2017-02-11 (Sat)

スクーンの石のレプリカ
スクーンの石(スクーンのいし、英語: Stone of Scone、スコットランド語: Stane o Scuin)は、代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式を挙げたとされる石。運命の石(Stone of Destiny)と呼ばれることも多い。聖地パレスチナにあって聖ヤコブが頭に乗せたという伝承がある。重量は、およそ230kgある。
スクーンの石は、1296年にエドワード1世によってイングランドに戦利品として奪い去られた。その後この石は木製の椅子にはめ込まれ、ウェストミンスター寺院に置かれることになった。その後、このエドワード王の椅子は戴冠式に用いられるようになり、代々のイングランド王は、スコットランド王の象徴であるこの石を尻に敷いて即位することになる。
スクーンの石がイングランドに奪われたことは、スコットランドの人々にとってはイングランドへの敵対意識を高めることになり、1950年にはスコットランド民族主義者による盗難事件が発生している(1950年のスクーンの石の除去)。最終的に石は発見され回収されたが、犯人グループによる運搬中に、2つに割れてしまっていた。
1996年、トニー・ブレア政権によりスクーンの石は700年ぶりにスコットランドに返還された。現在は、エディンバラ城に保管されている。

スクーンの石がはめこまれたエドワード王の椅子を描いた1855年の絵画
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 歴史的に見れば、【昔のスイス人は貧しかった】。

The true size of ...
チーズなどスイスの乳製品は美味しいが、彼らは美味しいものを求めてチーズを作ったわけではなかった。冬、滋養のある食べ物が、それぐらいしかなかったのだ。そしてその冬がとりわけ長かった。

のちの【カルヴァン主義の指導者ジャン・カルヴァン】は、【プロテスタントが迫害されていたフランスからスイスに亡命】してきた。

ジャン・カルヴァン
彼はその後ジュネーヴで、【宗教改革の指導者となり、その宗派がカルヴァン派と呼ばれる】ようになる。16世紀、まだスイス人が貧しかった頃の話だ。
宗教改革の先駆者であるドイツ人、【マルティン・ルターは、救いは信仰によってのみ得られると説いた】。

マルティン・ルター
一方、【カトリックでは、善行をすれば天国へ行けるとした(善行の一つが免罪符を買うこと!)】。
こちらもご参照♥
↓
☆ハワイ・ホノルルの「3分の男」たち ~ アメリカ政府も出資した、とある社会システム
ところが【カルヴァンの教えは、そのどちらとも違った】。

彼によれば、【すべては神によって定められている(予定説)】。【救われる人間は、もともと罪を犯さない】のである。

ただ、いくらそういわれても、人々は自分が救われると決められた人間か否かがわからないと不安になる。もしも何かの間違いでたった一度の罪を犯し、奈落の底に落とされてしまったらどうしようと、皆が怯えることになった。いくらすべては神によって決められているとはいえ、地獄行きが自分の定められた運命だったと諦め切れるかというと、それはなかなか難しい。
こうなると、人は自ずと、罪を犯さないよう自分にプレッシャーをかけ始める。罪を犯さなければ、自分はおそらく救われる予定の人間なのである。つまり、天国に行ける。【こうして、罪を犯さないための懸命な罪探しが始まった】。

食欲、性欲、物欲はすべて罪であるから、まずそれらをあらかじめ断つ。仕事は神から与えられたものなので、懸命に働く。セックスは生殖のために限る。要は、【質素に、勤勉に、そして禁欲的に暮らす】ことだ。【それがカルヴァンのいうキリスト教徒の務めとなった】。

カルヴァンはこの教義により、【1541年から20年以上、ジュネーヴの町を支配する】ことになる。

そして、それは【次第にエスカレートし、凄まじい恐怖政治となっていった】。』

いかがでしょうか?
この書物は、普段、私たち日本人が知らないスイスのことについて、色々な角度から書かれている良書です。
もちろん、当ブログお勧めの書物です♥
本題に入る前に、本日は、おめでたい「紀元節」です♥ 皆さん、「日の丸」を掲げましょう♥

こちらもご参照♥
↓
☆日本の11の祝日がすべて変更されました ~ SEALDsと北朝鮮を結ぶ線
さて、本文中に出てきたジャン・カルヴァンについては、別の日に書かせて頂きますので、覚えておいてください。
16世紀のヨーロッパ、私たちの日本が戦国時代だったころの人物で、マルティン・ルター同様、「宗教改革」に関連する人物です♥

