2017-05-30 (Tue)

『月宮迎』(月岡芳年『月百姿』)
『竹取物語』(たけとりものがたり)は、平安時代初期に成立した日本の物語。成立年、作者ともに未詳。
『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 『古事記』の中では完全に悪人として描かれている【那賀須泥毘古(ながすねびこ)】には、【日下(ひのもと)将軍(または日ノ本将軍)という別名】があります。大和は元々、那賀須泥毘古が治めていました。だから、こういう名前で呼ばれていたのです。

【那賀須泥毘古は大和の統治王】であり、【祭祀王は、那賀須泥毘古の兄の安日彦(あびひこ)】という人でした。「安日彦」という名前に、【太陽神を信仰】していることが現れています。
【この兄弟は元々は外国人で、徐福(じょふく)の子孫】です。徐福というのは【秦の始皇帝】に命じられ、【不老不死の薬を求めて日本に来た人】です。…

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐福の船
さて、二人が治めていた大和に、【須佐之男命(すさのをのみこと)の息子】の【大年命(おおとしのみこと)こと饒速日命(にぎはやひのみこと)】がやってきました。大年命はお父さんの須佐之男命とケンカしてしまい、【出雲を捨て、船団を率いて大和の国に来た】のでした。

スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
那賀須泥毘古と安日彦は秦の知識があり、弩(ど)も持っていて、軍事的には強かったのですが、

西安市から出土した秦代の弩
大年命はそれを圧倒するような大船団でやってきました。【須佐之男命と一緒に朝鮮に行ったのは五十猛命(いたけるのみこと)】ですが、大年命も当然、船団を持っています。
その結果、【那賀須泥毘古は大年命の圧倒的な海軍力に敗北】しました。戦って負けたというわけではなく、【圧倒され、制圧されて和平した】のです。和平したあと、【大年命は那賀須泥毘古の妹の登美比売(とみひめ)と結婚】し、その縁で【大和の王】となります。
だから、【天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)】という名なのです。

天照国照彦というのは、国を統(す)べる王を表す名前です。
【のちの物部(もののべ)氏の祖となる、この饒速日命は謎の神様】です。【大年命といえは、出雲の須佐之男命の子供】です。ところが、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という長い名前の中に、【「天火明」という名】が入っています。

【『古事記』で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の兄とされている天火明命として系図に入っている】のです。

☆ひむか神話街道 神々の系図
つまり、【同じ神様】が、【出雲の須佐之男命の子として系図に入っている】だけでなく、【天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫としても系図に入っている】ことになるのです。
なぜこんなふうにしたのかといえば、【のちの大和の王権の正統性を作るため】でしょう。
大和は、那賀須泥毘古を制圧した大年命が那賀須泥毘古の妹の登美比売と結婚したことで、饒速日政権になりました。【そこへ、あとからさらに五瀬命(いつせのみこと)と佐野命(さののみこと)がやってきた】わけです。【大和が出雲の饒速日政権になっていたから、五瀬命は政略結婚で佐野命を大和に入れようとした】のです。

五瀬命((菊池容斎『前賢故実』より))
最初の白肩津(しらかたつ)の戦いで五瀬命は亡くなってしまいますが、…【のちに佐野命が再び那賀須泥毘古らと戦って大和を制圧する】ことになります。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させて頂く書物は、前作に続く第2弾で、記紀に伝わる古代日本の人物で、第12代から第16代の天皇に仕えたという忠臣、武内宿禰(たけうちのすくね)を受け継ぐ、第73世武内宿禰となる著者によって書かれた「古事記」に関する書物です。
ポイントは、「口伝」の部分にあります。
それでは、少し詳しく見て参りましょう。

今回は、非常にあっさりと、トンデモナク重要なことが書かれています。
那賀須泥毘古(ながすねびこ)とその兄の安日彦(あびひこ)が、元々は外国人で、徐福(じょふく)の子孫だという部分です。
「 日本と中国との関係は飛鳥時代の遣隋使から数えて約千四百年にわたる。…この間、遣隋使、遣唐使や清国留学生のように互いに学びあうこともあれば、白村江の戦いや、豊臣秀吉の「征明」に始まった朝鮮の役、日清戦争、日中戦争など齟齬(そご)の時代もあった。
中国は古代から中華思想を持つ国である。…よって、…日本は島夷として軽蔑された。しかし…いつも野蛮人として軽んじられたわけではない。
秦の始皇帝の時代には日本を「蓬莱(ほうらい)仙島」として憧れ、不老長寿の薬を求めて徐福を遣わせた伝説まである。
宋の太宗は東大寺の僧、奝然(ちゅうねん)から「日本の万世一系」の話を聞いて、嘆息して臣下に語った。「それは島夷にしかできないことだ」と羨望した。
大航海時代が開かれた動機の一つは、マルコポーロの『東方見聞録』に登場する「黄金の国ジパング」を探すためだったことは広く知られている。
華夷思想をもち、優越意識が強い中華の民も、神仙の国や黄金の国、日本に対しては一目置いていたのである。」

