2016-09-12 (Mon)

大本営(だいほんえい)は、日清戦争から大東亜戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である。天皇陛下の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令=大陸命、大本営海軍部命令=大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。
日清戦争と日露戦争で設置され、それぞれ終戦後に解散した。支那事変では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま、大東亜戦争終戦まで存続した。連合国からは「英語: Imperial General Headquarters」と呼ばれた。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 1945年7月16日、ニューメキシコの砂漠で、プルトニウム型核爆弾の試験として、世界で初めて核爆発を実施した。それはTNT火薬19キロトンに相当する威力で炸裂した。

トリニティ実験場(赤色の矢印)

トリニティ実験での核爆発を捉えた数少ないカラー写真の一枚
その10日後の7月26日に、大日本帝国に対して、第二次世界大戦の終結に関する13条の勧告から成る【ポツダム宣言】が発せられた。
ガン型のウラン爆弾は一個のみが製造され、翌8月6日に広島に投下された。プルトニウム型爆弾は二個製造されて、ひとつが、同月9日に長崎に投下され炸裂した。

広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。
8月6日午前0時37分、気象観測機のB29の3機がマリアナ諸島テニアン島を離陸した。3機の向かう先は、それぞれ広島、小倉、長崎である。0時51分には予備機が硫黄島へ向かった。

日本に向かうB-29
続いて1時27分、核弾頭リトルボーイ(Mkー1)を搭載した米軍爆撃機B29【エノラ・ゲイ】がマリアナ諸島テニアン島を離陸した。その後、2分毎の間隔で、続く2機のB29が、同島から飛び立った。核爆発の威力の記録を行う科学観測機と写真撮影機であった。

広島出撃に際し機長席から手を振るポール・ティベッツ大佐
7時過ぎ、気象観測機B29の1機が広島上空に到達し、テニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。
広島上空の雲が少なく、科学撮影などに適していたためと考えられる。つまり【戦闘行為というよりも、米国にとっては世界最初の核弾頭を軍事的に使用した実験だった】のである。

同日午前8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、【8時10分頃に警戒警報が発令】された。

海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府庁舎)
陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、【8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令】された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、【呉地区に空襲警報が発令】された。高射砲陣地が戦闘配置し、【対空戦闘用意の態勢に移行】して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また【呉鎮守府飛渡瀬砲台では155ミリメートル高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた】。

中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケ・ハ(警戒警報・発令)」を受け取り、学徒動員たちが電話交換機を使って、宇品高射砲大隊、吉島飛行場、四国軍管区司令部、各地の陸軍司令部、そして報道機関に【一斉に電話連絡しようとした瞬間、核弾頭が炸裂】した。したがって、【中国軍管区司令部からの警戒警報は、各方面に伝達されることはなかった】。』

いかがでしょうか?
さて、先日書かせて頂きました事(→☆マッカーサー参謀の戦法 ~ ペリリュー島、硫黄島、そして沖縄)の続きになりますが、広島の原爆投下について考える上で、以下の4点のポイントがありました。
①日本軍は、原爆投下のはるか前から、謎のB-29部隊、「エノラ・ゲイ」の部隊の存在を把握してました。
②しかし、堀参謀らが警報を出していたもかかわらず、当時、空襲警報はまったく出なかった。
③しかも、当日、日本軍は、日本上空に侵入した「エノラ・ゲイ」を捉えていました。
④では、なぜ、広島には空襲警報が出されず、また射撃命令も下されなかったのか。

まず、③と④についてですが、「エノラ・ゲイ」を補足していたという点につきましては、本文中の記載に
「甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令」
と、ありますように、各監視哨から呉海軍鎮守府に連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令されていることからも判りますし、
「呉鎮守府飛渡瀬砲台では155ミリメートル高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた」
ともございますように、「射撃命令」が出されていなかったことも判ります。
少なくとも、海軍は撃墜命令を発していないことが判ります♥
では、陸軍はどうしていたのでしょうか?

本文中にもありましたように、警戒警報を発令しようとする、まさにその瞬間に、「核弾頭が炸裂」したんです。間に合わなかったわけです。
ちなみに、陸軍中国軍管区司令部は、どこにあったと思われますでしょうか?
原爆の爆心地からの距離790メートル、現在の広島城址公園内の広島護国神社境内に位置していました。

赤の矩形(くけい)が中国軍管区司令部跡の位置

広島護国神社内 中国軍管区司令部跡 (入り口と原爆被災説明板)
原爆投下の前後の様子を比べてみますと・・・

広島市中央部 (原爆投下前)

広島市中央部 (原爆投下後)
右上に広島城がありますが、そこを拡大してみます。

広島城本丸周辺 (原爆投下前)

広島城本丸周辺 (原爆投下後)
跡形も無くなってしまっていることが、ご理解いただけましたでしょうか。
折角ですので、もうひとつ余談になりますが、この広島に「大本営」が置かれていた事をご存知でしょうか?

