2016-10-20 (Thu)

「水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した
旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 明治三十七年二月五日、日本政府はロシアに対し最後通牒を発し、ここに日露の国交は断絶した。

高橋由一 『明治天皇』
明治天皇は二月十日、宣戦の詔勅を発布した。ロシア皇帝ニコライ二世も前日の二月九日、宣戦の詔勅を発布している。

ニコライ2世(1914年)
来るべきものが、とうとう来たのである。…

朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)
第一軍は朝鮮半島に侵入した露軍を駆逐して、鴨緑江を越えて【満州に進出】、一方、第二軍は【遼東半島に上陸】し、同方面の敵を撃破した後、第一軍に呼応して北進を始めた。

鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊
【両軍の戦略目標は遼陽】であった。

日露戦争の経過
遼陽付近において敵野戦軍主力を捕捉撃滅して、ロシアの継戦企図を破摧(はさい)し、戦争を終結する。これが【当初の作戦方針】であった。

遼東半島に上陸した第二軍は、北進に先立ち南山の戦闘の後、【大連港を占領】し、これをわが野戦軍の【補給基地】とした。しかし【大連の西には金城鉄壁難攻不落を誇る旅順要塞】がある。

旅順海岸の砲台
この【旅順は、軍港としてロシア太平洋艦隊の根拠地】であるだけでなく、【その守備軍は、わが後方連絡線に対する直接の脅威】となっている。

【敵の海軍根拠地を覆滅すると同時に、わが野戦軍の後方を安全にする】。
【この目的のために第三軍が編成】された。【軍司令官には乃木希典中将が任命】された。

乃木希典 (のぎまれすけ)
乃木は現役陸軍中将の最古参、その人物識見経歴から内外の衆望を一身に担って就任したのである。おそらく当時、何人もこの人事について異論を挟まなかったであろう。

ところが【司馬氏はこの人事を目して、乃木のような軍事知識のない者がこの大役を命ぜられたのは、長州軍閥の親玉・山県有朋の藩閥人事のあらわれであると言っている】。…

デタラメな物書きだった司馬遼太郎
司馬氏は、その著書の中で次のように書いている。
「 野戦の総司令官には薩の大山巌がすわった。さらには野戦各軍のうち、戦略上果敢さを期待された第一軍司令官の職には薩の黒木為棹がついている。第二軍の奥は閥外だが、第四軍の野津は薩であった。が、このことを【山県がさびしがった】。
『ひとりぐらい長州人を入れてもいいのではないか』
といいだして、そういう配慮から、第三軍司令官をえらぶについて、長州人乃木希典が指名された」 (『坂の上の雲』「旅順」)

山縣有朋
歴史を知らぬ人が読めば、いかにも本当らしいが、【まさに偏見独断、無知そのもの】というよりほかはない。

だいいち、【乃木が第三軍司令官に任命されたときは、まだ大山は総司令官に任命されておらず、第四軍もその名のごとくまだ編成されていない】。

すでに野戦で活躍している【第一軍の師団長三人のうち、近衛の長谷川好道、十二師団の井上光両将軍ともに山口県出身である】。

また新たに出征した【第二軍の三人の師団長のうち第三師団長の大島義昌中将も山口県】である。

すでに出征している【師団長六名の内訳は、山口県三、鹿児島県一、福岡県一、もう一人は皇族(伏見宮)】である。

いったい【司馬は何を言っているのか】と言いたくなる。』

いかがでしょうか?
この書物を読み進めていきますと、清々しく気持ち良いぐらいに、司馬遼太郎の唱える「嘘」が白日の下に晒されていきます♥
さて、本日は、日露戦争を見てまいりましょう。
本文中にも書かれていましたが、日本から派兵された第一軍と第二軍の戦略目標は「遼陽」でした。

上の図の黄色い矩形(くけい)部分を拡大してみますと、このようになります。

この地域を決戦の場にするというのが、当初の作戦でした。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。」
ここで、陸軍の戦果を見てみますと。。。
「 黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。」

