2017-08-12 (Sat)

『オランピア』(1863、オルセー美術館、エドゥアール・マネ)
エドゥアール・マネ(フランス語: Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。

エドゥアール・マネ
ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。

『草上の昼食』(1862-63、オルセー美術館、エドゥアール・マネ)
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 それにしても、私はなぜ、こんなにも長きにわたって第一線でお仕事をさせていただけているのでしょうか。その理由は、いったいどこにあるのでしょう。

自分自身、不思議に思うことがあります。それはたぶん、ほかのものまね芸人たちとは「違う何か」が私のものまね芸のなかにあるからではないでしょうか。“視点”であったり、“アレンジ”の仕方であったり、独自の“表現”方法だったり…。
そして今回、本を書くにあたって思ったんです。
私の芸を支える、そうした独特の“視点”“アレンジ”“表現”の方法は、ひょっとしたら読者のみなさんのお役に立つこともあるかもしれないな、九州の田舎から出てきた男が、競争の激しい世界で生き抜いてきた方法は、誰かの参考になることもあるかもしれないな、と。

というつもりで、ペンをとってみたのですが…実際に書き進めてみると、これが、言うほど特別すごいことでも、大仰(おおぎょう)なことでもない、むしろ、【ほんの「些細な発見」と「工夫の積み重ね」】が、いまのコロッケなり、コロッケの芸を作り上げている--どうやらそれが正解です。

コロッケの芸は、【些細なこと、見ようによっては瑣末(さまつ)で、あまり他人が気に留めないようなこと】でできている。でも、【「神は細部に宿る」という言葉】を聞いたことがあります。もともとは【建築の世界の言葉】のようですが、私の実感にも合う。だったらこの本では、その「些細なこと」にこだわって、丁寧に語っていこうじゃないか、ということで書き上げてしまいました。
そもそも【人間って、ものまねをし続ける生き物】じゃないでしょうか。
赤ちゃんは両親を、小さな子どもは戦隊物のヒーローを、学生はファッション誌に掲載されたカリスマモデルを、音楽好きは憧れのミュージシャンのヒット曲をまねします。スポーツや仕事なら、目標の人に少しでも近づこうと、【一生懸命にまねして学び、創意工夫を重ねます】。

まねをし続けるのが人間、もっと言えば、【“まねることは人生そのもの”】。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、まさにモノマネの第一線でお仕事をなさっている著者の、ご自身の芸に関するエッセンスが書かれている書物です。
著者が書かれている通り、「人間って、ものまねをし続ける生き物」で、そしてただ単に真似るだけではなく、「一生懸命にまねして学び、創意工夫を重ね」ることで、やがて、その人自身の「独特」な何かを身につける、それが「競争の激しい世界で生き抜く」方法だと思います。
さらに言えば、それがゴールではなく、そこからは他者を引っ張って行くリーダーとして再出発し、さらに厳しい世界を乗り越えていく、こんな風に考え、実践していくことが大切なのではないでしょうか。

ところで、私たち日本人の古来よりの言葉である「和語(やまとことば)」の「ま」。
この「ま(真)」という言葉は、色々な語の頭にくっついて、本物・本格的・真実・誠実・純粋・正確などの意味を表す言葉です。
「ま(真)」と「こと(事、言)」がくっつくと、「まこと(真、誠、実)」となって、うそや作りごとでない真実の事や言葉を意味し、特に、「偽りのない」「純真な」心や態度を言い表します。
「ものまね」の「まね(真似)る」も、「和語(やまとことば)」の「まねぶ」から来ていて、動作などを似せることを「まね(真似)」、そのよう似せる動作を「まねぶ(真似ぶ、学ぶ)」と言い、対象をそっくりそのままの形で再現しようとする意味になります。
そして、「まなぶ(学ぶ)」も同根で、教えられるままに形を作る、学習する、といった意味を表すようになります。
まさに、著者が書かれている通り、人間はものまねをし続ける、学び続ける生き物なんでしょうね❤

さて、昨日までのところで、「第4の権力」とも呼ばれるメディアは、今から100年ほど前からすでに、情報を操作している、まさにそのための道具であったということを、ウォルター・リップマンやエドワード・バーネイズ、

ウォルター・リップマン

エドワード・バーネイズ
そして、タヴィストック研究所、ランド・コーポレーション、

はたまた、数々のネオコンの勇士である弟子たちを育て上げた、「国防総省のヨーダ」ことアンドリュー・マーシャル、

アンドリュー・マーシャル

ジョージ・W・ブッシュより大統領市民勲章を授与されるアンドリュー・マーシャル(2008年12月10日)
さらには、タヴィストック研究所のメンバーでフランクフルト学派(隠れマルクス主義)のクルト・レヴィン、

