2016-10-25 (Tue)
1950年代の韓国・釜山
大韓民国(だいかんみんこく)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。
憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「韓半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでおらず、1953年の休戦以来、休戦状態にあり現在まで軍事的対立や小規模な衝突が続いている。このため韓国では国家保安法により、北朝鮮(韓国では「北韓」と呼称)を公然と支持する事は禁じられており、「北韓」を支持しているとみられる人物の入国や言論に制限が加えられることがある。
海上では南と東に日本、西に中華人民共和国と各々国境を接する。英名のKoreaは、高麗を由来とする。5千万人の人口のうちおおよそ半数が、世界第5位の人口を有するソウル首都圏に居住する。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 《 この【通州という町】にはその当時翼東(きとう)【防共】自治政府がありました。これは殷(いん)さんという人がつくった政府で軍隊も一万人以上居ったそうです。そして【日本に対しては非常に親日的だった】ので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。
殷汝耕(いんじょこう)
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、沈(ちん)さんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、【支那は日本と戦争をする】。そのとき私が【日本人であるということがわかると大変なことになる】ので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。…
そのうちに【あれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来た】のです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。沈さんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなったのだろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたかとがわかりませんでした。
只【朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしている】のです。
私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしているとまで申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だから【この通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない】。いや【日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです】。
私はそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。
そこへ沈さんが帰って来て【朝鮮人から日本の悪口】を一杯聞きました。すると【沈さんはあなたたちも日本人じゃないかと申した】のです。
するとその【朝鮮人は顔色を変えて叫び】ました。
【日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐する】と申すのです。そして【安重根(あんじゅうこん)という人の話を滔々(とうとう)と語り】ました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。【我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させる】のだと申すのです。
私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと【怖いことを言う朝鮮人】だろう。こんな【朝鮮人がいると大変なことになる】なあと思いました。沈さんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。
こんなことが【何回も繰り返され】ているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってしまいったのです。
でも【そんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らない】のです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、沈さんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだんと大きくなって来るようでした。 》 』
いかがでしょうか?
当時、朝鮮人が何をやっていたのかが、よく理解できると思います♥
「通州事件(つうしゅうじけん)」は、1937年(昭和12年)7月29日に起きた、支那人による日本人居留民虐殺事件です。来年は、ちょうど80年目となります。
で、この前年の春から夏に移ろうとする頃から、すでに「親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって」きていたんですけれども、「そんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らない」状態のままだったわけです。
そこから遡ること26年前の1910年(明治43年)、私たちの大日本帝国は、朝鮮人がお願いしてきたので、仕方がなく、一等国の仲間入りをさせてあげました♥ それが、「日韓併合」です♥
「 朝日新聞が、韓国や中国と連携して進めてきた、いわゆる慰安婦報道の一部を誤報(ほんとうは意図的な虚報)だと認めた2014年は、日本の報道界にとって歴史的な年になりました。
しかし慰安婦報道だけの問題どころか、外国と連携して日本を貶める、信じがたい報道というのは、もっと根が深いのです。
これは、強い立場の戦勝国に迎合して祖国を損なうという人間の尊厳を見失う行為ですが、韓国と日本はそもそも戦争をしていません。韓国は戦勝国ではなく、日本と対戦した国ですらありません。
