2016-09-28 (Wed)

霧島錦江湾国立公園(きりしまきんこうわんこくりつこうえん)は、鹿児島県(鹿児島市、指宿市、垂水市、霧島市、姶良市、湧水町、南大隅町)と宮崎県(都城市、小林市、えびの市、高原町)の8市3町にまたがる南九州の主要な景勝地に設けられた国立公園。
1934年(昭和9年)3月16日、霧島山周辺の東西約22km、面積202km2の領域が霧島国立公園として、瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園(現雲仙天草国立公園)と共に日本で最初の国立公園に指定された。

☆環境省 「霧島錦江湾国立公園」
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 〈 年(みとし)十五にして、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ 〉
生まれながらにして明達(さか)しく、意かたく……とカムヤマトイハレビコノミコトの資質を書く日本書紀はすぐに、15歳以後の様子に筆を移す。古事記はいきなり、イハレビコが兄たちと東征の謀(はかりごと)を行うくだりを記す。つまり【記紀は、イハレビコの幼少時に全く触れていない】のだ。

〈 狭野(さの)一帯の山野を駆けめぐって遊ばれたと伝えられる 〉
【イハレビコの生誕地】の有力候補、宮崎県高原町(たかはるちょう)の【皇子原神社(おうじばるじんじゃ)】の前にある碑「神話史跡」にはそう記されている。

☆高原町観光協会HP
【イハレビコの幼名、狭野尊(さののみこと)の由来とされる狭野神社】の伝承では、イハレビコは15歳まで、高千穂峰東麓のこの地で過ごした。




☆高原町観光協会HP

【霧島火山帯最大の火口湖「御池(みいけ)」】にもイハレビコゆかりの【「皇子港(おうじみなと)」という伝承地】があり、イハレビコが泳いで遊んだと伝えられる。

御池
この地からは高千穂峰が正面に望める。【御池は今、130種類の野鳥が生息するバードウォッチングの聖地】。同町に残る伝承は、豊かな自然の中で伸び伸びと育ったイハレビコの幼少期を想像させる。



☆なっぷ 御池野鳥の森公園キャンプ村
「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂国(みずほのくに)は我が御子の知らす国」
古事記では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がこう言ってオオクニヌシノミコトに国譲りさせ、孫ニニギノミコトを高千穂峰に天下らせた。

天壌無窮
こちらもご参照♥
↓
☆天壌無窮
ここに語られる国は、永遠にみずみずしい稲穂の実る国という意味の最大の美称である。シラス台地が広がる霧島周辺は広大な水田には適していないが、狭野神社の松坂督亮宮司はこう話す。
「宮崎平野を潤す【大淀川の源流で水が豊富な狭野一帯では稲作が可能】でした。狭野という地名は、【稲作ができる貴重な土地】という意味。狭野尊は水のある地を探して田を作ったと想像できます」



こちらもご参照♥
↓
☆斎庭の稲穂 神々も働いておられる日本
【狭野一帯を稲作先進地と考える考古学的な根拠もある】。

稲作はもともと、中国の長江流域で発生し、北九州に最初に伝来した【とされてきた】が、【宮崎県の都城市やえびの市など高原町周辺の遺跡で近年、稲を収穫するための石包丁や土器にこびりついた籾殻(もみがら)、国内最古級の水田跡など、初期稲作の痕跡が次々と発見された】のだ。

宮崎県埋葬文化センター元所長の北郷泰道氏はこう指摘する。
「朝鮮半島や南西諸島とも交流があった南九州は、【北九州とは別ルートで稲作が伝来】した可能性があります」

皇子原の「神話史跡」の碑には続きがある。
〈 やがて成人になられ、高千穂峰を仰ぎつつ将来の国造りの構想を練り、郷土高原を出発した 〉
高原町内には構想を練ったという伝承地【「宮の宇都(うと)」】もある。父、【ウガヤフキアエズノミコトの皇居】と伝わる。
「【稲作を広めることを話し合った】のでしょう。【稲作が普及することで日本は豊かな水穂国となった】」
松坂宮司は、種籾(たねもみ)を手に高原を後にするイハレビコの姿を想像している。』

いかがでしょうか?
連日に渡って書かせて頂いておりますが、戦後の「社会科」教育によって、私たちの日本の歴史を歪めようとしている連中がいます♥
その典型例が、池上彰です♥



詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆新しい祝日 山の日(8月11日)の楽しみ方 ~ 池上彰の本がお勧めできないワケ
☆池上彰の本を読んではいけない理由 ~ 教科書って、本当に正しいの?
☆池上彰が知らない「神武東征」 ~ 教科書と「古事記」や「日本書紀」のどっちが正しいのでしょう? ~
☆歴史を歪める「ハリウッド」
そういった連中は、私たちの日本は、「朝鮮半島経由で大陸から技術や文化を学んだ」みたいな「一方通行」的な思考に凝り固まっています♥

それは、「学校でそう習ったから」からなんですけど♥
私たちの日本の「記紀」が伝えるところでは、太陽の女神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、「斎庭(ゆにわ)の稲穂」を、孫のニニギノミコトに授け、稲作を振興して国を栄えさせよって、高天原から天下らせたという流れになっています。

これを否定したい池上彰みたいな連中は、どうしても、弥生時代に稲作が伝わり、始まったとしたいんです♥
ところが、縄文時代にすでに稲作が行われていた事を示す「水田跡」が、次々と発見されるようになりました♥

「 本書は、「県営担い手育成基盤整備事業横市地区」に伴い、受託事業として都城市教育委員会が発掘調査を実施した坂元A・B遺跡の報告書です。
都城市の横市地区では、県営担い手育成基盤整備事業(現在は県営経営体育成基盤整備事業に移行)に先立つ埋蔵文化財の発掘調査を平成8年度から継続的に実施しており、これまでにも数々の成果を報告しています。
本書に収載しました坂元A遺跡では国内最古級の水田跡が発見され、坂元B遺跡ではこれまで当地域において実態が不鮮明であった島津荘立荘期の集落跡などが見つかるなど、多くの貴重な成果が得られました。その一端については市の広報誌や新聞・テレビを通じて機会あるごとにご紹介してきたところです。
また、平成12年度に実施しました遺跡の見学会におきましては多数の方々に現地にお越しいただき、古代のロマンに角虫れていただくことができました。
いまだけがすべてという風潮が高まっている昨今ですが、過去を知ることによって先人の知恵や後の世代のためにしてくれた配慮を理解することができますし、文化財を後世へ伝えることは、過去と未来のかけはしを作ることにもなります。都城盆地で生活していく都城市民は一体となって、先人が守り育てたこの地域の文化。財産を継承し、将来に引き継いでいく費務があり、そのことが今後予想される厳しい地域間競争を生き抜く原動力にもつながっていくことになると思われます。
本書の刊行によって、こうした地域の文化財に対する理解と認識がますます深くなることを願うとともに、今回の成果が学術研究の発展に少しでも寄与できれば幸いです。最後になりましたが、発掘調査に従事していただいた市民の皆様をはじめ、関係各機関の方々には多大なご理解ご協力をいただきました。心から感謝の意を表します。 2006年3月」

☆全国遺跡報告総覧
こちらのブログもご参照♥
↓
☆鴨着く島 南九州最古の水田跡
この九州南部の宮崎県で発見された「水田跡」は、縄文時代晩期(紀元前1300年以降)のものと考えられています。
「学校でそう習ったから」というようなヒトは、縄文時代は狩猟採集の時代で、弥生時代は一歩進んだ農耕の時代、みたいに「暗記」していますが、すでに「陳腐な知識」となっています♥

「 「農耕」の定義は非常に複雑であり、厳密に使用するとイメージを損ねるため、そのまま使用している。教科書で習った、縄文時代は狩猟採集社会であり、弥生時代以降に農耕社会へ突入するという「常識」は、本書では「非常識」と考えている。
その象徴の一つが「ダイズ」である。ダイズは弥生時代に稲作とともに中国大陸から渡ってきた作物と、つい最近まで農学や考古学で信じられてきたものである。

しかし、これを縄文人たちがおよそ6000~7000年前に栽培し始め、しかもそれは中部高地や西関東という、東日本で始まっていたのである。さらに、縄文人たちの植物栽培はより古い時代にさかのぼる可能性もでてきた。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆コクゾウムシが打ち破る「常識」 ~ 縄文時代の「農耕」の証明

青森県 三内丸山遺跡
「 三内丸山遺跡からは、1000棟以上の住居の跡が見つかった。35棟の高床式倉庫、10棟以上の大型建物の跡もあった。1500点の土偶、一万点以上の土器、その他にも高度な技術でつくられたさまざまな木製品、貝の装飾品、動物の骨や角でつくった釣り針などが出土している。そのなかには、ヒスイの加工品も含まれている。

