2016-10-26 (Wed)

李 承晩(り・しょうばん 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 そうした客観状態がだんだん固まって来て、この【通州事件】が起きることになったのですが、その【実際の引き金になったのは、やはり殷汝耕(いんじょこう)だった】のです。

殷汝耕
この殷汝耕は翼東(きとう)【防共】自治政府を作り、一万人の保安隊を軍隊としておいていたのです。

これに【対して中国の第二十九軍が通州のすぐ近くの宝通寺にその一部を展開】させておりました。そして【輿論が日本批判、日本人憎悪の感情で昴(たか)まって】まいると、この【第二十九軍の宝通寺駐屯部隊の中に不可解な行動】が目立ってきたのであります。

そこで日本側としては、保安部隊もいることだから、一応、宝通寺から撤退してもらうことを第二十九軍部隊に要請を行ったのです。これに対して【宝通寺部隊は全然応じる気配がなく、かえって日本人及び日本軍に対して威圧的姿勢を張ってきた】のであります。これは【支那側の偽の宣伝】が大いに役立っているようです。即ち、【当時の南京放送が「支那軍大勝利。日本軍大敗。日本人全滅」との放送を毎日繰り返し、繰り返し放送していた】のと、【朝鮮人の反日本的口コミ作戦が功を奏したもの】と言わねばなりません。

それに【特に、この頃の支那軍というのは大なり小なり共産主義の影響を受けていた】のです。

この第三インター、即ちプロレタリアート独裁を目指している【コミンテルンの中核のものにとっての最後の目的】は、【日本を暴力的に制覇して、赤色革命の国家を樹立するというのが目的】ですが、そのためには先ず【支那に出兵している日本軍殲滅】が焦眉(しょうび)の急となっておりました。

そこで【支那軍、即ち蒋介石の軍隊の中にオルグを送り込む】と同時に、【蒋介石軍をもって日本を叩くといった作戦】を樹てていましたので、やはり【この通州はここにおる日本人殲滅が一つの目的であった】のです。

1933年 世界地図
【殷汝耕という人は親日家】であり、その【殷汝耕が結成した保安隊と親日的である筈であった】のですが、この【保安隊の中にも第三インターの赤色革命の思想をもったものたちが数多く送り込まれていて、第二十九軍の中にいる人民解放戦線派、即ち共産革命派と常に緊密な連絡を取り合っていた】のです。【こうしたことが通州事件の大虐殺の背景】にもなっているのです。

そしてこの【通州事件の直接の発端】となったのは、日本軍に対して攻撃的態度をとっておった第二十九軍の宝通寺部隊に対して【両軍の衝突を避けるため、一時北京への撤退を求めたけれど、かえって日本軍に対して攻撃をしかけて来た】ので、

七月二十七日に【この宝通寺部隊に対して攻撃を開始】することにしたのであります。ところが【日本軍が意を決して攻撃に移ると、この宝通寺部隊はたちまち戦意を失い敗走】することとなったのであります。

ただこのとき関東軍の爆弾機が宝通寺部隊を攻撃するとき、隣接していた保安隊の一部に爆弾を投下したのであります。この誤爆に対して日本側としては、細木特務機関長を直ちに殷汝耕のところに急派し、誤爆に対して陳謝し、遺族の弔問に走り廻っていたのであります。しかし【このことを強く利用しようとした南京政府は、殷汝耕討伐に立ち上がると共に、日本人「皆殺し」作戦を展開する】こととなったのであります。』

いかがでしょうか?
「通州事件(つうしゅうじけん)」は、1937年(昭和12年)7月29日に起きた、支那人による日本人居留民虐殺事件です。来年は、ちょうど80年目となります。



この通州事件とセットで覚えて頂きたい事件があります。
それが、終戦後に支那人が行った日本人大虐殺、「通化事件」(つうかじけん)です♥

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3000人が虐殺された。中国では通化"二·三"事件などと呼ばれる。
当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「36年の恨」を口にしながら暴行・掠奪・強姦・処刑を行った。」
ちなみに、終戦後に起こされた、この通化事件は、日本共産党と繋がっている大虐殺事件です♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆破防法調査対象の日本共産党と、終戦後の「通化事件」 その一
☆破防法調査対象の日本共産党と、終戦後の「通化事件」 その二
☆破防法調査対象の日本共産党と、終戦後の「通化事件」 その三

