2017-03-19 (Sun)

富山の売薬(とやまのばいやく)とは、古くから富山県にある医薬品配置販売業の通称である。
創業当時、新たな売薬販売の市場に加わる富山売薬は他の売薬と同一視されないような販売戦略をしなければならなかった。当時は200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府や全国の諸藩は救国済民に努め、特に領民の健康保持に力を入れていた。しかし疫病は多発し、医薬品は不十分だった。医薬品販売も室町時代から続く売薬はあったものの店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多かった。またこの時代、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することはできず、病気のたびに商業人から買わざるを得なかった。
こうした背景の中で医薬品を前もって預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日支払ってもらう先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた。
先用後利は「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ。」と伝えられている。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 まさに、【長州は日本中と世界中を敵に回した】。

この【苦境を救った】のが、下関砲撃にも禁門の変にも反対した【高杉晋作】である。

高杉晋作
高杉は関門海峡の自由航行という連合軍の目的を認めたうえで、【賠償金の支払いにも租借地の要求にも応じなかった】。高杉は上海での外国租借地の惨めさを直に見た。イギリスが戦勝国として振る舞おうとすると、長州の人民三十万人を相手にする気かと凄んだ。…

19世紀の上海
もしアヘン戦争のように大英帝国が本気を出したら、長州などひとたまりもなかっただろう。…
【敗戦国とは思えぬ威風堂々とした高杉の態度が、世界史最強の首相の侵略から祖国を守った】ことになる。

だが、頑迷固陋な尊王攘夷原理主義者たちは高杉を暗殺しようと試みる。高杉は長州を離れることとなる。
長州の実権は、高杉が「俗論派」と名付けた、京都政局への介入を忌避する勢力が握る。…俗論派政府は一兵も交えず降伏した。そして、高杉が買い付けてきた軍艦もすべて引き渡す約束までしてしまう。
もし、【この時に軍艦引き渡しが実現していたら、長州など歴史の表舞台に二度と出てこなかっただろう】。…

結果を知る者は、薩摩と長州の動きに注目すれば歴史の流れが見えるが、当時の人々にとってもはや【長州は内憂外患により政局の圏外へと消えていくとの見方が常識だった】のだ。

現に、【俗論派は「正義派」を称する高杉の仲間たちに徹底した弾圧を加え、幕府に恭順】しようとしていた。…
ただし、【彼らの言うとおりにしていたら、日本が消えていた】ことを、未来人の我々は知っている。

絶体絶命に追い込まれた、その瞬間――。【一人の若者が決起した】。【三千人の敵を前にして、たった一人で】。

【高杉晋作、二十六歳である】。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させて頂きますこの書物は、「憲法」がどれほど命懸けの経緯を経て成立したか、またそこには、どれほどの人々の想いが込められているか、について感動的な幕末・明治の時代が描かれた書物です♥
もちろん、当ブログお勧めの書物です♥

さて、高杉晋作のお話は明日も続きますので、本日は別のお話を。。。
幕末から明治にかけて、私たち日本の命運を決定付けたのは、「長州藩」と「薩摩藩」です。
で、本日は「薩摩藩」を見て参りましょう。
薩摩藩と言えば「島津氏」です。

薩摩藩の位置
島津氏の祖は、島津忠久で平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将でした。

島津忠久
そこから、さらに遡っていきますと、秦氏(はたうじ)という渡来系有力氏族へと繋がるとされていますが、正確なところは判明していません。
その薩摩藩ですが、九州内での小競り合いや、豊臣秀吉の時代の朝鮮出兵、さらには関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についていたことへの徳川幕府からのペナルティで大規模な土木建築工事をさせられたりと、薩摩藩の財政は火の車の状態にありました。加えて、もともと薩摩藩の領有する地域の地盤も悪かったため、大いに苦労をすることとなります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 藩内の土壌の多くは水持ちが悪く稲作には適さないシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった。かつ、南西諸島ほどではないが台風や火山噴火などの災害を受け易い立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していた。」