クルト・レヴィン
で、ユダヤ教から繋がる、「フランクフルト学派」と、それが私たちの日本の「パヨク」に入り込んでいる思想だというところまでを書かせて頂きました。

ここまでの基本線を、まず覚えておいてください。

で、さらに、「ジャーナリストの鏡」といわれるウォルター・リップマンと「ネオコン」が繋がっているところや、

ウォルター・リップマン
今から100年前からの大きな流れとして、「ロシア革命」(1917年)が「マルクス主義」の「ユダヤ教徒」たちを中心に引き起こされたこと、「ユダヤ教徒」らが、「マルクス主義」を発展させたものが「批判理論」を展開した「フランクフルト学派」で、その発端も「ロシア革命」の直後のことで、多くの社会主義者・共産主義者たちが、史上初の社会主義国家「ソ連」、そして「コミンテルン」を中心に動き始めたというところ確認してきました。

さて、ここで唐突に問題を出させて頂きたいのですが、先程の本文で出てきた、「神は細部に宿る」という言葉、これは誰の言葉なのかをご存知でいらっしゃいますでしょうか?

これは、ドイツ出身の有名な建築家で、ミース・ファン・デル・ローエの言葉です。

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日 – 1969年8月17日)は、20世紀のモダニズム建築を代表する、ドイツ出身の建築家。
ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされる。
「Less is more.」(より少ないことは、より豊かなこと)や「God is in the detail」(神は細部に宿る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。」
2001年には、彼の代表作の一つである「トゥーゲントハット邸」(チェコ)が、なんとユネスコの世界遺産に登録されちゃっています。

トゥーゲントハット邸
ちなみに、本来の所有者であるトゥーゲントハット一家は「ユダヤ教徒」でした。。。

それはともかく、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは、1930年に「バウハウス」の第3代校長になったほどの人物でした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 バウハウス(ドイツ語: Bauhaus, バオハオスとも)は、1919年、ドイツ・ヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた。」

バウハウス ヴァイマル校
あらら?ナチスによって閉校させられちゃっていますね?
一体、どうしてなんでしょうか?

それでは、続きを見てみましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 第一次世界大戦後にドイツ革命(1918年11月3日 - 1919年8月11日)が勃発、ドイツ帝国が崩壊して大公の統治が終わり、ヴァイマル共和国が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。

ヴァルター・グロピウス
初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙はリオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」)。」

『社会主義の大聖堂』 リオネル・ファイニンガー
リオネル・ファイニンガーについても、ここで確認しておきましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 リオネル・ファイニンガー(Lyonel Feininger; 1871年7月17日-1956年1月11日)は、ドイツ系のアメリカ人画家。名前は、英語読みで、ライオネル・ファイニンガーとも表記される。
アメリカのニューヨークに生まれる。1880年代後半にドイツに行き、音楽、後に絵画を学ぶ。ベルリンとパリを行き来し、新聞にカリカチュア(風刺画)を描いたりする。 1910年代に入り、ロベール・ドローネーを通じて、キュビスムを知る。1913年には、青騎士のグループにさそわれ、ワシーリー・カンディンスキー、パウル・クレーなどと活動する。1919年には、ヴァルター・グロピウスの誘いで、バウハウスにて教鞭をとる。
グロピウスによる「バウハウス宣言」(Bauhaus-Manifest; 1919年)を掲載したパンフレットの表紙(口絵)は、ファイニンガーによる木版画である。
1937年、妻がユダヤ系だったため迫害を逃れてニューヨークに戻る。1956年、そこで没した。」

リオネル・ファイニンガー
お話を、もう一度「バウハウス」に戻しまして・・・
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 その後、ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。

バウハウス デッサウ校
ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen, 建築、構築)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。

ハンネス・マイヤー
1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。
1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任した。」
こうして、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが第3代校長として就任するわけですが、どうしてもナチスが許せないことがあったわけです。

スパルタクス団蜂起の記念碑
このスパルタクス団蜂起の記念碑、これもルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエによるものでした。
この意味を知ることも、その後の展開を理解する上で、とても重要になってきます。

ベルリン市内で武装したスパルタクス団員(1919年)
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆赤いユダヤとスパルタクス団
続きは次回に♥
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