照❤
↓
☆小野寺 優 ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語

そして、ある程度、『古事記』について知った上で、著者が書かれている書物をご覧頂きますと、一気に『古事記』の世界に引き込まれることだと思います。
こちらもご参照❤
↓
☆竹内睦泰 古事記の宇宙

☆竹内睦泰 古事記の邪馬台国

ぜひ、皆さんも、『古事記』に触れて頂き、今なお、私たちの日本中にある神話の時代を伝え残す史跡を巡ってみてください。
きっと、新しい発見があることと思います。

さて、今回は、『古事記』とはあまり関係のない本文を御紹介させて頂きましたが、『古事記』の暗号のネタばれですと、書物が面白くなくなると思いますので、伏せさせて頂きます。ただし、御紹介の本文部分には、著者の強い思い入れがあることは事実で、その意を汲むことが現代日本人にとって大切なことだと思います。
で、本文中の「南北朝時代」というのが、私たち日本の悠久の歴史の中で、どの位置にあるのか、イメージができますでしょうか?

ちなみに、年表で示してみると、こんな感じになります。

例えば、紀元前14,000年を「縄文時代」のスタートとして、私たちが今、生きている2017年をゴールと見立てて、マラソン大会に置き換えて想像してみましょう❤

ゴールまで、あと何キロの地点でしょうか?

正解は、たったの2キロもないんです❤


こちらもご参照❤
↓
☆悠久の日本 ~ 西洋人なら笑いとばしたくなる話

☆(問題) 世界で最初に焼き肉を食べていたのは、どの民族でしょう?

そして、その少し前の頃、地球上に巨大な帝国が現れ、私たちの日本にも侵略を仕掛けてきました。
それが、モンゴル人のモンゴル帝国です。

「 海洋に浮かぶ小国日本は、…平和に暮らしてきた。その日本の長い歴史の中で、外敵から侵略を受けた大きな国難は「元寇」「露寇」「米寇」の三つである。日清戦争の「清寇」を加えて四寇と言ってもよい。日本が過去に戦ったこれらの敵国は、いずれも人口、面積で巨大な国家ばかりである。…当時の日本にとっては、象やライオンのような巨大な強敵であった。対する日本はアリやリスのようなおとなしい小国である。この象とアリの戦いを見て、“アリが象を襲った侵略戦争だ”と見るのはナンセンスである。この例えから日本の過去の戦争は、すべて大国の小国日本への“侵略戦争”であることは明らかだ。
四寇は、古代から平和に暮らしていた日本国土に突如、強盗、海賊、ギャングの集団が、征服し覇権を握るため襲来してきたもので、一般の概念である戦争というべきではない。元寇の時、蒙古軍の大軍が九州博多に襲来したように、米寇は“沖縄に軍艦1500隻、航空機1500機、兵隊550,000人”の大軍が襲来したもので、日本にとって元寇以来の国土への直接襲来の国難であった。これは沖縄への米軍襲来だ。元寇と対比する事によって…明らかに米の日本侵略戦争であったことが証明される。…
戦後の学校教育では、“アメリカが仕掛けた太平洋戦争”を日本の侵略戦争として位置づけ、その暗い面のみ強調してきた。その一方で、先人が力の限りを尽くして成し遂げた、元寇や、日清、日露といった勝利の戦いを、“わざと”矮小化して触れないようにしてきた。これでは国民は萎縮して、祖国への自信と誇りを失ってしまう。
13世紀初め、チンギス・ハンによってモンゴル高原にモンゴル帝国が出現した。不敗の騎馬軍団を擁して各地に侵攻し、広大な領土を持つにいたった。彼は他国を亡ぼすこと40、人を殺すこと数百万人に及び、その勢力は東ヨーロッパにも及んだ。この帝国の五代目のフビライ・ハンの時、大都(北京)という都をつくり、国号を元と称した。フビライは朝鮮半島の高麗(=韓国・北朝鮮)を属国とし、やがて宋(=中国)を倒して、中国全土を支配することになった。…さらにフビライは、…日本を征服しようと企て、使者を送って朝貢するように求めてきた。
当時鎌倉幕府の執権北条時宗は、使者を鎌倉龍の口に引き出して、「この無礼者!」と斬り殺してしまった。わずか17歳の時宗は、国家(=日本)への“侮辱”に対して毅然として立ち向かう大和魂を発揮した。
怒ったフビライは、二度にわたって元の大軍による日本遠征を試みた。一度目は1274年に約30,000の兵が900隻の船に乗って襲ってきた。対馬・壱岐を占領し、「住民を虐殺」した。…巨大な元の襲来が二度も失敗したのは…騎馬軍団による陸戦にはなれているが、海を渡っての戦いは不馴れで、大軍の中には高麗(=韓国人・朝鮮人)や宋(=中国人)の兵も多く混じっていて、内部統一がとれていなかったためである。」

こうやって、モンゴル帝国の動きと並行させることで、私たち日本の国史といわゆる世界史とをリンクさせることができます。

「 モンゴルはいまでこそ、中央アジアの小国にすぎませんが、元(モンゴル)が、世界をつなげたということを理解しておかなければなりません。…
このモンゴルこそが、世界の歴史を一つにつなげたということの意義を、認識することが必要です。…
モンゴル帝国の隆盛とその拡大によって、東西のさまざまな文物が行き交うことになり、東西の文化の交流も進んだという事実、これが重要なのです。…
それというのも、東洋の文化が、イスラム世界だけではなく、モンゴルを経由して、西洋に伝わっていったということです。
その典型的な例が絹です。…絹を運ぶために絹の道(シルクロード)がつくられ、東西が結ばれました。…

これによって、マルコ・ポーロは日本の情報を西洋に伝えることができたのです。それは、彼の著書である『東方見聞録』の中に、黄金の島・ジパングとして紹介されています。これが実は、極めて重要な情報だったのです。」
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆マルコ・ポーロの『東方見聞録』って、何が書いてあったのでしょう

それでは、以上を頭に置きながら、室町時代を見ていきましょう。
続きは次回に♥
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