ちなみに、19世紀前半には、薩摩藩の借金が500万両ほどに膨らんでいました。


その頃の薩摩藩の経常収支は、年間当たり12~14万両でした。
ここで、1万両っていくらなの?となるのですが、イメージが出来ますでしょうか♥

お米の「1石」は、大人1人が1年間で食べるお米の量になります。キログラムに換算しますと、大体150キログラムになります。このお米の「1石」が「1両」でした。
今の値段で換算すると、お米10キロで4000円前後と致しますと、1石は大体6万円程度となります。ですから1万両がいくらになるのかを計算致しますと・・・
万×万は「億」ですので、1万両は6億円になります。
つまり、薩摩藩は経常収支が72億円~84億円のときに、3000億円の借金を抱えていた事になります♥
ちなみに、当時の日本全体の石高が3000万石でしたので、石高だけで考えたGDPが1兆8000億円になります。石高だけですので、実際にはもっと高いと思われますが、ここでは参考までと言うことで。
それよりも、インフレーション(物価上昇)も考えないといけないのですが、同じ江戸時代でも、お米の値段が違っていたんです。
江戸時代初期 : 一両でお米350kg
中期から後期 : 〃 150kg
幕末の1867年(慶応3年) : 〃 15~30kg
上記の数字を元に致しますと、幕末のころは、お米の値段が5倍から10倍になっていることが見てとれます。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆一万両って、いくら?
さて、薩摩藩にお話を戻しますと、先ほどご説明させて頂きました通り、薩摩藩の財政は19世紀前半には膨大な金額に膨らんでいました。この薩摩藩が長州藩と並んで、幕末・明治の時代を動かしました。
どうして、そんなことが可能だったのでしょうか?例えば、軍艦1隻を外国から買うにしても何万両も必要になります。
こちらもご参照♥
↓
☆桑名藩の軍艦買入れ交渉
ここに1人の人物がいます。
薩摩藩第11代藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)です。

島津斉彬
島津斉彬は、文化6年(1809年)3月14日、第10代藩主・島津斉興(しまづ なりおき)の長男として生まれますが、若いころに曽祖父の第8代藩主、島津重豪(しまづしげひで)の影響を受けました。
島津重豪は、「蘭癖(らんぺき)大名」の一人とされる江戸時代、蘭学に傾注した人物でした。いわゆる「西洋かぶれ」です。
その影響を受けたために、斉彬が藩主に就任すると、重豪のように公金を湯水のごとく費やしてしまい、藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に藩上層部に懸念されたために、斉興は斉彬が40歳を過ぎても家督を譲りませんでした。
1851年、その島津斉彬が藩主に就任します。そして、時代を見据えた施策を次々に打っていきます。
以下はWikipediaからの抜粋です。
↓
「 藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年(1851年)7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854年)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。 黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。」
「日の丸がわが国を代表する旗」と幕府に進言したのも、この島津斉彬です。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日の丸の色は「赤」ではなく「・・・・」なんです ~ 日本の常識・世界の非常識
同様な動きは、実は他藩にも見られました。それほど危機感を持っていたんです。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆そうだったんだ♥ 日本の世界遺産
それでは、この薩摩藩の財政は大丈夫だったのでしょうか?

実は、薩摩藩の財政再建に、大きな役割を果たしていたのが、昆布船回漕の北前船で財をなした「富山の薬売り」の存在が挙げられます。その中心が、薩摩組の「能登屋(現・密田家)」です♥

詳しくはここでは触れませんが、御関心があれば、下のリンク先をご覧ください♥

☆富山の薬売り・薩摩組

☆薩摩組の動きから見る富山売薬行商人の性格

☆売薬資料館 別館 旧密田家土蔵―建物のみどころ
「先用後利」を基本理念とし、各地で情報網を築き、幕末・明治の激動の時代に、自らリスクをとりつつ、少なからぬ貢献をなされた、当ブログ主の我が家の祖先には、本当に感謝しています。
次の時代は、現在を生きる私たち現役の日本人が、平和で幸せで豊かな「日本」にしてまいります♥

続きは次回に♥
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