2017-07-12 (Wed)

原則(げんそく) : 特別な場合は別として、一般に適用される根本的な法則。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 日本には、外部からくるものを排除するのではなく、関心をもって取り込んでいく強い力が働いています。しかも、【取り込んだものを独自のものに作り替え、新たな文化として形づくっていく】のです。…

どんな集団でも、何か物事を進める場合には、必ず【原則】を立てるものです。それは日本でも同じことですが、【日本人はしばしば「いや、それはあくまで原則ですから」といういい方をします】。

私は日本に来た当初、日本人のそうしたいい方を聞いて、「あくまで原則だから」とはどんな意味での原則なのかよくわかりませんでした。しかしそれが、【「必要に応じて例外があってよい」原則】だとわかり、それならば【原則というべきものではない】ではないか、と思ったものです。

日本人はシビアな問題の解決については、現実的な状況の動きに応じて、あるときは原則的な解決へ、あるときは実質的な解決へと、適宜【重点を移動しながら実際的に問題に対処】していこうとします。それが【日本人に特有な現実処理の方法】ですが、そうした場合、場面で変化する日本人の姿勢や態度が、【外国人には原則軽視、あるいはダブルスタンダードと映り、大きな不信感を抱かせる】ことにもなっていると思います。

【日本の外交姿勢が外国から誤解を受ける】ことが多く、【日本の真意がなかなか伝わらない】のは、【そこに多くが起因しているため】だと考えられます。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させて頂く書物の著者は、非常に尊敬できる、もと朝鮮人の呉善花さんで、以前ご紹介させて頂きました鼎談本も、とても勉強になりました。

こちらをご参照♥
↓
☆黄 文雄 石 平 呉 善花 最後の痛言 呉善花(韓国)が黄文雄(台湾)、石平(中国)に真意を問う

さて、著者が指摘されているとおり、私たち日本人は、外から入ってくる新しいものに対して、非常に興味を持って、それを自分たちに合うように「つくりかえる」のが得意な民族です。
「 (日本の強みである)「造り変える力」とは、どのような力でしょうか。この言葉は芥川龍之介の短編小説「神神の微笑」の中に出てきます。「神神の微笑」は、安土桃山時代の日本へキリスト教の布教にやって来たイタリア人神父オルガンティノ(実在の人物です)と日本を古来守ってきた老人の霊との対話の物語です。
キリスト教が、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたことは、私たちが歴史の授業で学んだとおりです。ザビエルの後も多くの宣教師が来日して、キリスト教の布教に努めましたが、困難を極めました。
この「神神の微笑」では、日本におけるキリスト教の布教が困難なことに悩む日々を過ごしていたオルガンティノの前に一人の老人が現れ、キリストも結局日本では勝つことができないだろうと告げます。
オルガンティノは、今日も侍が23人キリスト教に帰依したとして、キリストは必ず勝つはずだと反論します。
これに対しその老人は、ただ帰依するだけならば何人でもキリスト教徒になるだろう、現に日本人は大部分仏陀の教えに帰依している、と言ってこう付け加えます。
「我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです」
と。
だから、いずれキリストも日本人に変わってしまうだろうと言い残して、老人はオルガンティノの前から消えていきます。
つまり、キリスト教の神と日本の神神との戦いは、「破壊する力」対「造り変える力」だというのです。」
こちらをご参照♥
↓
☆芥川龍之介の見た「日本の強さ」