日韓併合の時代は確かにありました。だがそれは、大韓帝国の皇帝ご自身が北のロシア人の脅威から帝国を守るために日本人を頼みとしたいと、日本側の伊藤博文公らの反対を押し切って国際条約を結んで実現した併合です。
これを、西洋が直接の武力侵攻でアジアやアフリカを侵した植民地支配と一緒にしては、客観的事実に反します。
韓国は第二次世界大戦後すぐ、「戦勝国だということにしてくれ」とアメリカに繰り返し頼み込みましたが、「韓国は日本と戦ったことがない」と断られました。
韓国はまた、「戦勝国なんだから竹島など日本海の島を欲しい」とも頼みましたが、アメリカのラスク国務次官補に正式な書簡で、「われわれ(アメリカ)の情報によれば、韓国の一部として扱われたことは一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にある」とこれも断られました。
そこで韓国は、日本の占領時代が終わる直前、わずか3ヶ月前の1952年1月に竹島を自国領とし兵を侵入させ占拠してしまった史実があります。これが現在の竹島のありのままの発端です。
在日韓国人あるいは在日朝鮮人のひとも、もちろん日本人も、前述のラスク書簡という明確な物証があり、それをネットで読めるのですからどうぞ学んでみてください。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆毎年1月14日は、「尖閣諸島開拓の日」です
「 まず、日韓併合について見ていこうと思います。本質的なことがわかれば、彼らがなぜ強硬な反日姿勢になっているか理解できるようになります。
学校では日本が韓国を併合し、植民地支配したと教えられています。しかし、これは大きな間違いです。悪名高い1995年の村山談話で日本は植民地支配をしたと述べられていますが、完全な認識の間違いであり、事実ではありません。日本はどの国に対しても植民地支配をしていません。その点が正しく理解されていないことに日韓問題の原因があります。
まず、植民地支配とは何かを知るべきです。植民地支配は、英語では「コロナイゼーション(colonization)」と言います。植民地支配とは、文明の劣ったところに行って収奪・搾取するものです。現地を繁栄させるという考え方はそこにはありません。
日本が朝鮮でしたことは「アネクゼーション(annexation)」であり、併合です。本来は合併が望ましい姿だったのでしょうが、当時の国力があまりにも違いすぎたため、併合になったのはやむを得ないことだったと思います。
これは植民地支配とは違い、併合された地域と人々が繁栄するようにして一つの国として運営することです。
ヨーロッパの帝国主義国がアジア・アフリカでしたことは、まさしくコロナイゼーションであり、植民地支配でした。植民地の人間を使役して搾取しました。
日本は帝国主義時代にあっても、唯一、帝国主義的な政策をとらなかった国です。朝鮮にしても台湾にしても植民地支配でなかったことは、現地を栄えさせようとしたことからも明らかです。日本が韓国を併合した期間に、現地の経済、教育、人口がいかに発展したかは数字でも説明がつきます。日本は持ち出ししてまで資本を投下し、収支は赤字でした。
たとえば、人口は980万人から2500万人に増加しました。平均寿命は24歳から48歳と日本人並になりました。この間、年平均4%の経済成長を記録しました。なかでも特筆すべきは学校教育です。韓国を保護国化した際にはたった5校に過ぎなかった小学校は、1943年には約4300校とすべての村に設立されました。
また、朝鮮人の志願兵制度は1938年に導入されましたが、その年は志願者3000人に対して合格者は406人で、7倍の競争率でした。1944年の徴兵制施行の前年の志願者は約30万人、合格者は6300人と50倍という高い競争率だったのです。
なお、徴兵制実施によって徴兵された朝鮮人のほとんどは、実戦経験することなく終戦を迎えました。靖国神社には朝鮮人兵士3万人柱が祀られています。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本は韓国を「保護」してあげた素晴らしい国です
さて、私たちの大日本帝国が、「良かれと思って」、わざわざ朝鮮人にしてさしあげた「施し」に対して、反発する輩が存在していました。
そんな輩が、「日韓併合」の9年後に、支那の上海で組織したのが「大韓民国臨時政府」でした♥
大韓民国臨時政府の要人
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
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「 大韓民国臨時政府(だいかんみんこく りんじせいふ)は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家、李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮(韓国)の臨時政府である。
日中戦争勃発後は所在地を転々と移動し、最終的に重慶に落ち着いたが、枢軸国・連合国双方からいかなる地位も認められず、国際的承認は得られなかった。
大韓民国の現行憲法の前文には「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」と「4・19民主理念」を継承すると書かれており、大韓民国臨時政府を現・大韓民国の前身と位置づけている。なお、朝鮮民主主義人民共和国ではこのような位置づけはされていない。」
・・・と、このように、現在の韓国の憲法にも書かれているとおり、テロリストどもが組織したサークルが、現・大韓民国の前身なんだそうです♥
では、そのサークルの設立メンバーの一人、金九(きんきゅう)について、見てみましょう♥
金九
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 金 九(きん きゅう)は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首、右翼運動家。」
つまり、「右翼運動家」が組織したサークルが、現・大韓民国の前身だということが、ここでハッキリします♥
「 本名は金昌洙。本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。」
「博愛」を唱えてやまない、敬虔なクリスチャンでもあったわけです♥
では、そんなクリスチャンでもあり「右翼活動家」でもあった金九は、一体、何をしてきたのでしょう?
