2016-09-01 (Thu)

あり‐がた・い【有(り)難い】
[形][文]ありがた・し[ク]《あることがむずかしい、の意から》
1 人の好意などに対して、めったにないことと感謝するさま。「―・い助言」「―・く頂戴する」
2 都合よく事が進んでうれしく思うさま。「―・いことに雨がやんだ」「社にとっては―・くない状況だ」
3 またとないくらい尊い。もったいない。「―・い仏様」「―・いお言葉」
4 存在しがたい。珍しい。めったにない。

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 現在の暦では正月元旦は冬の最中で、「新年」という実感には乏しいが、旧暦では節分の頃で、寒さはまだ厳しいが、少しずつ日が長くなり、春の訪れが感じられる時期である。

駿河町越後屋正月風景図(作者不詳)
旧暦は月の満ち欠けに基づく太陰暦なので、大晦日は闇夜だが、元日の夜には細い弓のような「新月」が現れ、新しい月が始まる。

その闇夜が明ける卯の刻(午前6時)に、【歳神様(としがみさま)】が東の方からやってくる。歳神様は正月様とも呼ばれるが、【祖先の御霊(みたま)】である。

我が国では、死者が子孫を見捨てて、自分一人、天国や西方浄土に行ってしまうとは考えなかった。【祖先の霊は子孫をいつも見守ってくれている一家の守護神】であり、同時に【豊作をもたらす穀霊(こくれい)】でもあった。

歳神様のお陰で、一家が一年を無事に過ごせたことに感謝し、また新しい年も幸福に過ごせるようにお祈りする。年末から年始にかけて様々な行事があるが、それらのほとんどは、【歳神様をお迎えするためのもの】なのである。

その由来を辿ってみれば、我々の先祖が、一つひとつの行事にどのような祈りを込めてきたのか、思い出すことができるだろう。
年末には親やお世話になった人々に【お歳暮】を贈る。

歳暮とは、文字通り「歳の暮れ」を指すが、もともとは、【歳の暮れになって歳神様に米、餅、魚などをお供えしたのが始まり】だった。それが都会に出て帰省できない子供や遠方の親戚が、【本家の祭壇にお供えしてもらうよう、供物(くもつ)を贈る】ようになり、それとともに【両親の長寿を願った】のが、【お歳暮という習慣に変わっていった】。

お歳暮として塩ザケや塩ブリが好まれたが、これらは「年取り肴(さかな)」とも呼ばれ、年越しの食膳には必ず出されていたものである。長期保存ができる点も重宝がられた。
年末には餅つきをして鏡餅を作る。【鏡餅も歳神様への供え物であり、またご降臨された歳神様が家の中で鎮座される場所】だった。

もともと餅は神様に供える神聖な食べ物と考えられていた。
鏡餅と呼ばれるのは、昔の鏡が円形だったからで、丸い形は神の御霊を象徴している。大小二つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表して、月日をめでたく重ねる、あるいは、福徳を重ねるという意味が込められているようだ。』

いかがでしょうか?
私たち日本の暦が変わったのは、明治時代のことでした。
「 農耕民が太陽暦を使うことの無理…
日本でも明治5年12月から、それまで使っていた太陰暦から太陽暦に切り換えて、西洋歴の傘下に入ってしまった。そもそも太陰暦は農耕民にとって都合がよく、太陽暦は牧畜民族に都合よくできている。それにもかかわらず、それが文明の進歩だと思い込んで、少しも疑問を感じないできてしまった。
太陽暦となると、元旦はまだ真冬のさなかで、草木もまだ芽を出していない。「初春」でも「新春」でもないのだ。日本の真の初春は2月4日頃の「立春」が元旦でなければならない。その前日が冬と春を分ける「節分」なのである。その頃になると、草木も芽を出し、初めて「お芽(め)でとう」がぴったりとなるのである。」

