2016-10-12 (Wed)

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。
政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 本書『日支民族性論』(『大隈重信、中国人を大いに論ず』に改題)は、【大隈重信が現職首相の際に口述】し、若き日の【堤康次郎が書き起こし、出版】したものである。

大隈重信

日支民族性論 前篇
原書はこちらから読むことができます♥
↓
☆国立国会図書館デジタルコレクション - 日支民族性論. 前編
☆国立国会図書館デジタルコレクション - 日支民族性論. 後編
文体は難しくないが、なにぶん【大正時代に書かれたもの】なので、一般的な読者のために現代語に改めた。それでも歴史的な固有名詞が多く読みにくいかもしれないから、可能な限り注釈をつけた。
大隈重信は言わずと知れた【早稲田大学創始者】である。【二度にわたり総理大臣の地位に就く】など、大物政治家でもあった。

佐賀藩士時代の大隈
後に【西武グループ創始者となる堤康次郎】は、このころ【早稲田大学を卒業したばかりの青年企業家】で、手がける事業のすべてに失敗していた。

早稲田大学在学中の堤康次郎
出版に際しても独特の才能があったようだが、利益をだすまでにはいかなかった。その中には、出来栄えに感心した大隈が各方面に無料頒布(はんぷ)したので何の利益も出なかった、というような苦労譚(たん)もあったようだ。
本書は、支那(当時は中華民国)の民族性を言い聞かせ、日本の方策を説く構成となっている。

【現代人が読めば、「ネトウヨ」と談じるに違いない中身】である。

大隈の断定ぶりと比較すれば、【現在の安倍晋三首相など左翼リベラルとしか思えなくなる】だろう。

現職首相が「ネトウヨ」本を出版した! 一般の読者には、そう思って読んでいただければよい。最初は興味本位で構わないと思う。

では、なぜ大隈はこのような本を世に問わねばならなかったのか。

当時、【大隈内閣は、いわゆる「対華二十一カ条要求」で内外世論の批判にさらされていた】。それに対し、大隈個人の支那観を述べるための出版という意味合いが強い。

19世紀中盤、【日本と清は同時に西洋の脅威にさらされた】。しかし、【維新を成功させた日本と「眠れる獅子」でありつづけた清の明暗は分かれた】。』

いかがでしょうか?
この書物、大変お勧めです♥ とても真面目に書かれた内容なんですが、「え!支那に、それ言っちゃうの~♥」って、思わず吹き出してしまう場面が多々ございます。
さて、本書を読み進める前に、当時の時代を少し振り返ってみてみましょう。
20世紀初、今から約100年前、世界の大国は、イギリス、ロシア、ドイツ、オーストリア、フランス、アメリカ、そして私たちの大日本帝国です♥
それよりも少し前、本文中にもございましたが、19世紀中盤は、私たちの日本、そして支那にあった清が、同時に西洋の脅威にさらされていました。
この間、たった数十年ほどの期間で、私たちの大日本帝国は、世界に君臨する大国となり、その一方で支那にあった清は滅亡しています♥

まず、19世紀中盤、江戸時代末期の慶応3年(1867年)、第15代将軍徳川慶喜が「大政奉還」により、政権返上を明治天皇に奏上しました。

「大政奉還図」 邨田丹陵 筆
翌1868年10月23日に、 明治天皇が即位され、ここに「明治時代」が幕を開けます。

高橋由一 『明治天皇』
そして、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布され、「大日本帝国」が誕生しました♥

新皇居於テ正殿憲法発布式之図(1889年、安達吟光画)
ここまでの時代で、抑えておかなければならないポイントを挙げますと、
①日本と清との間における「対等条約」である日清修好条規の締結(1871年)
②江華島事件での武力衝突の結果、日本と李氏朝鮮との間に日朝修好条規が締結(1875年)
※清の属国であった当時の李氏朝鮮と結ばれたこの条約は、当然、清よりも格下の扱いですので、不平等条約です。
③ロシアとの間で国境を確定するために、樺太・千島交換条約が締結(1875年)
・・・と、このように、私たちの日本は、「安全保障」を考えて、次々と隣接国との間に、条約締結を進めていったことが理解できます。

そしてヨーロッパに目を向けてみますと、ロンドンで共産主義者同盟が結成(1847年)され、マルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が出版(1848年)され、ヨーロッパの労働者・社会主義者らが「第一インターナショナル」を創設(1864年)、ビスマルク率いるプロイセンに普仏戦争(1870年)に敗れたフランスのパリでは、マルクスの労働者階級による独裁、つまり「プロレタリアート独裁」を実践する自治政府がパリで宣言され、史上初の革命自治体「パリコミューン」が誕生(1871年)しました。
そうです。この当時、「共産主義という妖怪」がヨーロッパ社会で蠢きはじめたんです♥

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆映画 『宗家の三姉妹』 ~ 「中国人」を簡単に理解するための「パロディ映画」
1888年、ドイツ皇帝に弱冠29歳だったヴィルヘルム2世(在位:1888年-1918年)が即位します。その後の世界に「戦争をもたらした張本人」で、「社会主義者擁護」のドイツの王様の誕生です♥

1888年、即位まもないヴィルヘルム2世
ちなみに、現代の狂人の一人、金正恩も29歳で最高指導者になっています♥

金正恩
ここで、私たちの日本周辺に戻ってみますと、とある日本の隣接地域で「百姓一揆」が起こり、その「百姓一揆」を鎮圧できない国みたいであって国でないものが存在していました。それが「李氏朝鮮」です♥
1894年、朝鮮における農民反乱(「東学党の乱」または「甲午農民戦争」)を鎮圧するため、私たち日本と清が出兵します。
このときの朝鮮の対応のまずさで、私たち日本と清が戦争へと突入し、たったの9ヶ月で、私たちの日本が清に勝利します♥ ヨーロッパキリスト教・侵略国家から「眠れる獅子」と勘違いされていた清が、「眠れる豚」になりました♥
この日清戦争(1894-1895)の勝利により、私たちの日本は多額の賠償金とともに、台湾そして遼東半島を領有することになりました♥
ところが、ここでドイツの金正恩ことヴィルヘルム2世が横槍を入れ、いわゆる「三国干渉」(1895年)が行われ、日本に割譲された遼東半島を清に返還させられる出来事がありました。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆ドイツ帝国の「金正恩」 ~ ヴィルヘルム2世
長くなりましたので、本日はここまでに♥
続きは次回に♥
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