三内丸山遺跡出土 ヒスイの大珠
ヒスイは、鋼鉄よりも硬い。加工に高い技術が求められる。世界史のなかで、古代にマヤ文明と日本文明だけが、ヒスイの加工技術を持っていたといわれる。
ヒスイの加工品は、三内丸山遺跡のほかにも、日本各地の遺跡から出土している。そのなかの一つである「ヒスイの大珠」は、驚くべきことに推定約6000年前のもので、世界最古の例となっている。

天神遺跡出土 ヒスイの大珠 (山梨県北杜市大泉町)
日本は太古の昔から、高度な文明の技術を持っていた。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆悠久の日本 ~ 西洋人なら笑いとばしたくなる話
このように、縄文時代は狩猟採集の時代と「学校でそう習う」時代に、「農耕」が行われていた事が判明しています♥
そして、その中心地は日本の東側にありました。人口分布でみても、東の方が多かったんです♥


「 三内丸山遺跡は、縄文時代前期中葉…から中期末葉…にかけて,長期間継続した定住生活が営まれた拠点的大集落跡である。…
調査の結果、大規模な拠点的集落跡でしかも集落を構成する各施設が一定の地点に構築されており、空間利用が規制された計画的な集落づくりが行われていた可能性が高いと考えられる。また、集落を構成する各施設も、住居・大型住居・成人用土坑墓・小児用甕棺墓・掘立柱建物・盛土・廃棄ブロック・粘土採掘穴など多種にわたる。遺物の出土量は膨大で大量の土器・石器のほかに、低湿地から骨角器・木製品や動・植物遺体が大量に、しかも良好な状態で出土し、当時の自然環境や生業を具体的に復元することが可能である。さらにヒスイ・號珀・黒曜石など他地域から搬入されたものも出土している。…
大量の動・植物遺体が出土した。
この中で特に注目されるのは、ムササビ・ノウサギが多く、シカ・イノシシなどの大型哺乳類が少ないことである。これは縄文時代全般と比較して特異な状況…のことは骨角器にも反映し、本来は廃棄される部位の骨まで製品として徹底利用されており、個体数が少なかったことを示している。調査状況からシカ・イノシシだけがまったく別の地点に廃棄されたとは考えにくく、やはりあまり捕獲されなかったと考えられる。道南地方に多く出土するオットセイもやはり少ない。鳥類ではガン・カモ類が主体である。カモが多いことから、かつて集落周辺には沼があったことが指摘されている。数は少ないがアビ・アホウドリなどの広範囲に回遊する海鳥も捕獲されている。魚類ではマダイ・ヒラメ・カツオ・ブリ・サメ・ニシンなどが多く出土している。現在よりも温暖であったためか、マダイ・カツオ・ブリなどの暖流系の魚類が目立つ。しかし、寒流系のニシン・タラなども出土し、両者の混在が認められる。年間を通しての漁労活動が推察される。また陸奥湾に面しているにもかかわらず、以外と外洋系の魚類が多い。今後より微細な魚骨の分析が進めば,若干傾向が変わる可能性もある。なお、縄文時代に重要な食料資源のひとつと考えられていたサケの出土は少ない。…
種子で大量に出土しているものにオニグルミ・クリ・ヤマブドウ・ミズキ・ニワトコがある。オニグルミの大部分は、破砕された状態で出土していることから、人為的に利用・廃棄したと考えられる。クリも同様である。花粉分析の結果を見ても、その産出状況から一時期集落の周囲は大半がクリ林であったことが推定される。…ほかに栽培植物といわれるヒョウタン・ゴボウ・マメ類・アカザや、その可能性が高いメロンの仲間も出土している。…前期中葉の土壌と土器の胎土中からイヌビエと考えられるイネ科のプラント・オパールが検出されており、さらに水洗選別によって実際に炭化したヒエと考えられる種子が発見されている。…
三内丸山遺跡から出土した動・植物遺体の状況から、大規模で活発な食料調達のシステムが推定される。魚類は内湾にととまらず、外洋まで含めた広範囲にわたって漁携活動を行い、夏以外の春・秋にも漁労は行っていたことがわかる。当然保存食の存在も考えられる。動物性食料ではムササビ・ノウサギの小動物ではあまり有効とはいえず、むしろ毛皮などの利用を考える必要がある。…大型動物がいないにもかかわらず、集落は拡大傾向を示している。…このことは本集落の人々が動物性食料に依存しなくとも,活動を継続・発展できたことを証明しているのである。今後、魚類が哺乳類の補完可能かどうか検討する必要がある。本集落ではむしろ植物性食料に依存していた可能性が高い。種実や花粉分析の結果から、縄文人がかなり積極的に、しかも大規模に周辺の森林をつくりかえ、クリ林にしていたことが明らかとなっている。その際には食料として有用なコナラ・ナラ林までもクリ林にしてしまっているのである。…ほかの遺跡に比べて一年生草本が多く産出することから、ヒエを含めた草本種実食の可能性…三内丸山の縄文人の植物食が木本から草本へと重点を移していたとすると、農耕社会への入り口に立っていたのかもしれない…
出土した動・植物遺体や花粉分析の結果から、三内丸山の縄文人が主に狩猟・採集によって食料を調達しながらも、その活動は想像以上に広範囲にわたっていたことが推定される。さらに栽培を行い、そして積極的に自然に働きかけを行い、有用なクリ林をつくりあげた可能性が高い。…」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆縄文集落の発達 岡田康博

