2017-01-31 (Tue)

ラプ=ラプ像
ラプ=ラプ(Lapu-Lapu 1491年?-1542年)は16世紀、フィリピンのマクタン島(セブ島の東沖合い)の領主であり、イスラム教徒の部族長。世界一周航海の途上でフィリピンへ来航し、キリスト教への改宗と服従を要求するフェルディナンド・マゼランらをマクタン島の戦いで破り、マゼランを討ち取った。フィリピンでは民族の誇りを守った国民的英雄とみなされている。

マクタン島の戦いの様子を描いた絵の一部
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 かつて日本ではキリシタンが弾圧されて殉教した人が少なからずいました。しかし【正教では殉教してもいいし、しなくてもいい】のです。ちょっと言い方が雑すぎたかもしれませんが、キリシタン弾圧の故事に倣えば、【「踏み絵を踏んでもいい」と言っている】のです。

【「踏み絵を踏んでも信仰を守ることはできる」のいうのがロシア正教の考え方】なのです。

逆に、「殉教してもいい」というのもおかしな言い方になるのですが、【「弾圧に対する殉教」という手段も否定しません】。
【カトリックなどの場合は殉教しか認めません】が、ロシア正教では「転んでもいい」ということです。「踏み絵を踏んでもいい」と言っているわけで、これは【非常に大きな違い】です。

日本でもクリスチャンの小説家がたくさんいます。例えば、【踏み絵や殉教は遠藤周作の小説の重要なテーマ】でもありました。「キリスト教徒は転んではいけないのか」「神はそれを認めてくれないのか」という内容が多かったと私は理解しています。もし遠藤周作がロシア正教を詳しく研究していたら、また違うかたちのキリスト教小説が生まれたかもしれません。

正教文化というのは「踏み絵を踏んでもいい」と言う。それでも信仰を守ることはできるんだと言う。こういうことを認めているということは、【対立的な世界観とは違う世界観】であり、【バランスを重視する世界観】だということのひとつの証拠になるでしょう。

私は宗教家ではありませんが、私のような一般的な人間がそのような想いを抱くということは、やはりそれだけ【カトリックなど他のキリスト教とロシア正教の違いに特徴がある】のではないかと思います。』

いかがでしょうか?
私たち日本人には馴染みが薄いロシア正教について書かれていますが、非常に特徴的なので、何回かに分けてご紹介をさせて頂いております。
さて、本文中で触れられていた日本におけるキリシタン弾圧ですが、これも当時の事情を無視した、何とも一方的な偏見で述べられたり、教えられたりしています。

今から500年ほど前の私たち日本は、「戦国時代」と呼ばれる時代でした。
その頃、西欧キリスト教諸国で起こっていた事が、「宗教改革」と呼ばれる「キリスト教内における一種の革命運動」です。この結果、「カトリック」とそれに抵抗する「プロテスタント」へと、大きく2つの派閥へと分裂していきます。
この「宗教改革」の動きに対抗しようと、カトリック内での改革を目指す動きを「カウンター・レフォーム(反動宗教改革)」と言いますが、宗教改革以前にすでに改革が始まっていたこともあり、「カトリック改革」とも呼ばれるようになってきています。
この新しく生まれてきた「プロテスタント」に対抗して、従来の「カトリック」がどうしたのかと言いますと、これまでにない新しい世界へと「カトリック・キリスト教」を布教していこうとしたわけです♥

少し本題から外れますが、スペインとフランスに跨る「バスク地方」と呼ばれる地域があります。

バスク地方
この地域には、「バスク語」を話す「バスク人」が、現在も存在しています。
この「バスク人」は、捕鯨で有名な民族です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 イベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人による捕鯨は、一般的に11世紀頃にノルマン人から伝習されたのが起源であるとされている。