徐福像(和歌山県新宮市徐福公園内)
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆昔から、日本に憧れていた「あの国」♥
秦の徐福が日本にやって来た後の時代、そして神武東征が『古事記』に描かれるように可能であった時代は、今から約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)の大阪平野が河内潟の時代に限定されます。

大阪平野の沖積層基底等深線図
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明
このことによって、日本神話に描かれている出来事があったと考えられる時代も推定することが可能となります。

さて、秦の始皇帝に命じられ、不老不死の薬を求めて日本に来た徐福ですが、そんな薬は見つかりませんでした。
それでは、この「不老不死の薬」の噂って、何なのでしょうか?

「 現実の「高天原(たかまがはら)」も関東にあったのではないかと私は考えています。これまでも江戸時代に新井白石が著した『古史通』(1716年)のなかで「高天原は常陸(ひたち)国だ」という説が唱えられています。
ヒタチという字は常に陸と書きます。日が立つ「日立」とも書きます。これは日が昇るところという意味があり、すなわちアマテラスが生まれるところでもあります。このことは非常に示唆的だと思えるのです。
『常陸国風土記』(721年)には、常陸が「まるで常世(とこよ)の国」と高天原を思わせるような表現もあります。
そもそも常陸の国は、面積はすこぶる広大で、境界もまたはるかに遠く、土壌は肥えに肥え、原野はゆたかなうえにもゆたかである。耕し墾(ひら)かれた処と海山の幸とにめぐまれて、人びとは心やすらかに満足し、家々は充ち足りて賑わっている。もし身を農耕にはげむものがあれば、立ちどころに多くの富を得ることができ、力を養蚕(ようさん)につくすものがあれば、ひとりでに貧窮から逃れることができる。あえて述べるまでもないが、塩や魚などの珍味が欲しかったならば、左は山で右は海である。桑を植え麻を蒔こうとするならば、後は野で前は原である。いわゆる海の宝庫・陸の宝蔵、膏(あぶら)したたる物産の楽土である。昔の人が「常世の国」といったのは、もしかするとこの地のことではないかと疑われる。
(『風土記』吉野裕・現代語訳) 」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆富士山によって守られている特別な土地
「 『神社の系譜』(宮元健次著)では、
「 『常陸(ひたち)』とは『常世(とこよ)の国』の意味で、不老不死の聖地を指し、伝承では天に最も近い場所であると考えられてきたものという」
とあります。
しかも常陸には、「高天原(たかまがはら)」という地名の場所があるのです。そこは鹿島神宮から約2キロメートル東に離れた、神宮の飛び地である境内。
「 敷地の東隅に“鬼塚”と呼ばれる全長80メートルほどの大古墳があり、その上に立つと太平洋が一望のもとにおさめられ、西北に筑波山を望む絶景の地」
(『鹿島神宮』東実著)で、美しい松林が一面に生い茂る東側はすぐ鹿島灘の海岸という位置にあります。
この飛び地の本社、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮と、すぐ近くの千葉県香取市にある香取神宮が実は非常に重要な存在なのは意外と知られていません。
そもそも呼称に「神宮」が付くのは、最高に格の高い神社のみです。平安時代の『延喜式神名帳』で「神宮」の呼称で記されたのは、鹿島、香取、伊勢の三社だけだったのです。以後、明治までその扱いは変わりませんでした。」

鹿島神宮

香取神宮
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆富士山を仰ぐことができる「東の端」と「西の端」
「不老不死の薬」の噂の出処が、お分かりいただけましたでしょうか?
それは、豊富な海の幸、山の幸に恵まれ、そのために争うこともなく平和で穏やかに暮らすことができ、その結果、人口も増え繁栄を謳歌してきた、世界最古の文明である私たちの日本そのものだということなんです♥

で、その象徴となっているのが、「富士山」です。

あの『竹取物語』で、かぐや姫が月の世界に帰らなければならなくなったとき、姫は帝に文と不老不死の薬を残します。

帝は文を読んでひどく哀しみ、「天に一番近い山はどこか」と周囲に尋ね、かぐや姫と会えなくなっては不死の薬もなんの意味もないと、日本で一番高いその山で文と薬を焼くように命じるのです。
このとき「大勢の士(つわもの)が不死の薬を焼きに登った」ことから、その山を「富士の山(士に富む山)」と名付けたといわれています。

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本人にとっての富士山
続きは次回に♥
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