2017-03-18 (Sat)

戊辰戦争での長州藩の旗
長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。
藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。
幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 薩摩が大英帝国に喧嘩を売ったなら、【長州は日本中と世界中を敵に回した】。

何をどう考えても無謀な戦いだったが、【強固な意志が紆余曲折を経て歴史を動かした】。

文久三年(1863年)三月、十四代将軍徳川家茂が上洛した。外国嫌いの孝明天皇は、【攘夷実行を条件】に有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約中だった妹の和宮を家茂に降嫁(こうか)させ、【公武合体】路線を選んだ。
そして、幕府はこの年の五月十日を期限と約束した。…
家茂の名で各大名家に…【通達】が出された。…
いかなる攘夷派も、当時の日本の軍事力で欧州の5大国どころか、アメリカのような新興国にすら勝てるとは信じていない。…
ところが、【この命令を本気で実行した藩】がいた。【長州】である。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆
五月十日、【停泊していたアメリカ船を砲撃】したのを皮切りに、【大国フランス、二百五十年の友好国であるオランダにも砲撃】を加えた。【下関砲撃事件】である。

フランスの通報艦キャンシャン号の被害
長府藩(長州藩の支藩)藩主の【毛利元周(もとちか)や高杉晋作は反対】したが、久坂玄瑞らが強行した。アメリカとフランスには即座に反撃されたが、【一時の熱狂の代償はこの程度ではなかったと、後に思い知ることとなる】。

アメリカ艦ワイオミング号の下関攻撃

フランス艦隊による報復攻撃
さらに国内政局でも異変が起きた。八月十八日の政変により、【三条実美ら長州支持派の公家が失脚】する。世に言う「七卿都落ち」である。

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より)
このころの京都の騒擾(そうじょう)は常軌を逸していた。尊攘派の活動家たちは我が物顔で京都を練り歩き、「天誅」と称しながら暗殺や放火を繰り返していた。さらに政敵を殺害の上、四肢を切断して脅迫状付きで公家らの屋敷に投げ入れるなどの蛮行を繰り返していた。…

元治元年(1864年)七月、【池田屋事件】で京都在住の志士を【会津藩の新撰組】に殺害された報復として、【長州は兵を率いて上京】する。だが、待ち受けていた【薩摩と会津の兵に撃退】された。この時、【御所に向かって発砲】したので、【逆賊】となった。この事件が【禁門の変】と呼ばれる所以である。
徳川将軍家は、【長州追討令】を発した。【第一次長州征伐】が始まる。

西洋式軍装に身を包んだ幕府軍(1865年)
薩摩と会津を中核とする追討軍が陸から迫るまさにその時、前年の下関事件の報復として、【大英帝国が仏米蘭を従えて四国艦隊を組織して海から迫ってきた】。

四国連合艦隊による下関砲撃

フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台
そして艦砲射撃と陸戦隊に下関砲台を破壊され、【近代文明国の軍隊の恐怖を思い知る】こととなる。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させて頂きますこの書物は、「憲法」がどれほど命懸けの経緯を経て成立したか、またそこには、どれほどの人々の想いが込められているか、について感動的な幕末・明治の時代が描かれた書物です♥
もちろん、当ブログお勧めの書物です♥

さて、時代は幕末、昨日は薩摩藩で、本日は長州藩に関する記述でしたが、現在の私たち日本人は結果を知っているので、この両藩がその後の日本の動きを決める中心になると分かるのですが、この当時の日本人は誰も想像することさえできなかったでしょう。
それよりも、迫りくる外国の軍艦、次々と植民地にされていくアジアの国々、これは、当時の日本人にとって恐怖以外の何物でもありませんね♥
それでは、当時の日本人は、それをどうやって克服したのでしょう?

歴史の教科書を見れば、すでに起こったことの結果を知ることができます。だから、そうやれば良いんだ、と分かります。でも、本当にその当時に、自分自身が生きていたなら、何ができたでしょう?私たち現代の日本人が「歴史を学ぶ」、そして「今に活かす」ためには、このことを真剣に考えなければならないと思います。

未来がまだ分からない「現在」に生きている私たち日本人は、幕末・明治の先輩に学ばなければなりませんね♥
こちらもご参照♥
↓
☆まだわからないことを想像するという非常に大切なこと ~ 「予想」

長州藩の位置
さて、長州藩と言えば「毛利氏」ですが、鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・大江季光を祖とする一族です。その大江氏の祖先を遡っていきますと、天穂日命(アメノホヒ)が祖となります。

ここで、日本神話のお話をさせて頂きますと、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、祖先を同じとする別の氏族と、ここでは考えてください。
さきほどの毛利氏の祖となる天穂日命(アメノホヒ)は、有名な「国譲り」のお話に登場してきます。

『須佐之男命』歌川国芳作
そこに至るまでの流れを確認していきますと。。。
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、高天原(たかまがはら)から追放され、日本海側の出雲を中心とする地(朝鮮も含みます)に行きます。
こちらもご参照♥
↓
☆古代日本海を代表する一つの強国
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の有名なお話が、八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)の退治です。

