2016-09-29 (Thu)

真名井の滝(まないのたき)は、高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝である。日本の滝百選の一つ。
峡谷の崖上は自然公園となっており、その中にある「おのころ池」より流れ落ちる水が真名井の滝となっている。
神話によれば天村雲命(あめのむらくものみこと)という神が天孫降臨の際に、この地に水がなかったので水種を移した。これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている。
夏季は午後10時まで滝周辺がライトアップされ幻想的な雰囲気を出している。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)を祭る【宮崎神宮】(宮崎市)から西北に約600メートル。

宮崎神宮
小高い丘にある同神社の摂社、【皇宮神社(こうぐうじんじゃ)】は【イハレビコの皇居跡とされる神社】である。

皇宮神社
地元では【「皇宮屋(こぐや)」】と呼ばれ、イハレビコは15歳で太子(ひつぎのみこ)、つまり皇太子になると、この地に移り、45歳で東征を始めるまで、ここに住んだと伝わる。

宮崎神宮周辺図(上が南)
【「皇軍発祥の地」】の石碑が立つ境内からは、天候がよければ【天孫降臨の地、高千穂峰】を望め、丘の下には大淀川が縫う市街地が広がる。

大淀川は宮崎平野を潤す大河。同神社の由緒はこう書く。
〈 実に皇居跡に相応しい【聖地】 〉

宮崎平野(奥が北)
また、同神社の黒岩昭彦権宮司はこう話す。
「付近には古墳も多く、古代から集落ができていたことがわかります。【稲作に適した土地】で、大農園をつくれたことが、ここに皇居を構えられた理由でしょう」



こちらもご参照♥
↓
☆斎庭の稲穂 神々も働いておられる日本
古事記の記述によると、皇宮屋でイハレビコは30年間、政(まつりごと)を行った。その内容を伝えるものは残っていないが、【皇居があったことを端的に示すのは「宮崎」という地名】である。
「【宮の崎とは、宮殿の前とか宮の前とかを示す名前】で、平安時代の古文書には『宮崎の郡(こおり)』という表現が頻繁に出てくる。古代にはすでに、重要拠点としての認識があった土地だったことは間違いありません」
宮崎県立看護大の大館真晴准教授はそう話す。大館氏はさらに、地名起源の視点からイハレビコの存在感の大きさを指摘する。
「日本には、神様や古人がその土地に関係深いことを地名起源にする場所が多い。神様が産湯を使った、井戸を開いた、お座りになったといった故事を地名の由来とするもので、【九州では神武天皇と景行天皇にまつわるものが非常に多い】」

12代景行天皇は【ヤマトタケルノミコト】の父で、自らも7年間、九州平定のために西下した、と日本書紀が書く天皇である。
「こうした地名起源がブームになったのは、朝廷が全国に風土記の編纂を命じた奈良時代」
と大館氏は言う。
古事記が編纂されたのとほぼ同時期で、当時の九州の知識層にはすでに、【神武天皇が権威ある存在として認識】されていたことがわかる。

「何(いず)れの地(ところ)に坐(いま)さば、天の下の政を平らけく聞こし看(め)さむ。なほ東に行かむと思ふ」
古事記中巻はイハレビコが高千穂宮で兄に、こう相談する場面から始まる。どの地をよりどころとすれば、天下の政治を無事に行えるか悩み、もっと東に行きたいと決意を打ち明けるのだ。
かくして日向をたった、と古事記は書く。【神武東征の始まり】である。

月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」
「米は多くの人口を支える食物。それをつくる稲作は人々の協力なくしては行えない。稲作を普及させてムラ社会を完成させたイハレビコは、その過程で政治や軍事の知識も重ねた。そのことが東征を決意させたのではないでしょうか」

神武東征ルート

天壌無窮
こちらもご参照♥
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☆天壌無窮
黒岩氏はそう推測する。』

いかがでしょうか?
私たち日本人の祖先は、青森県の三内丸山遺跡に代表されるように、太古の昔から、高度な文明の技術を持っていました。

青森県 三内丸山遺跡
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆悠久の日本 ~ 西洋人なら笑いとばしたくなる話
こちらもご参照♥
↓
☆縄文集落の発達 岡田康博
そして、その当時(三内丸山遺跡は、縄文時代前期中葉から中期末葉)の人口分布は、東日本が中心でした♥


で、この三内丸山遺跡に続く時代、今から4000年ほど前の縄文時代後期に、南九州の宮崎県内に、西日本で最大規模の「東日本風集落」が出現します♥

それが、「本野原遺跡」(もとのばるいせき)です♥

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆関東風の遺跡が九州に存在するナゾ ~ 西日本最大級・宮崎県の「本野原遺跡」
つまり、東日本にいた縄文人が、南九州の宮崎に渡ったんです♥

そして、この宮崎から、『古事記』や『日本書紀』に描かれる日本神話に繋がっていくんです♥
『古事記』によりますと、まず、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が成られます。これが、私たち日本の神話に最初に出てくる神様です♥
こちらもご参照♥
↓
☆あなたの国で、最初の神様はどなたですか? ~ 天之御中主神と神道指令
天之御中主神に続き、性別の区別のない(=独り神)神々が成られ、その五柱の神を「別天津神(ことあまつがみ)」と呼びます♥
そのあとも、神々が成り、「神世七代(かみよのななよ)」の最後に、ヒトの姿をした、伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が成られます。


