2016-12-21 (Wed)

味の素株式会社(あじのもと)は、日本の食品企業である。「味の素」は、同社が製造販売するL-グルタミン酸ナトリウムを主成分とするうま味調味料で、同社の登録商標(登録番号第34220号他)。同社の製品には「味の素KK」のブランドが表記されていることが多いが、実際の英文表記はAjinomoto Co., Inc.である。

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 最新のドイツ思想史の一冊である哲学者リュディガー・ザフランスキーによる『ロマン主義 - 一つのドイツの出来事』には、

「 (ドイツでは)世界に対する敬虔さと世間離れしていることが合わさって、政治的センスの形成を妨げた。確かに、近いものに対しては実在的ないし個人的な、遠いものに対しては、大きな形而上学的問題に対する豊穣な視点を作り上げた。しかし、政治の領域は、近いものと遠いものの真ん中にある。この地点で【政治的な判断力が試されるのだが、しかし、それはドイツでは欠けていた】」
とある。
【ロマン主義的政治観】に対比されるのが、単純化して言えば、【政治とは退屈に耐えて行う日常的な利害の調整の技術】であり、特段、【壮大な理念を実現するプロセスではない】とする考え方だろう。こうした【英国流の冷めた見方はとてもドイツ人には耐えられない】らしい。

【メディアのあり方】についても、【アングロサクソン世界の報道に、成熟した情報の扱い方がある】ことはこれまで見た通りである。

アングロサクソン的情報収集、分析は、世界帝国として鍛えられ、海洋国家ならではの地球的な目配りと、バランス感覚に裏付けされたものだ。そして、おそらく、何か大事に直面したときの【危機管理において、観念的な認識に縛られるドイツ的な知性よりも、アングロサクソン的な経験論的な知性の方が優れている】。

脱原発やユーロ危機を取材する中で、【20世紀の二度の大戦で、ともにアングロサクソン世界に勝利することができなかったドイツ】の歴史的経験は、【「夢見る人」の政治下手に起因する】のではあるまいか、という実感に襲われたこともしばしばだった。

ザフランスキーは、【68年世代の政治行動】にまで、【ロマン主義の長い歴史の影】をたどり、次のように書いている。
「 時代としてのロマン主義は過去のものとなったが、精神の在り様としてのロマン主義的なものは残った。【現実的なもの、平凡なものを居心地悪く感じ、出口、変化、超越の可能性を探し求めるときには、必ずロマン主義が一役買う】のである。」
躊躇しながらもヨーロッパを牽引する存在となった【ドイツが、その「夢見る」性格によって、再び世界的な波乱を引き起こすことがある】のだろうか。いや、本書で見てきたように、【すでにその芽は現れている】のかもしれない。』

いかがでしょうか?
この書物は、現代ドイツ人の考え方を見る上で、とても参考になります。
文中に「68年世代の政治行動」とありますが、これはフランスを中心に、西ドイツや日本、イタリアなどの先進国の左翼学生が騒いだものの、結局は自滅していった学生運動です♥ 団塊の世代に多くみられ、いわゆる「パヨク」の素です(笑)

「 私がフランスに留学していた1968年、いわゆる「五月革命」が起きた。私はすでに日本で「安保闘争」を経験しており、左翼運動の虚構性、欺瞞性に気づいていたから、この「五月革命」とやらを冷ややかに対処していた。…見物がてら数多くのデモや議論を観察していたが、私が日本で経験した安保騒動に似ていた。共に労働者中心の革命運動ではなく、学生を中心にした中間層の運動であったからだ。そこには社会を変革するような動きというより、これまでの親たちや社会の権威を否定しようとする青年の反抗期の破壊運動のように見えた。

近年でも日本において、「五月革命」とか「1968年」という題で、参加者たちが当時のイデオロギーを欧米の左翼知識人の名をあげて語り、この時期の運動を回顧しているが、それらには日本から望遠鏡で見た対岸の火事のような見方が多い。…たしかに何かが起こりかなりの若者が動いたが、この左翼運動の理論の基本に何があったのかを日本の左翼は誰もとらえていないように思われた。…