『日本略史 素戔嗚尊』に描かれたヤマタノオロチ(月岡芳年・画)
古事記には、このような記述があります。
「 高志之八俣遠呂智、年毎に来たり」
「高志(こし)」から来たとありますが、古代日本の地方である「高志(こし)」とは、「越国(こしのくに)」、つまり現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域のことになります。

越国(越州・三越)
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を退治したというお話は、ここを支配下に置いたという意味です♥
古来より「翡翠(ヒスイ)」の産地であり、その交易路であった要衝を、出雲同様に建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)という氏族が抑えたということを示しています。
「 ヒスイは、鋼鉄よりも硬い。加工に高い技術が求められる。世界史のなかで、古代にマヤ文明と日本文明だけが、ヒスイの加工技術を持っていたといわれる。」

三内丸山遺跡出土 ヒスイの大珠
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆悠久の日本 ~ 西洋人なら笑いとばしたくなる話
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の末娘、須勢理毘売命(スセリヒメノミコト)は、父とともに、「根之堅州國」(ねのかたすくに)に住んでいました。「根之堅州國」(ねのかたすくに)は朝鮮半島にあり、出雲を中心とした日本海沿岸の領域を支配していたのが建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の一族です。
出雲は末子相続の国で、兄弟で一番最後に生まれた子供が相続をしますので、末娘である須勢理毘売命(スセリヒメノミコト)が強大な国の相続権を持っています。
そこに現れたのが、「因幡の白兎」のお話で有名な大己貴命(オオナムヂノミコト)です。のちに、須勢理毘売命(スセリヒメノミコト)と結ばれ、大国主命(オオクニヌシノミコト)として出雲を支配することになります。
ところで、古代の私たちの日本の中心地が、東日本にあったことは、人口分布から見ても明らかです。

縄文海進と呼ばれる海水面の上昇が縄文前期に生じますが、その影響で現在の内陸部にまで人口分布が広がっていきます。それが縄文中期です。今から4~5千年前の時代のことです。
やがて、縄文海進と呼ばれる海面の上昇が止まり、気温の上昇もあって徐々に海水面が低下していきます。また、それ以上に大切なのが、沖積作用による「埋め立て」も進んでいくことになります。地上に雨が降り、河川が運ぶ土砂によって河口付近が徐々に埋め立てられていくことで、現在の私たち日本人の大多数が居住している平地が形成されていきます。これが、縄文海退です。この縄文海退という現象は、食糧の確保に多大な影響を与えていったと推定されます。縄文後期から縄文晩期において、人口減少が見て取れるのも、そのことを示しています。
さて、ここで私たち日本人の祖先は動き始めます。紀元前3世紀頃~紀元後3世紀中頃を弥生時代と呼んでいますが、この頃の出来事を物語っているのが日本神話にある「天孫降臨」です♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆ギネス認定の世界最古の国家はどこ? ~ 子供たちに教えていないこと

天孫降臨
この「天孫降臨」のまえに、まず行われたことが「出雲の国譲り」です。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、まず自分の息子を出雲へと交渉に向かわせます。
古事記において長男とされている正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)ですが、口伝が伝えるところによると、実は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の夫であり、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)との戦いにおいて亡くなられたということです。なお、古事記の記述では、出雲行きを命じられますが途中で引き返しています。
ですから、名前にある、「マサカツアカツ(正勝吾勝)」⇒「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」⇒「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意、と、ことさらに「勝」という言葉が含まれているとのことです。
で、最初に遣わされたのが、毛利氏の祖となる天穂日命(アメノホヒ)です。出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の元に遣わされたのですが、大国主命(オオクニヌシノミコト)を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかったと伝えられています。

神々との相談の上、続いて遣わされたのが天若彦命(アメワカヒコノミコト)でしたが、大国主命(オオクニヌシノミコト)の娘である下照姫命(シタテルヒメノミコト)と結婚して、8年間高天原に戻らなかったと伝えられています。

そして、最後に使わされる神々が、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と天鳥船神(アメノトリフネノカミ)です。
こちらもご参照♥
↓
☆国譲り物語
☆東国の縄文系と西国の弥生系
☆日本の神話を学びましょう
そして、出雲の国譲りのあと、九州南部の宮崎へとやって来るのが、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)、口伝が伝えるところによる、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
『 「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天にも地にも親和的である」の意。
「アマツヒコ」(天津日高)は神をたたえる美称であり、高天原と関わる神であることを示す。
「ヒコ」(日子)は日神である天照大御神の嫡流の男子であることを示す。
「ニニギ」は稲穂がにぎにぎしく成熟することの意。
「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同語源である。
神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊や火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。
三重県鈴鹿市の椿大神社の境内にニニギノミコトが天孫降臨の際に使用した御船が降り立ったという伝承地(御船磐座)が存在する。同神社の伝承によるとニニギノミコト一行は猿田彦命の導きによりまずこの椿大神社の鎮座する事になる地に天降った後に日向の地へと向かったとの事である。』
こちらもご参照♥
↓
☆皇居があったことを端的にしめす地名 ~ 「宮崎」
続きは次回に♥
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