有名なのが「鴟河浦事件」(しがほじけん)です♥
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 鴟河浦事件(しがほじけん)とは、1896年3月9日、李氏朝鮮の黄海道安岳郡鴟河浦で、金九らが、日本人・土田譲亮を集団で暴行、殺害し金品を奪った事件。この事件で金九は金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらに後、脱獄する。
以後、金九は独立運動家としての道を歩むことになる。」
「 調書(建陽 元年 8月 31日 仁川港警務官 取調べ 金順根 起草 金順根)によると
①金九(金昌洙)は24日竜崗から安岳に行く途中で鄭一明(平壌)、定平(咸鏡道)、金長孫、金致亨と同じ船に乗って鴟河浦に到着し、同一の宿に宿泊した。
②早朝に朝飯を終えて旅に出ようと思ったが、店幕(宿屋のこと)の法道(礼儀作法)は旅人に食膳を与える時は老少を判別し、その規則を守らなくてはならないが、短髮で刀のようなものをさした人が食膳を先に要求すると女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。
③その人の本貫を調べると日本人なので『不共戴天之讎』(不倶戴天の仇)と思い胸の血が騒いだ。
④日本人がわき目をしているうちに足で蹴り倒し、手で撲殺し凍った川に捨てた。
⑤腹にあった財布からのお金で宿賃を支払い、3人の資金として使うことにした。
⑥奪ったものは 環刀、ロバ1頭 小判75両程度
⑦ロバ1頭 残金をもち 単騎で載寧に向かった。
⑧同年 3月に家に帰って来てから海州巡使に逮捕された
同時に鴟河浦の宿の主人 李化甫の調書でも上記が確認されている。
一部には土田は日本商人の武装行商団体鶏林奨業団の一員であったという主張もあるが、この鶏林奨業団の活動開始時期は1896年以降であり、これは明らかな誤りである。
韓国人の一部では鴟河浦事件は1896年の閔妃殺害事件(1895年10月8日)に憤った鴟河浦義挙と呼称するが、これは一般的な意見ではない。閔妃殺害事件と全く無関係な日本人に対しておこなった(集団)強盗・殺人事件は金九のおこなった犯罪行為とみなされており、金九はテロリスト、殺人者とされている。むしろ金九を英雄に祭り上げている人たちに反発する人たちの方が多数派である。
「正しく解釈し書き下ろした白凡逸志」の著者である韓国の歴史問題研究所のぺ・ギョンシクは次のように明らかにした。確認可能の資料にも陸軍中尉という記録はなく、日本公使館の報告書や朝鮮の官吏の報告書、独立新聞の事件報道は、一様に土田を商人と記している。金九も土田が陸軍中尉ではないことを知っていた。意図的に記述された可能性が高い。自分が殺した日本人が明成皇后の殺害と関係のない民間人だとすれば、復讐という名分が成立し得ない。また、金九が自身の著作で一人で行った殺人行為としている点についても複数犯であること金九自身の供述書に書かれている。」
で、その後のテロリスト人生がこんな感じです♥
「 1919年 3月 - 三・一独立運動が失敗に終わる。
4月 - 上海に亡命し大韓民国臨時政府の設立に参加、第3、4期臨時政府で国務領(内務大臣)を務める。なお、第1、2期臨時政府大統領は李承晩だった。
1921年 - ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示する。
1922年10月 - 上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道などと一緒に韓国労労兵会を組織する。
1922年11月 - 金九が刺客として放った呉冕稙と盧鐘均により韓国人の共産主義者・金立が上海で狙撃殺害される。
1930年 - 韓国独立党結党。
1931年10月 - 韓人愛国党を組織する。
1932年 - 韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などの独立運動を行う。
1940年 - 重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を行う。
1941年12月9日 - 大韓民国臨時政府主席金九と、外務部長趙素昴の署名で対日宣戦布告。しかし、布告文書は日本政府に通達されておらず、実効性はなかった。主として武装闘争・本国工作活動によって独立を目指した。
1945年 11月 - 帰国
12月 - 信託統治反対国民総動員中央委員会を組織し、信託統治反対運動を主導する。
12月31日 - 信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚され、同日、前日の韓民党の党首・宋鎮禹暗殺の容疑で軍司令官に再召喚される。
1946年2月8日 - 李承晩率いる独立促成中央協議会と統合し、大韓独立促成国民会を結成、副総裁に就任。
1947年12月 - 韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
1948年 3月8日 - 南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送する。
3月12日 - 金奎植、金昌淑、趙素昂とともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表。
1949年 6月 - 自宅で安斗煕によって暗殺される。」
長くなりましたので、本日はここまで♥
続きは次回に♥
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