ルディ・ドゥチュケ
「五月革命」のとき西ドイツの学生運動の立役者は、ルディ・ドゥチュケという人物であった。ドゥチュケは東ドイツ出身で、そこを追われてベルリン自由大学で社会学を専攻していた学生である。東ドイツの教条的マルクス主義ではなく、西欧におけるマルクス主義、とりわけフランクフルト学派の影響を受けていた。そのフランクフルト学派的な革命理論とは反権威主義思想であり、決して革命を起こそうとする直接の暴力革命思想ではなかった。…

フランクフルト学派の「批判理論」といわれるものは、現実批判にもとづく社会のあり方を追及するとともに、社会分析において従来のマルクス主義のような経済学的解釈だけでなく、フロイトの精神分析をはじめとする近代の心理学、社会学の方法を取り入れたものであった。労働者の概念よりプチブルといわれた小市民層、とくに学生に訴えるもので、従来のマルクス主義とは相容れない層の精神変革に重点を置いていた。すでに労働者を中心とする革命運動は退潮し、中間層が参加する、いわゆる資本主義の疎外感に訴える運動であった。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆左翼の活動は、反抗期の破壊運動のようなものなんです
「 「批判理論」は、50年代に亡命先のアメリカから帰国したアドルノ、ホルクハイマーたちによってフランクフルト大学で再興された。
同学派の中心人物であったヘルベルト・マルクーゼだけはアメリカに残り、コロンビア大学、ハーバード大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校などで意識的な学生たちをとらえていった。マルクーゼはアメリカの学生運動に理論的な基盤を与えたといわれ、従来の共産党主導の理論ではなく、学生をターゲットにした行動理論を謳っていた。学生運動を支持し、彼らと警官隊とのぶつかり合いを含めた行動(アクション)としての反政府運動を煽った。抑圧された少数派には抵抗する権利があると主張する理論を展開し、民主主義に抵抗したのである。

ヘルベルト・マルクーゼ
日本の安保闘争も似たようなものであったが、…マルクーゼのようなイデオローグはなかった。フランクフルト学派の理論は、戦後の普遍化されたナチズム的権威主義への批判であったが、日本の場合は【既存左翼への権威主義批判】が強かった。とくに根本的な違いは、彼らフランクフルト学派の根幹に【反ユダヤ主義があった】ことである。彼らのほとんどは【左翼ユダヤ人であることを問題にせず、それに対する人種差別を運動の核においていたことを秘していた】。反ユダヤ主義を封じ、常にアウシュビッツを非難することで、絶対的な悪としてナチズムを置き、その傾向のものをファシストとして告発する態度を貫いていた。
この背景は日本ではあまり理解されず、あたかも普遍的なマルクス主義理論であるかの如く喧伝された。日本ではマルクス主義自体が、ヨーロッパにおける少数派左翼ユダヤ人の民族差別糾明とその救済、そして資本主義批判の思想の両方であることが意識されず、さも反共産党的な社会主義思想であると信じられてきたのである。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆欧米学生運動の首謀者はユダヤ人なんです
このように左翼ユダヤ人が、反ユダヤ主義を封じるため、つまりユダヤ人差別を封じるために産み出された、反権威主義思想であり、その論理体系がフランクフルト学派の「批判理論」で、そのターゲットは学生層に向けられていました。マルクス主義自体も、根っこに同じ底流があるのですが、ここを日本の左翼は、全然理解ができていないんです♥
で、この当時の学生運動がどうなったのかと言いますと、学生の批判の矛先が、大学教授という権威をもつ、フランクフルト学派の教授たちへと向かっていったんです♥ まさに、ブーメランです♥