さて、この三内丸山遺跡に続く時代、今から4000年ほど前の縄文時代後期に、実は南九州の宮崎県内に、西日本で最大規模の「東日本風集落」が出現します♥

それが、「本野原遺跡」(もとのばるいせき)です♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆関東風の遺跡が九州に存在するナゾ ~ 西日本最大級・宮崎県の「本野原遺跡」
東日本にいた縄文人が、南九州の宮崎に渡ったんです♥

そして、この宮崎から、『古事記』や『日本書紀』に描かれる日本神話に繋がっていくんです♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆フランスに伝わる妖精 メリュジーヌ ~ 日本神話のスゴイところ
長くなりましたので、昨日のこの続き(↓)は、明日にさせて頂きます♥

「 縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か
縄文人は、東アジアや東南アジアに住み着いた共通の祖先から最も早く枝分かれし、約2万~3万年前には出現していた可能性があるとの研究成果を、総合研究大学院大学などのチームが専門誌に発表した。
人類がアフリカからユーラシア大陸の東方へ進出した際に、縄文人につながる集団が現れたと考えられるという。チームの斎藤成也・総研大教授は「縄文人はユーラシア大陸の他の集団と比べても非常に特異だといえる」としている。
チームは、福島県北部にある三貫地貝塚で発掘された約3000年前の人骨を基に調査した。人骨の奥歯からDNAを抽出し、その配列を解析。東京周辺にいる現代の日本人や中国人、アフリカ人や南米の先住民など世界各地の集団と比べた。
その結果、縄文人は東ユーラシア大陸の集団に近いものの、その中では遺伝子的に大きな差があることが判明。東ユーラシアの中では早い段階で出現したことが分かった。約1万5000年前にアジアからベーリング海峡を渡ったとされる、アメリカ大陸の先住民よりも前に現れたとみられる。」
☆縄文人はアジアの“古株” 2万~3万年前には出現か
続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

- 関連記事
-
- 没後20年 司馬遼太郎の「デタラメ」が暴かれる ~ 世界的名将を祀る乃木神社 (2016/10/18)
- 司馬遼太郎の書いたもので、歴史を学ぶ「愚」 ~ 名将 乃木希典 (2016/10/17)
- 現存する唯一の古代国家 (2016/10/07)
- 丸メガネは、ペテン師なんでしょ? (2016/10/06)
- 四大文明 ~ 中学校の教科書に載っている「世界に通用しない過去の学説」 (2016/10/05)
- 脱法ハーフと縄文人 (2016/09/30)
- 皇居があったことを端的にしめす地名 ~ 「宮崎」 (2016/09/29)
- 日本で最初の国立公園 ~ イハレビコゆかりの地 (2016/09/28)
- 日本の王道を描いた物語 (2016/09/27)
- 池上彰は知らないらしい ~ 現代日本を生んだ史上最大の偉業 (2016/09/26)
- 縄文時代を劣位、弥生時代を優位と考えるような「危険思想」 (2016/08/26)
- 縄文人と弥生人 (2016/08/25)
- アイヌが注目されていた理由 ~ 人種と民族 (2016/08/24)
- モース食人説のウソ ~ 縄文時代って何? (2016/08/23)
- ダーウィンの番犬 トマス・ヘンリー・ハクスリー ~ 日本の石器時代 (2016/08/22)