2017-03-21 (Tue)

暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。
「こよみ」の語源は、江戸時代の谷川士清の『和訓栞』では「日読み」(かよみ)であるとされ、定説となっており、一日・二日...と正しく数えることを意味する。ほかに、本居宣長の「一日一日とつぎつぎと来歴(きふ)るを数へゆく由(よし)の名」、新井白石は「古語にコといひしには、詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり」などの定義がある。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【命には賭け時、賭け場所がある】。
師匠であり、わずか二十九歳の命を刑場に散らした【吉田松陰の言葉】である。
生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、死ぬべし。

吉田松陰像
今ここで長州藩が精魂を尽くして作り上げた軍艦を引き渡してしまえばどうなるか。二度と立ち上がれなくなるだろう。長州も高杉も。
【では、誰が日本を守るのか】。

長州は俗論派に制せられて正論が通らない。ならば、主君毛利公に自分の思う正義を伝え、その途上で死んでも良いではないか。
一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義。
高杉はそう言い残した。

高杉晋作
おそらく、この時の高杉は【湊川に赴く楠木正成の心境】だったのではないか。建武の新政からわずか三年、人心は後醍醐天皇から離れた。正成の献策はことごとく側近に退けられた。そして【足利尊氏の五万の大軍にわずか七百騎で突撃をかけ、玉砕】した。

楠木正成像
だが、正成の行動はある種の感動を呼び、楠木一族はその後も百年の抵抗を続け、足利幕府が滅びた後の江戸時代になると、【日本史最大の英雄として知識人と庶民の間に感動を与え続けた】。

皇居外苑にある楠木正成像
元治元年十二月十五日。西暦で言えば1865年1月12日である。
高杉が起った。

高杉晋作挙兵像
この報は、瞬く間に長州中を駆け巡った。
のちの明治の元勲たち、心ある武士たち、名もなき農民たちがいっせいに声を上げた。
「高杉さん一人を死なせるものか」
山田顕義、品川弥二郎、前原一誠、そして暗殺未遂で重傷を負っていた井上馨らが続々と集まってきた。数は二百人に膨れ上がる。十二月十八日、最後に山縣も来た。
高杉はまず奉行所を襲い、武器と食料を奪う。より正確には、奉行の根来上総(ねごろかずさ)より無血開城に近い形で、物資を渡された。本音では俗論派に反感を持ち、高杉に共感していなければありえまい。さらに高杉は十八人の決死隊で海軍局を襲い、同じように軍艦を渡される。ここで奪った癸亥丸(きがいまる)が、決起の主力となった。
そして、元治二年(1865年。4月に慶応に改元)一月六日、絵堂で【決起軍二百対正規軍千三百で激闘が行われた】。山縣有朋の戦闘指揮、大村益次郎の巧みな作戦、そして高杉が鼓舞した士気もあり、【決起軍は勝った】。
国主毛利敬親は何事にも「そうせい」と家臣に任せるので、「そうせい公」と呼ばれていた。ところが激昂する俗論派の椋梨藤太が高杉たちを皆殺しにしようとしたとき、沈黙した。この人物は暗君ではなかった。

毛利敬親
決起軍は藩主親子がいる萩に迫る。奇兵隊総督赤根武人は決起に参加せず、調停を試みた。だが、この人物には戦機はわからないし、時の流れも読めていない。【高杉は一切の妥協を受け付けず、結局は俗論派政府の一掃で決着】がついた。
椋梨は一人で罪をかぶろうとしたが、切腹すら許されず、斬首で終わった。
俗論派には俗論派の論理があり、彼らとて懸命に最善策を模索していたのだ。

だが、【外国に侵略されようという建国以来の危機において、最善手だけを積み重ねていても亡国にいたるだけ】である。

【不利な状況ではどこかで最善手を超克する勝負手が必要】なのである。高杉にとても勝算があったとは思えない。【やらねばならぬという意思だけ】であった。

しかし、【国家の運命を究極に決するのは意思】である。責任を負うべき政治家たちの意志が薄弱だった時、身分を越えた【草莽が決起】した。
そして、高杉は勝った。長州に正義派政権が樹立された。
ここから、幕末の激動は加速を急速に増していく。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させて頂きますこの書物は、「憲法」がどれほど命懸けの経緯を経て成立したか、またそこには、どれほどの人々の想いが込められているか、について感動的な幕末・明治の時代が描かれた書物です♥
もちろん、当ブログお勧めの書物です♥

さて、昨日は、「春分の日」、「春の彼岸」について書かせて頂きましたが、これを過ぎますと、いよいよ本格的な春を迎え、新しい年(年度)がスタートします。
現在は「年度」を「4月~3月」としている日本ですが、明治元年までは旧暦で「1月~12月」を「年度」としていました。今でも、世界中を見渡しますと、「7月~6月」の国々もあれば、「10月~9月」の国々もあったりします。

で、私たち日本では、明治時代を迎え、試行錯誤の末、当時の超大国のイギリスに倣って、「年度」を「4月~3月」とすることになりました。

どうして国々によって違いがあるのか、なぜ日本においても試行錯誤が繰り返されたのか、という問題は、実務面での税の徴収に関係していたりしますので、ここでは省略させて頂きますが、最も基本的なところに、「暦」に関する事情がありました。

まず、私たちの日本の「暦」の歴史を見てみましょう。
「 現在の暦では正月元旦は冬の最中で、「新年」という実感には乏しいが、旧暦では節分の頃で、寒さはまだ厳しいが、少しずつ日が長くなり、春の訪れが感じられる時期である。
旧暦は月の満ち欠けに基づく太陰暦なので、大晦日は闇夜だが、元日の夜には細い弓のような「新月」が現れ、新しい月が始まる。