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
「 広島大本営(ひろしまだいほんえい)は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝国軍の最高統帥機関である大本営である。

日清軍艦海戦之図
大本営は1893年(明治26年)5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月1日に皇居内に移った。
その後、当時東京を起点とする鉄道網の西端であったこと(広島駅)、また大型船が運用出来る港(宇品港(現・広島港))が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった。
9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。このため、行宮の役割も果たした。明治天皇は日清講和条約(下関条約)調印後の1895年(明治28年)5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896年(明治29年)4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。

広島大本営(写真右)。左上に広島城天守が見える。
この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された(議事堂は西練兵場内に建設された)。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である。」
さて、お話を元に戻しまして、陸軍が命令を出す時間的余裕がなかったことが判りましたが、海軍はどうだったのでしょうか?

実は、呉の海軍にも、全く余裕が無かったんです。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
「 呉軍港空襲(くれぐんこうくうしゅう)は、大東亜戦争中、1945年の3月19日、7月24日、7月25日、7月28日、7月29日など複数回に渡って行われたアメリカ海軍を中心とした連合国軍空母機動部隊航空隊、及び、沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍による呉軍港および瀬戸内海西部への空襲作戦。なお、この空襲とは別に、1945年5月5日に隣接地域にある広工廠空襲、6月22日に軍港内の呉工廠造兵部空襲、呉市街地が7月1日深夜から2日未明にかけて戦略爆撃を受けている。

空襲により横転着底した天城
3月19日はアメリカ海軍のマーク・ミッチャー提督の第58機動部隊約350機、7月両日はウィリアム・ハルゼー提督率いる第38機動部隊約950機による空襲。日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行ったがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けた。

大破転覆した大淀
3月19日の第58機動部隊に対しては松山基地の第三四三海軍航空隊が呉を攻撃中のアメリカ海軍艦載機を迎撃し58機(アメリカ海軍側の記録では14機)を撃墜した。更に、銀河1機が高知県沖に接近していたアメリカ海軍空母フランクリンを攻撃し大破させ、神風特攻により護衛空母及び駆逐艦1隻に損傷を与えた。7月24日の空襲では第三四三海軍航空隊が再び迎撃に向かい16機を撃墜。

大破着底した榛名
一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。連合国軍にも大きな損失を与えたものの、工廠施設が破壊され、戦略爆撃の一環として瀬戸内海の要所にB-29から機雷を投下されたことから、呉軍港は母港としての機能を完全に失った。」

江田島小用沖で爆撃を受ける榛名(1945年7月28日)
それでは、問題は「どこにあった」のでしょうか?
広島の原爆投下について考える上での4点のポイントを、もう一度確認しましょう。
①日本軍は、原爆投下のはるか前から、謎のB-29部隊、「エノラ・ゲイ」の部隊の存在を把握してました。
②しかし、堀参謀らが警報を出していたもかかわらず、当時、空襲警報はまったく出なかった。
③しかも、当日、日本軍は、日本上空に侵入した「エノラ・ゲイ」を捉えていました。
④では、なぜ、広島には空襲警報が出されず、また射撃命令も下されなかったのか。
③と④は、時間的余裕も、物理的余裕も、実際にはほとんどないことが理解できました♥
ですから、問題点は、①と②に絞られます♥
①日本軍は、原爆投下のはるか前から、謎のB-29部隊、「エノラ・ゲイ」の部隊の存在を把握してました。
②しかし、堀参謀らが警報を出していたもかかわらず、当時、空襲警報はまったく出なかった。
このことについて、これまでの「政府」」span>や、学校教育や、メディアなど、もちろんテレビだけではなく「本」も含まれますけれども、何一つ「反省」して「対策」を講じようとしていませんね♥
つまり、私たち「日本国民すべて」が、何も「反省」していない、何も「対策」を講じていない、そんな「愚か」な状況にあるんです♥
そこのところを、私たちは、もっと真剣に考えていかなくてはいけませんね!

長くなりましたので、本日は、これまで♥
続きは次回に♥
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