さて、ここからは昨日の続きになりますが、私たちの大日本帝国が、朝鮮を一等国家の仲間入りさせてあげた「日韓併合」ですが、「良かれと思って」、わざわざ朝鮮人にしてさしあげたこの「施し」に対して、反発する輩が存在していました。
そんな輩が、「日韓併合」の9年後に、支那の上海で組織したのが「大韓民国臨時政府」でした♥

大韓民国臨時政府の要人
で、この「大韓民国臨時政府」の主要メンバーは、右翼活動家・テロリストだったわけですが、現在の韓国の憲法にも書かれているとおり、そんなテロリストどもが組織したサークルが、現・大韓民国の前身なんだそうです♥

昨日は、そのサークルの設立メンバーの一人の金九(きんきゅう)について見てみました。

金九
その金九は、1949年6月に、安斗煕(あんとうき)によって暗殺されます。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 安 斗煕(あんとうき、1917年3月?日 - 1996年10月23日)は、大韓民国の軍人で特務機関員。朝鮮独立運動家の金九を射殺した暗殺者として韓国では有名である。裁判では終身刑を受けるが、李承晩大統領によって減刑されて1年も満たずに韓国陸軍に復帰して朝鮮戦争に従軍した。後に日本でも工作活動をしていたことで知られるが、李承晩の失脚後は迫害を受けた。引退後、金九を信奉する朴琦緖の手によって自宅で撲殺された。
日本領朝鮮の平安北道龍川郡出身。高等商業学校卒業。明治大学法学科3年中退。光復後に帰郷するも、1947年に脱北し西北青年会に入会。韓国陸軍士官学校8期生。」
「 西北青年会(せいほくせいねんかい)は、連合軍占領下の朝鮮半島南半部(南朝鮮)で活動した極右・反共主義団体。2014年に「再建準備」が取りざたされ当時の大韓民国で物議をかもした。
日本の降伏後、朝鮮半島は北緯38度線を境に北半部(北朝鮮)はソ連軍、南半部(南朝鮮)は米軍の占領下にそれぞれ置かれた。そのうち、北朝鮮ではソ連軍当局と朝鮮の共産主義勢力によって社会主義化政策が強制的に実施され、農地改革で地主層の土地が強制的に没収されたり、資本家が自己保有する動産・不動産を没収されたりした。そのため、この状況に不満を持つ北側の青年層が南朝鮮へ脱北し、南側で共産主義に敵愾心を持つ(反共)団体が組織されるようになった。これら反共団体のうち、平安青年会、黄海会青年部、大韓革新青年会、咸北青年会などが統合し、1946年11月30日に平安道(=西北地方)出身者を中心とする西北青年会が結成された。」
・・・と御覧のように、完全に右翼です♥
ちなみに、北朝鮮においてソ連軍によって行われた施策は、「社会主義化政策」と書かれていますが、私たちの日本においても、アメリカ占領軍が同じことをやっていますね♥ つまり、日本も占領下で「社会主義化政策」が行われていたわけです♥

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本国憲法をつくったのは誰? ~ アメリカの社会主義
☆日本共産党 社会主義・共産主義の社会をめざして = 日本での暴力革命をめざして・・・
☆敵である連合国軍に協力していた「日本共産党」 ~ 野坂参三(元日本共産党名誉議長)とアメリカ
☆日本共産党も否定できない事実 ~ 「コミンテルン陰謀史観」
☆「社会科」って、結局は何なの? ~ 教育・社会悪化の根本原因=「社会科」
☆米占領下の政策は、民主主義ではなく、社会主義でした
☆社会主義をあたかも民主主義の行きつくところのように
さて、「日本でも工作活動をしていた」と書かれていた安斗煕(あんとうき)ですが、一体何をしていたのかと言いますと・・・

新潟日赤センター爆破未遂事件を報じた朝日新聞夕刊(1959年12月5日付)
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 新潟日赤センター爆破未遂事件(にいがたにっせきセンターばくはみすいじけん)とは、中国地方各地における韓国工作員による密出入国と、1959年12月4日韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官などにより企てられた新潟県での暗殺・爆破テロ未遂事件。