カルヴァン(右)が描かれたステンドグラス。左側はマルティン・ルター

ここからは昨日の続きになりますが、スイスという国の基礎が作られたのが1291年になります。
私たちの日本でいう「鎌倉時代」で、モンゴル人が日本を侵略しようとやってきて、日本に完全に敗北した2度に渡る「元寇(蒙古襲来)」の直後にあたる時代です♥

文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』)
ちなみに、現在のロシアの元となる「モスクワ公国」が誕生したころでもあります。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆ドイツ騎士団をタコ殴りにして、ロシアをパシリにした「あの国」

モンゴル帝国の変遷
これまでにも、何回かに分けて、ヨーロッパの歴史を流れを追って書かせて頂いていますが、ちょうど、この頃に、イングランド王国は、大陸側のフランス王国との戦争を繰り返しつつ、次第に現在のイギリスの形を整えていくようになります。
1272年、ヘンリー3世のあとを、エドワード1世が継ぎます。

エドワード1世
このエドワード1世の治世は1307年まで、およそ40年の長きに渡っていて、数々の歴史上のポイントとなることが起きています。

エドワード1世が行ったことは、ユダヤ人追放、フューダリズムの変容、そしてウェールズの支配権の確立が挙げられます。

ウェールズ
そして、スコットランドにも侵攻していきます♥

スコットランド
もともと、スコットランドにはケルト系のピクト人によるスコットランド王国(843年~1707年)が存在していましたが、イングランド王国はそれまでも何度もスコットランド王国との争いを繰り返していました。
1286年、スコットランドで最も偉大な王の一人といわれるアレグザンダー3世が亡くなります。
このとき、アレグザンダー3世は44歳という若さでの急死で、かつ跡取りがいない状態であったため、アレグザンダー3世の娘マーガレットとノルウェー王エイリーク2世の一人娘、つまり孫娘のマーガレットが、スコットランド王国初の女王として即位します。
のちに「ノルウェーの乙女」(The Maid of Norway)と呼ばれるようになるマーガレット女王は、このとき、わずか3歳でした♥

「ノルウェーの乙女」 マーガレット女王
ここに、イングランド王国のエドワード1世が、ちょっかいを出してきます。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 隣国イングランドのエドワード1世(マーガレットの母方の大伯父にあたる)はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求をはねのけることができず、1290年3月に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。同年7月18日、スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。
結婚のためスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。途中で大時化に遭いながらも、船は9月26日にオークニー諸島へ到着した。しかし、マーガレットは極度の船酔いで亡くなった。わずか7歳であった。マーガレットの死によってスコットランドのアサル王家は断絶し、ジョン・ベイリャルら13人の王位請求者が乱立する事態となった。」
「 内戦の勃発を恐れたスコットランド諸侯たちは、エドワード1世に再び調停を求めた。これを好機と見たエドワード1世は、1291年5月にイングランド軍を率いて両国の国境近くのノーラムで王位請求者や領主たちを集め、調停への服従と空位の間のスコットランド統治権を要求した。スコットランド貴族たちは当初ためらったが、多くの者はイングランドにも所領を持っていた関係上イングランド王に逆らい難く、強大なイングランド軍の無言の圧力もあって、これを了承した。
翌1292年11月17日、ベリクで最終的な裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが国王に指名された。この間、エドワード1世はスコットランドの支配者として振る舞い、ジョン・ベイリャルは王位についても傀儡に近く、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。
ジョン・ベイリャルは、しばらくはエドワード1世の様々な要求に従っていたが、臣下の支持を失っていった。スコットランド貴族たちは12人の評議会を作り、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。これに対し、エドワード1世はイングランド北部カーライルに軍を集め、同盟の破棄を迫った。
1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻して、自身の岳父であるサリー伯ジョン・ド・ワーレンらが率いるイングランド軍とダンバーで対戦した。ダンバーではスコットランド軍が多数であったが、統制が取れておらず、イングランド軍が陣形を組み換えたのを逃走する準備と見て無謀な攻撃を行い、大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏した。
スコットランドはエドワード1世によって「スクーンの石」を奪われ(スコットランド人は王冠を捨て、以後のスコットランドに王位は許さない、もしくはイングランド王がスコットランド王を兼ねるというイングランドの意思を表す)、ジョン・ベイリャルは廃位させられ、長男エドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。スコットランドには王位が許されず、以後スコットランドの統治は、ジョン・ド・ワーレンを総督として、イングランド人によって統治されることになった。」

エディンバラ城
そして、このあと、スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスの「スコットランド独立戦争」へと繋がっていきます。

ウィリアム・ウォレス
続きは次回に♥
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