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
「 日本の文化を象徴する作品として必ず紹介される絵の一つに葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」があります。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と並んで、世界で最もよく知られている絵と言ってもいいでしょう。
この有名な絵は、美術の傑作という視点だけでこれまで論じられてきましたが、私は、日本の道徳のかたちを考える上でも、重要なヒントを与えてくれている作品としてとらえています。私が提唱するフォルモロジー(形象学)というのは、目に見えるかたちに込められた意味を読み取る学問ですが、それを応用すると、この絵には、日本の思想や道徳が集約されているように見えるのです。
ご覧のようにこの絵には、大きな波に揉まれる三隻の舟が小さく描かれ、その舟にしがみつく人間がまた小さく描かれていますが、実は、この三隻の舟が何の舟かはわかっていません。鮮魚をすぐに江戸に送るための押送船(おしおくりぶね)には帆があるのに、この絵の舟にはそれがありません。沖に流されてきた渡し舟のようにも見えます。
また、神奈川沖というのは東京湾の外側ですが、台風か大嵐でもこなければこのような大波が立つことはないわけで、それほどの悪天候にもかかわらず、空は晴れてくっきりと富士山が見えています。舟が浸水している様子もない。
このようにつぶさに観察してみると、この絵がフィクションであることがよくわかります。つまり北斎は実際の風景ではなく、思想を描いたと考えるべきです。荒海そのものではなく、自然にひれ伏す人間を、やはり自然の象徴である富士山が見守るという人間と自然との関係を描こうとしたのではないでしょうか。
こうした自然と人間との関係性そのものに、日本人が古来培ってきた独自の思想、道徳、秩序の基本形を見ることができると私は確信しています。
では、それはいったい、どういうものなのでしょうか?
日本では、道徳というのは非常にシンプルで「頭を下げる」ということなのです。頭を下げるというのは、相手を尊敬する、畏敬するということで、その相手というのは、年上であり、山川木石などより長い命を生きるものすべてです。
これが今も日本人の行動を律する世界観となっていることを私は本書で強調したいのです。道徳というと何やら堅苦しく古臭い響きがあるために、現代人には関係ないもののように看過されがちですが、実は私たちの日常生活に大きな影響を及ぼしていることを本書ではしっかりと論証したいと思います。
日本人は、変わったように見えて変わっていないというのが私の持論です。それは、戦前の生活を知らないような若い世代も、相変わらず日本人独特の道徳を受け継いでいることからもわかります。
今も、日本人にとって礼儀といえば、敬語と頭を下げる挨拶が基本になっていることは誰も否定しないでしょう。明治時代以降、日本人は国をあげて西洋の文化を真似し、戦後は生活習慣から家のなかまでアメリカナイズされて畳の間もなくなりました。それにもかかわらず、なぜ、挨拶の方法は欧米式の握手に変えないのでしょう?抱き合ったり、キスを交わすような挨拶にしないのでしょう?
外国人が相手なら挨拶として握手を交わす場合があっても、なんとなく気持ちが落ち着かない。相手に直接触れるのはかえって失礼という感覚がDNAに刻み込まれているからですが、それ以上に相手との「間」の取り方に満足できないのではないでしょうか。ですから、握手をしていながら同時に頭を下げたりもします。
ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』で、最も生き残るグループの特質を相手への「思いやりの強さ」と述べましたが、日本人ほど人間関係の円満を重んじ、「世間様」「お陰様」と目に見えない関係性にまで頭(こうべ)を垂れる民族は珍しいでしょう。しかも私たち日本人はその最重要課題を、道徳とも宗教行為とも思わずほとんど無意識に行っているのです。
これほど強く日本人の生活を支配し世界が驚愕する道徳が、いつ頃、どのようにして生まれたのか、どのような意味を持つのか、その不思議を、歴史をさかのぼり、宗教観や西洋思想と比較しながら考察したいと思っています。」
こちらもご参照♥
↓
☆神神の微笑 ~ 「モナ・リザ」と並んで、世界で最もよく知られている絵
いかがでしょうか?
外から入って来た仏教は、聖徳太子の時代に、私たち日本人は受け入れています。二つの異なった宗教を、同時に、その生活に取り入れている民族が他に存在していますでしょうか?
こちらもご参照♥
↓
☆日本でコンビニよりも数多くあるもの。。。神仏習合
☆世界で唯一、宗教間の壁を乗り越えた偉人 ~ 聖徳太子
キリスト教も、外から入ってこようとしていますが、まったく日本人からは相手にもされていませんね♥
せいぜい、みんなで楽しむクリスマスとかはしますが、そこには神さまが存在していませんね!あるいは、一度着てみたいからウエディングドレスで誓いを述べますが、それも口から出まかせで、即離婚なんてことも多々ありますね♥
ところが、お寺は、現代に至るまで、日本全国津々浦々に残っていて、その存在感を示しています。
つまり、仏教は良かったけれども、キリスト教なんか認めないっていうことを、あまり意識せずにやっているんです♥

このように、私たち日本人は、決して外からのものを閉ざして排除しているわけではなく、良いと思ったものは積極的に取り入れて、それをさらに「つくりかえる」ことで一層発展させてきました。
東南アジアにも仏教のお寺がたくさんありますが、どれもキンキラピカピカだったりする点も見逃せませんね♥

こちらもご参照♥
↓
☆門のように閉ざすことはないもの ~ 都市に「壁」は必要ですか?
一方で、変わらないまま継続しているものを、私たち日本人には沢山あります。詳しくは、また別の機会に書かせて頂きますが、植物の素材を使って組んだり編んだりして作る「編組品」が、今から8000年前の縄文時代の遺跡から大量に発見されています。

その技術は、すでに想像を超えた高度なものであったことが判明していて、現代にまで受け継がれているんです。
全知全能の神さまが宇宙も何もかも作ったとされる「聖書」に描かれる時代に、私たち日本人が、高度な文明を誇っていたことの証拠の一つです。

続きは次回に♥
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