その闇夜が明ける卯の刻(午前6時)に、歳神様(としがみさま)が東の方からやってくる。歳神様は正月様とも呼ばれるが、祖先の御霊(みたま)である。
我が国では、死者が子孫を見捨てて、自分一人、天国や西方浄土に行ってしまうとは考えなかった。祖先の霊は子孫をいつも見守ってくれている一家の守護神であり、同時に豊作をもたらす穀霊(こくれい)でもあった。
歳神様のお陰で、一家が一年を無事に過ごせたことに感謝し、また新しい年も幸福に過ごせるようにお祈りする。年末から年始にかけて様々な行事があるが、それらのほとんどは、歳神様をお迎えするためのものなのである。
その由来を辿ってみれば、我々の先祖が、一つひとつの行事にどのような祈りを込めてきたのか、思い出すことができるだろう。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆ありがたや、ありがたや。。。 ~ 日本の「ありがたい」存在
明治時代初頭まで、私たち日本の「暦」は、「太陰太陽暦」で、「月」と「太陽」の動きを参考にする「暦」でした。
もともと、紀元前の古代では、「月」の満ち欠けを参考にしてつくられた「暦」が多く、それを「太陰暦」と呼びます。太陰とは、空に浮かぶ「月」のことを言います。
「月」が一番欠けた状態である「朔」(さく)、つまり「新月」から、およそ15日で「望」(ぼう)、つまり「満月」になりますが、さらにまた15日程度で「新月」となることから、これらの一連の期間を「1カ月」、それが12回で「1年」とするというのが、本来の「太陰暦」になります。

朔望周期。新月(朔)から満月(望)を経て次の新月(朔)まで
この「太陰暦」には問題があって、使用するうちに季節にずれが生じてしまうため、「太陽」の動きも参考にしながら、季節に暦を合わせるようになります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 「太陰暦」をこのまま使うには問題があった。季節が暑くなったり寒くなったりする時期は、地球が太陽を一周する日数(太陽暦の一年)の間で決まっている。しかし「太陰暦」の一年は、地球が太陽を一周する日数よりも約11日短い。これをこのまま使えば暦と季節はずれを生じ続け、たとえば暦の上では春のはずが実際の季節はまだ真冬ということになりかねない。そこでこうしたずれを防ぐため、「太陰暦」の一年を13ヶ月にする方法が多く取られた。一年の日数をひと月分ふやすことによって、暦を遅らせたのである。そして再び暦と季節がずれを起こせば、また一年を13ヶ月にする。本来の12ヶ月のほかに挿入された「月」は「閏月」(うるうづき)と呼ばれる。」
このように、「太陰暦」に太陽暦の要素を入れているので、これを「太陽太陰暦」と呼びます。
ところで、私たち日本の神話においても、これに関連する重要なポイントがあります。

古事記に記された伊邪那岐命(イザナギノミコト)から、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)と一緒に生じた神に、月読命(ツクヨミノミコト)がいらっしゃいますが、何を司(つかさど)っているのかがお分かりになられるかと思います。

「月読暦」というのが、現在でも口伝によって受け継がれているそうです。このことは、近々ご紹介させて頂きます、この書物(↓)に書かれています。

ここではあまり詳しくは触れませんが、実は、私たち日本人の祖先、つまり神話に語り継がれる神々が示す数多くの「氏族」は、世界中に飛び出していった可能性が高いんです。その逆に、系統の異なる民族が渡来したり、または飛び出していった日本人の子孫が戻ってきたり、こういったことが長い年月の間に繰り返されてきた可能性が高いんです。決して一方通行ではなく、双方向の交流があったはずで、それを意識しながら、下の図をご覧いただくと交流の流れが見えてくるのではないかと思います。

また、私たち日本人の祖先が、世界中に飛び出していった可能性が高いことを端的に示しているのが、世界中には数多くの神話が残されていて、それらには類似性が見られるものが存在しているのですが、日本、インドネシア、アメリカという三つの地域に神話の主題の共通点がみられ、細部にいたるまで一致しており、さらに他の地域ではバラバラな状態、部分的な状態であるのに対し、私たちの日本の神話は、洗練されたやり方で綜合されているという事実です。
これは、日本が発祥地であることを示しています。

さらに、翡翠(ひすい)の加工技術を持っていた高度な民族が、私たち日本人だったんです♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本列島の誕生 ~ 日本、インドネシア、アメリカ大陸に共通して残っているもの
そもそも、東アジアにアフリカ起源のホモ・サピエンス(※東アジア人としておきます)が辿りついた時代が4~5万年前とされていますが、私たちの日本列島にも、4万年前にホモ・サピエンスが住んでいたことは判明しています。

で、大切な部分なのですが、この「東アジア人」からまず、私たち日本人の祖先である「縄文人」が生まれます♥
「縄文人」が生まれた遥か後、残った「東アジア人」が「北東アジア人」と「東南アジア人」とに別れるようになります♥つまり、私たち日本人(=縄文人)よりも後に、支那・朝鮮人が属する「北東アジア人」が出来たんです。

知性を持った日本人と、猿に近い支那・朝鮮人との違いの原点が、ここにありますね♥

そして、このあと、約15000年前に、アメリカ大陸へとホモ・サピエンスが渡っていくわけですが、もう一度、下の図をご覧いただければ判ると思いますが、渡って行ったのは、一体誰でしょうか?

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆脱法ハーフと縄文人
続きは次回に♥
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