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す
こちらもご参照♥
↓
☆イギリスにもある「万里の長城」 ~ イギリス王室とヴァイキング
文献としては11世紀からバスク人が独占的に捕鯨を行っていたことが分かっており、舌が貴族層の嗜好品として、鯨肉は沿岸住民の食用に饗されていた。13世紀に入ると、バスク人による捕鯨業はさらに発展拡大した。当初は日本での例と同様に、北方へと回遊する鯨を漁獲していたが、漁場はビスケー湾だけでなく大西洋にもおよび、大西洋北部のニューファンドランド島やラブラドル沖における漁場を開発するなど、1560年代にはその最盛期を迎えた。鉄に次ぐバスク第二の輸出品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域へと販売された。バスク人に対して国王から独占権を与えられる代償として、種々の課税も設けられた。
この頃のヨーロッパにおいて鯨油は、主に灯火用として用いられていた。この他にはヒゲが甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されている。1570年代には50隻余りの捕鯨船が北大西洋で活動し、捕鯨業に関わる人々は4000人にものぼったと推定されている。鯨の群れが発見されない場合の経済的リスクが大きかったため、バスクでは捕鯨船の船主、艤装と販売を担当する商人、船長および乗組員の三者でコストと利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛けられており、その保険率は15%程度に定められていた。」

16世紀の捕鯨
こちらもご参照♥
↓
☆「ゴールドラッシュ」と「捕鯨」と「黒船来航」♥
このようなバスク人が、実は、新しい世界へ向けて「カトリック・キリスト教」を布教していく先兵となっていくんです♥
例えば、マゼラン亡き後の船団を引き継ぎ、史上初の世界周航を達成したのも、バスク人のフアン・セバスティアン・エルカーノでした。

フアン・セバスティアン・エルカーノ
キューバの革命家のチェ・ゲバラも、バスク人の血を引いています。

チェ・ゲバラ
それでは、お話を戻しまして、1534年、バスク人のイグナチオ・デ・ロヨラらによって、「イエズス会」が設立されます。初代総長が、イグナチオ・デ・ロヨラです。

イエズス会の紋章

イグナチオ・デ・ロヨラ
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆イエズス会ってなに? ~ 大航海時代の隠れた主役 ユダヤ人
ここに世界の植民地化が本格的にスタートします。※南米のインカ帝国は、1533年に皇帝が殺され、スペインに征服されています。

世界の植民地化の流れ
1543年、私たち日本の種子島に、ポルトガル人が「鉄砲」を持ってやって来ます。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本にポルトガル人が最初にやってきた理由 ~ トルデシリャス条約
さらに、1549年、イエズス会の創設者の一人でもあった、バスク人のフランシスコ・ザビエルが、私たちの日本に「カトリック・キリスト教」を布教しにやって来ます。

フランシスコ・ザビエル
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。
1551年1月、…一行は念願の京に到着。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。… 珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだといわれる。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可…ザビエルは、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた。
1551年9月、ザビエルは豊後に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行った。
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、…出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。」
御覧のように、日本での布教は失敗し、目線を支那に向けていることが分かります。

彼の残した言葉を見てみましょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』p96より)と高評価を与えている。」

1563年、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが私たちの日本へとやって来ます。このルイス・フロイスは、1569年、織田信長に謁見、畿内での布教を許可を獲得します。
このルイス・フロイスは、数多くの著作を残していて、例えば、『日本史』という書物の中で、織田信長の一大構想に言及していて、信長が毛利を平定し、全国を統一した暁には、なんと支那へ攻め込み、それを征服する、こういった考え方を、すでに織田信長が持っていたということが記されています。是非とも、やって頂きたかったのですが(笑)

で、なぜ、織田信長が、こんな構想を持っていたのかと言いますと、「カトリック・キリスト教」の国々が、間近まで侵略してきていることを「認識」していたからです♥
1570年、「スルタン国マニラ王国」が、スペイン人によって征服されます。そして、スペインの植民地の主都がマニラとされ、その国名は、征服民であるスペインの皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)に由来する「フィリピン」です。
このスペインによる「スルタン国マニラ王国」の征服以降、私たちの日本は、急速に統一へと向かって動き出します。
長くなりましたので、本日はここまでとさせて頂きますが、私たちの現在の総理大臣である安倍総理が、先日、その「スルタン国マニラ王国」を訪れています。
「スルタン国マニラ王国」はスペインによって、屈辱的な「フィリピン」という国名にされ、その後、アメリカが植民地にしたところで、マッカーサーとの関連も重要な国です。
日本に寄生する、ごく少数の「パヨク」が騒々しく騒ぎたてていますが、私たち日本人のことを、大東亜戦争で戦場になったアジア国々の人々は、どのように感じているのでしょうか?
その答えを、安倍総理が世界中に証明して見せている動画がこちらになります♥
こちらもご参照♥
↓
☆フィリピン女子高生らが「Brave!」(勇敢) と絶賛するヒーロー♥
続きは次回に♥
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