つまり、陸軍は、ここまで首尾よく作戦通りに事を進めていることが判ります♥

「勇烈ナル我軍鴨緑江河畔二露国コサック騎兵ヲ撃退之図」 楊斎延一画
指摘しておくべき問題は、「南山の戦い」での第二軍の損害に対して、東京の大本営は損害の大きさに驚愕している点です。つまり、「甘く見ていた」わけです♥

「南山之役我軍乗迅雷風雨突進敵壘」小林清親画(1904年4月)
この「大本営の当初計画」での「要塞に対する認識の甘さ」が、損害を拡大させた第一の理由です♥
本格的な要塞ではなかった「南山」でさえ、この状況ですので、本格的な、当大随一、しかも諸外国が「永久要塞」と認識していた「旅順要塞」で、乃木希典率いる第三軍が甚大な損害を出すのは必然でした。

ここで、もう一度、当初の作戦を見てみましょう。
「 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。」
さて、海軍が何をしていたのかと言いますと。。。
「 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。」
つまり、海軍は、宣戦布告の前に奇襲攻撃をしたけれども、まともな戦果は挙げられず、陸軍がロシア艦2隻を沈めたわけです♥

「 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。」
つまり、海軍は、旅順港封鎖に失敗し、機雷でロシア艦1隻を沈めるも、倍返しの2隻を沈められたわけです♥
ここで、3度目になりますが、もう一度、当初の作戦を見てみましょう。
「 海軍が第一艦隊と第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍、第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。」
御覧のとおり、海軍がまず、旅順のロシア太平洋艦隊を殲滅或いは封鎖することが作戦の第一であって、この時点で、既に当初の作戦が失敗しているんです♥


旅順は、ロシア太平洋艦隊の根拠地で、しかも、日本軍の補給港「大連」の至近にある、目の上の「たん瘤」です♥
当然、この邪魔モノに対して、私たちの日本は対処します。
本文中にありました通り、それを排除、或いは無力化する目的で、「第三軍が編成」され、「軍司令官には乃木希典中将が任命された」んです♥
これが、「日本の切り札」だったわけです♥

詳しくは本書をご参照いただきたいのですが、「大本営の当初計画」での「旅順のロシア太平洋艦隊に対する認識の甘さ」が、損害を拡大させた第二の理由ということになります♥
本書をお読み頂ければ、その後に続く「第三」、「第四」・・・と根本的な過ちを理解することができます♥
それこそが、負けるはずのなかった「大東亜戦争」での敗戦、そして、現代の私たち日本人の「問題」に直結しています♥
私たち日本人が本当に反省して改めていかなければならない、「大切なこと」だと思います。

それでは、本日の最後に、昨日の続き、「黒田清隆」について。

黒田清隆
黒田清隆は、薩摩藩士で、のちに陸軍中将、また、大日本帝国憲法発布時の第二代内閣総理大臣でもあった人物です♥
彼が、乃木希典を抜擢したわけですが、知人に「乃木希典を頼むよ」っていう理由で抜擢するような人かどうか、次のエピソードを知って頂ければ理解できると思います♥

榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)
「 日本史の最大のタブーは天皇です。「天皇がいたから日本はいい国なのだ」ということは絶対に言わないのが日本史学界というところです。
以前は、マルクス主義というよくわからない思想がもっとあからさまに学界を席巻していて、ある学者が「平安時代の日本は奴隷制ではなかった」と言ったとたんに追放された例もあります。
「マルクスが『古代奴隷制』と言っているのだから、その理屈に合う史料だけを持ってきてそういう発表をしろ」
と言論統制がまかり通った時代がありました。さすがに今はそこまでひどいことはありませんが、根本的に天皇を褒めてはいけないことに変わりはありません。日本史の第一のタブーが天皇を褒めることなんです。…
明治維新のように政体が大きく変わるとき、世界史を見れば、ひどい流血が避けられないのが普通です。たとえばフランス革命の場合、ブルボン王朝の王様がいて、大統領が出てきて、そこから皇帝にのし上がるナポレオン一族がいて。つまり、王党派・共和派・皇帝派がいたわけです。
同じ土地に対して、ブルボン王朝以来先祖伝来持ち続けていた人の所有権を革命政府がひっくり返して別の人に証文を与える。さらにナポレオンに付き従っている人がその土地をもらって証文を得る。こうなると、3人が同じ土地の証文を持っているのに、誰が正しいのか裁定する人がいません。もう一度革命を起こさない限り、最後に勝った者の勝ちとしか言えない。だから殺し合いが終わらないのです。