1959年12月4日、警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求め、新発田警察署で取り調べを行った。工作員の鞄の中からは雷管を装てんした4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕された。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1ℓ缶4本を隠したウィスキー箱が発見され、工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明した。また、この工作事件は韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとっていたことも明らかにされた。この時逮捕された工作員は、日本国籍を取得した在日韓国人と在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人である。日本国籍を取得している在日韓国人は事件前には、新聞記者と称して日本赤十字社本部の周辺に入り浸っており、日本赤十字社からは出入り禁止とされていた。事件発覚後、警察は次々と韓国の工作員を摘発した。この爆破未遂事件は日本社会に衝撃を与え、韓国政府や在日大韓民国居留民団に対しての日本世論が硬化した。

1959年12月7日には釜山港から神戸港に上陸しようとしていた工作員を載せた大栄号が関門海峡で海上保安官に臨検されて強制停泊させられた後に、韓国に引き返している。
1959年12月12日には巨済島を出発した韓国工作員を載せた明星号が下関近海で暴風に遭い沈没し12名が死亡。
1959年12月13日、12月12日に明星号と同じく巨済島を出航した工作船が広島県呉港から工作員を潜入させる。
1959年12月下旬には在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した後、再び日本に渡航して大阪府に住んでいた男性のもとに、韓国に帰還したままであった在日義勇兵の友人が8人の男を引き連れて現れると、そのまま居候するようになり、夜にはラジオで韓国から送られてくる暗号を受信するなどして工作活動を開始した。追って、工作資金2000ドルも送付されてきた。
1960年4月19日に四月革命が起こり、李承晩大統領が失脚すると工作活動は下火となった。
1960年5月3日、山口県下関彦島江ノ浦桟橋から鮮魚運搬船で韓国に密出国しようとしていた韓国工作員24名が逮捕された。工作員たちは先に神戸、長崎、下関付近から密入国していた。
1960年5月10日、警視庁外事課が韓国工作員を出入国管理法違反で逮捕。工作員は李承晩大統領直属の景武台機関出身で在日同胞の北朝鮮帰国阻止決死隊の隊員だった。工作員は日赤センターや船や列車を破壊する任務を与えられていた[33][34]。」
・・・という感じで、この朝鮮人たちは、私たちの日本でテロ活動をしようとしていたんです♥

それでは、ついでに、この朝鮮人たちのボスだった李承晩(りしょうばん)について。

李承晩
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 韓国大統領・李承晩は1952年1月18日に李承晩ラインを宣言し、竹島を占拠するとともに対馬は韓国領であるとして日本に「返還」を要求するとともに日本の漁民数千人を抑留し、第一大邦丸事件のような日本人殺害事件も引き起こした。」

「 第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1953年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。
1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。
同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。
しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。
2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。
取調べで韓国側は拿捕地点は翰林より9マイル付近であったと主張。日本人船員側が昌運号のコンパスの自差及び速力の矛盾を指摘したところ、韓国側に両者の主張の中間をとろうと言われて、13マイル付近を拿捕位置として捺印させられた。同時期に取調べを受けていた第二大邦丸の通信士によると、拿捕地点は翰林より30マイルである。
2月12日に一行は済州に送られる事になったが、誰も漁撈長の遺骨を持ってきていなかったため、遺骨を取りに行くことを要求したが、警察署長に拒否された。船員が移送用の車に乗ることを強硬に拒否したところ、1人だけ残して、次の日に運ぶ事を認められ、残りの船員は車で済州へ運ばれた。
同日23時頃、船員は済州警察査察課第二係に引き渡され、食事を与えられずにそのまま留置所に入れられた。この留置所も4畳ほどで、しかも他の韓国人と一緒に入れられていた。この留置所では粗末ではあるが食事は与えられた。
済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので国際法上認められていないと反論した。クラーク・ライン侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた。この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。
この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。
2月15日午前7時頃に、船員は外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだから。あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれ」との旨の挨拶を受けた。同日13時に船体の受け渡しがあり、同日済州を出航、アメリカ海軍のフリゲート「エバンズビル」に護衛されつつ、2月17日17時半頃に佐世保に入港、2月21日に佐世保を出航して、2月22日7時に福岡に帰港した。」
これが、朝鮮人という生物の正体だということが、ご理解頂けましたでしょうか♥

続きは次回に♥
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