「 別天神(ことあまつかみ)と神世七代(かみよのななよ)が成った物語の次に、伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)による「国生み」と「神生み」の物語に移ります
天つ神(あまつかみ)[高天原(たかまのはら)の神全体のこと]はその総意によって、神世七代のうち、最後に成った伊耶那岐神と伊耶那美神に、下界の海をお指し示しになり「この漂っている国を修め理(つく)り固め成せ」と命ぜられ、美しい玉で飾られた天の沼矛(あめのぬぼこ)を賜い、ご委任なさいました。

伊耶那岐神と伊耶那美神は、・・・海に矛を下し、海水を「こおろ、こおろ」と掻き鳴らして矛を引き上げましたすると、その先から海水がしたたり落ち、塩が固まって島ができました・・・その後、二柱(ふたはしら)の神はこの島を拠点に、次々と島をお生みになります・・・」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆『古事記』 最大の難関♥
こうして、二柱の神がお生みになられた島々が、「淡路島」、「四国」、「隠岐」、「九州」、「壱岐島」、「対馬」、「佐渡島」、「畿内」です。

この地図の赤い丸で囲っているところが、「国生み」によって生まれた場所です♥
お気付きでしょうか?縄文時代中期から後期にかけての人口が集中していた地域が含まれていませんね♥
つまり、東日本の縄文人が、人口の少ない土地や海上交通・交易・軍事の要衝を抑えていく、その歴史の流れを語り伝えているのではないでしょうか♥


そして、このあとに「神生み」のお話、さらに「国譲り」のお話、そして「天孫降臨」のお話へと、物語は続いていきます。
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆フランスに伝わる妖精 メリュジーヌ ~ 日本神話のスゴイところ
日本神話が語り継いでいるのは、東日本を中心にしていた縄文人が、西日本へと移住、その居住範囲を拡大し、やがて天皇を中心とする現代の私たちの日本へと繋がる壮大な物語なんです♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆御存知ですか?古代日本の民族大移動 ~ あさっては『紀元節』の日です
それでは、本日の最後に、このお話を。

「 縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か
縄文人は、東アジアや東南アジアに住み着いた共通の祖先から最も早く枝分かれし、約2万~3万年前には出現していた可能性があるとの研究成果を、総合研究大学院大学などのチームが専門誌に発表した。
人類がアフリカからユーラシア大陸の東方へ進出した際に、縄文人につながる集団が現れたと考えられるという。チームの斎藤成也・総研大教授は「縄文人はユーラシア大陸の他の集団と比べても非常に特異だといえる」としている。
チームは、福島県北部にある三貫地貝塚で発掘された約3000年前の人骨を基に調査した。人骨の奥歯からDNAを抽出し、その配列を解析。東京周辺にいる現代の日本人や中国人、アフリカ人や南米の先住民など世界各地の集団と比べた。
その結果、縄文人は東ユーラシア大陸の集団に近いものの、その中では遺伝子的に大きな差があることが判明。東ユーラシアの中では早い段階で出現したことが分かった。約1万5000年前にアジアからベーリング海峡を渡ったとされる、アメリカ大陸の先住民よりも前に現れたとみられる。」
☆縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か
こちらもご参照♥
↓
☆縄文人の核DNA初解読・東アジア人と大きく特徴異なる・渡来人との混血・日本人と朝鮮人は別人種
詳しくは、リンク先のレポートをお読み頂くといたしまして、今回のゲノム解析の成果を見ていきたいと思います♥

私たちホモ・サピエンスは、アフリカに起源をもっていて、そこから世界へと長い年月をかけて拡散していきました。
そして、今からおよそ4~5万年前に東アジアへ到達します。私たちの日本列島にも、およそ4万年前にヒトが住んでいた事が判明しています♥

ここで、日本人の成り立ちを説明する理論として「二重構造説」というものがあります。

「二重構造説」に基づいた日本列島人の成立ち
これは、日本にいた縄文人と、その後にやってきた渡来民とが混血していき、現代に至る日本人が成り立ってきたというもので、日本列島の北と南の端に位置するアイヌや琉球には、混血の度合いが少ないために、縄文人の遺伝要素が多く残っているとするものです。

現代日本列島人と大陸の東アジア人の比較
この「二重構造説」は、現代日本人のDNAからの推定では成り立っているように“みえる”のですが、それが正しいかどうかを証明するためには、「縄文人そのものの遺伝子の解析が不可欠」なんです♥

そこで、縄文人のゲノム解析を行ったところ、縄文人は東ユーラシアの集団と遺伝的に一番近いことが判明しました♥ この点は、地理的にも近いことから、「当たり前でしょう!」という結果ですね。。。。ところが・・・

世界中の集団と縄文人の比較
今度は、東ユーラシアの集団だけで比較してみますと・・・
私たち現代の日本人は、大陸集団と比較して、より縄文人に近縁であることが判明したんです♥

東ユーラシアの集団と縄文人の比較
さらに、私たち現代日本人が、縄文人のDNAを受け継いでいることも証明されたんです♥

では、私たちの日本列島にやってきた縄文人は、何処からやってきたのでしょう?

これまでは、縄文人の起源は、「東南アジア」あるいは「北東アジア」のいずれか、だと考えられていました。
ところが、縄文人はいずれにも属さず、東アジア人の共通祖先から分岐したという結論が導き出されたんです♥

つまり縄文人は、これまで考えられていたより古い時代に、他の東アジア人集団から孤立し、独自の進化をとげた集団である可能性が出てきたんです♥

世界の現代人と縄文人の系統関係
ここまでのお話は、今回発表された論文の前までのお話です♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆JT 生命誌ジャーナル 「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」 神澤秀明(国立科学博物館)
このあとのお話は、明日、書かせて頂きますね♥
続きは次回に♥
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