ここからは、昨日の続きになります。
連日にわたって、書かせて頂いておりますが、私たち日本の戦国時代の頃、ヨーロッパでは「宗教改革」を切っ掛けとしたキリスト教の分裂が始まっていました。

この時代は、西洋史でいうところの「近世」になります。
で、当時の状況を簡単に表しますと、こんな関係で御理解いただければ良いかと思います。

1547年時点でのハプスブルク家の領土
ここで、イングランド王国とフランス王国の関係を見ていく必要があるのですが、ポイントになる地域が「ノルマンディー」です。

ノルマンディー
詳しくはすでに書かせて頂いておりますので省略いたしますが、北方ゲルマン系のヴァイキングであるノルマン人が、侵入して支配したのがこのノルマンディーでした。

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す
この地を治めたノルマンディー公は、フランス王の臣下でもあったのですが、後のウィリアム1世の時代にイングランドに攻め込み、征服し、ノルマン人の王朝であるノルマン朝を開き、現在に至るまで、その血筋が続くことになります。

ウィリアム1世
ノルマンディー公ロベール1世の急死によって、1035年、息子のギヨーム2世が、わずか8歳でノルマンディー公位を嗣ぐことになります。このノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王ウィリアム1世となります。
1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世は、イングランドに侵攻し、ヘイスティングズの戦いに勝利、征服します。これをノルマン・コンクエスト、ノルマン征服と呼びます。

ノルマンディー公国の紋章
ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王ウィリアム1世として開いたノルマン朝は、その紋章からも分かるとおり、ヴァイキングのノルマン人の王国です。

ノルマン朝の紋章
ちなみに、現在のノルウェーの国章がこちらになります♥

現在のノルウェーの国章
また、現在のイギリスの国章がこちらになります♥

現在のイギリスの国章
さて、ノルマン朝は、ウィリアム1世(在位:1066年 - 1087年)の後を、三男ウィリアム2世(在位:1087年 - 1100年)、四男ヘンリー1世(在位:1087年 - 1100年)と継承されますが、1120年に遭難事故で世継ぎを亡くしてしまいます。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ホワイトシップ(White Ship)の遭難は、12世紀(1120年11月25日)の海難事故。イングランド王ヘンリー1世の世継ぎウィリアム、王の庶子2人を始めとして、イングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した。生き残ったのは船員1人と言われる。」

ホワイトシップの遭難
1135年、ヘンリー1世は娘のマティルダを次のイングランド王に定めて死去します。

マティルダ (神聖ローマ皇后)
このマティルダは、1114年、わずか12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚していましたが、1125年に夫が亡くなると、イングランドに帰され、1128年に、今度はフランスに送られ、10歳年少のアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚しています。
1133年、アンジュー伯ジョフロワ4世との間に、長男であるアンジュー伯アンリが誕生します。のちのイングランド王ヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)です。

ヘンリー2世
彼が開いたの王朝をプランタジネット朝と呼びますが、これはフランスの貴族の名前からきています。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ガティネ家(フランス語:Maison de Gâtinais)ないしアンジュー家(フランス語:Maison d'Anjou)は、フランスのガティネ伯およびであった貴族の家系。11世紀以降、アンジュー伯となる。1131年以降、同家からエルサレム王が出ており、さらにイングランド王家との婚姻を通して1154年よりイングランド王となった(プランタジネット朝)。
同家は1060年にジョフロワ3世が母方の伯父であるアンジェルジェ家のジョフロワ2世からアンジュー伯位を相続したのち著しく台頭し、じきに婚姻を通してメーヌを獲得した。また、十字軍に参加し、テンプル騎士団と密接な関係を持ち始めた後の1131年にフルク5世の婚姻によってエルサレム王国を手に入れた。ガティネ家の本家は1154年にプランタジネット家となり、イングランド王国、アイルランド、ウェールズ公国を支配するようになった。これ等の広大な領土はアンジュー帝国と呼ばれるようになる。」

1172年頃のアンジュー帝国の版図
続きは次回に♥
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