バスティーユ襲撃
日本の場合、源平合戦で平家が勝ったら、源氏は日本中逃げまわっても、追撃して討ち取るのは「ホドホドにしておけよ」ですし、源氏が勝った場合は平家の落ち武者狩りを「ホドホドにしておけよ」となります。しかし、外国にはそれがありません。日本では源平合戦のときから「ホドホドで矛を収める」ことができ、「相手を皆殺しにするまで」とか「相手を殺さねばこちらが殺される」ということがまずあり得ません。天皇がいるからです。
戦国時代もそうです。下克上をして元の殿様に勝ったら、どうしてほかの国人(こくじん)領主を従えることができるのか。天皇の権威というものがあるからです。織田信長は事あるたびに天皇の権威を求めた典型です。信長ほど天皇の権威を利用した人が、司馬遼太郎センセイにかかるとなぜか体制破壊者になってしまうのですが。

デタラメな物書きだった司馬遼太郎センセイ
権力を奪い合って日本人同士が戦うけれども、天皇の権威があるから勝負がついた時点で矛を収めることができる、ということ…
日本史ではマルクス主義へのアンチテーゼ(ある主張に対してそれを否定する内容の主張)でいろいろ言いながらも、軍事力や経済力という物質力だけで説明してしまう人が多いのです。唯物史観での反天皇も根強いのです。
そういうところで、さて、榎本武揚(えのもとたけあき)はどういう人だったか。

榎本 武揚
新政府軍と各地を転戦し、最後に五稜郭で敗北し、降伏した「朝敵の将」でした。フランスなどであれば必ず殺されていた立場の人です。…
黒田清隆が許して連れ帰った。
五稜郭に立てこもった賊軍の主だった人のうち、死んだのは土方歳三(ひじかたとしぞう)ぐらいです。しかも、戦死です。…他の人々はみな許され、榎本武揚も大鳥圭介(おおとりけいすけ)も明治政府でよく働いています。徳川慶喜(よしのぶ)も死刑にはならなかったし。徳川家は結局華族になっています…
フランス革命だったら絶対あり得ませんよね。ロシア革命でもロマノフ王家は皆殺しにされていますし。
じゃあなぜ日本人はこんなに寛大なのかということを辿って行くと天皇に行き着いてしまいます。源平合戦も織田信長も幕末維新の動乱もすべてそうなんです。
西郷隆盛が西南の役(明治10年)を中国でやったとしたら、一体どんな目に遭ったでしょうか。一生「漢奸(かんかん)」の汚名を着せられ、死んでもなお墓を爆破された汪兆銘(おうちょうめい)と、死後に天皇から位を追贈され、神社に祀られた西郷隆盛の違いを比べれば明らかです。
朴泳孝(ぼくえいこう)や金玉均(きんぎょくきん)が韓国でどういう扱いを受けているか。

某チョンコ
姜尚中(きょうしょうちゅう)は「西郷隆盛を靖国神社に祀っていないことを日本人としておかしいと思わないのか」と言いますが、それなら金玉均や朴泳孝の扱いを韓国人としてどう思うのか聞きたいものです。
金玉均は死体を切り刻まれて晒され、子孫までが事後法で財産を取り上げられることになっています。汪兆銘も墓を暴かれました。同時代のヨーロッパで負けた側がどれだけむごい目に遭ったか。しかし日本では、榎本武揚は負けた側でも殺されず、明治新政府で活躍できました。この違いの根本を辿ると天皇の権威かあります。榎本を語ろうとすると、天皇というタブーに触れてしまう。榎本武揚について語られてこなかった理由のひとつがここにあります。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本史の最大のタブーって何? ~ 100年前のソ連の人気ツアー 「イパチェフ館 地下2階」
さて、本日の最後も、大変参考になる歴史ブログをつくられている黒田裕樹さんの動画をご紹介させて頂きます♥ どうぞご覧ください。
続きは次回に♥
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