「 …7月7日の七夕をお星様のお祭りとしてきたが、この頃は梅雨の真っ最中で、めったに星をおがむことができない。
昔の七夕は8月7日の仙台の七夕あたりが正しく、この頃には夜空の星が鮮やかに輝く。また月の半ばの十五夜を満月と決めていた太陰暦が太陽暦になると、満月の十五夜お月様と暦とが、関係なくなってしまった。日本の農耕歴では、八十八夜の別れ霜も、二百十日の台風の日も、立春を基準に決められた農民の知恵であった。
…また、戦前までは年齢の数え方もすべて「数え年」で、元旦には国民一斉に一つ年を加え、新年に生まれた子はすべて丑歳、猿歳といった同じ干支を戴いて、お互いに同年のよしみを喜び合ったものなのである。それが、戦後、満年齢に統一され、個人個人で皆、年取りが違って、バラバラになってしまった。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆年賀状に書かれている、『春』や『おめでとう』の本当の意味♥
☆『七夕』に星が見えない理由♥
このように、それまでの「天保歴」から「グレゴリオ暦」に変更した明治の改暦は、布告から実施までの期間が、たったの1カ月という突然のものでしたが、政府の懐事情も関係していました。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 日本では、明治5年(1872年)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」では、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦、明治の改暦)。
この布告は年も押し詰まった同年11月9日(1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している。
これほど急な新暦導入は、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる。」
という感じで、なんだか読んでいると、「それって、御上の都合じゃん!」ってなっちゃいそうですが、実は、そんな単純な事ではなかったんです♥
現代の私たち日本の通貨「円」が世に生まれたのが、この前年の明治5年(1872年)でした。
「 万延小判(まんえんこばん)…万延元年(1860年)に発行された江戸時代最後の小判であり、それ以前に世に出た小判と比べて半分程度の大きさで、それだけ金の含有量も少なかった。

この劣悪な小判の発行は当時幕府が財政悪化に直面していたという事情に加えて、安政の開港以来、良質の小判が狡猾な外国商人によって海外に大量に持ち出されていたことに苦慮した幕府官僚が考え出した苦肉の策であった。
小型で金の含有量が少ない小判なら、海外に持ち出して銀貨に交換しようとしてもかつてのような儲けが出ない。この小判の発行でようやく日本からの小判の流出は収まった。
万延小判の鋳造が終わったのは、慶応3年(1867年)、まさに幕府の倒壊寸前の時であり、坂本龍馬や桂小五郎もあまりに小さいこの小判に驚きながら、日常の費用や討幕のための軍資金として、触れていたことだろう…

万延小判
維新を迎えて国際社会に船出した日本が、さまざまな試行錯誤を経て明治4年(1871年)に発行した新貨幣「円」は、14年後の明治18年(1885年)に「日本銀行券」として姿を変え、わたしたちの日常に息づいている。

一円金貨(明治4年)
維新という日本の世直しを見つめた外国人は、当時の日本に溢れていた形も値打ちも違う多種多様な金貨や銀貨、それに銅銭や鉄銭などの流通に驚いた。さらに、かれらは、江戸や東国では両という名の金貨が主に使われ、大坂を中心とした西国では銀何貫目という目方で価値を示す銀貨が使われていることを不思議に思ったという。
明治維新を成し遂げていく過程で、新政府は財政不如意を乗り切るために紙の金(カネ)である太政官札(だじょうかんさつ)を発行した。それに幕政時代の遺物である全国二百種類の藩札が加わり、お金の混乱は極度に達していた。そこで、新政府は国家統一のためには、まず国際基準に沿った「円」のという名の金貨を発行し、さらに円表示の紙幣である「明治通宝札(めいじつうほうさつ)」を発行していく。」

明治通宝札
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆東の金貨、西の銀貨♥
さて、お話を暦に戻しますと、明治の改歴がなくても、つまり天保歴のままでも、別の大きな問題が生じてしまうんです。それが「2033年問題」です♥
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 旧暦2033年問題(きゅうれき2033ねんもんだい)とは、西暦2033年秋から2034年春にかけて、日本の旧暦の月名が天保暦の暦法で決定できなくなる問題のこと。1844年(天保15年)に天保暦が制定されて以来、このような不都合が生じるのは、2033年秋 - 2034年春が最初である。
日本のカレンダーや暦書などでは、1873年(明治6年)1月1日にグレゴリオ暦が採用された後も、従来用いられた暦である天保暦による日付、いわゆる旧暦を収載することも多い。この天保暦による月名の決め方、特に閏月の置き方(置閏法、ちじゅんほう)は、平山清次によれば次の通り定められている(この規則は天保暦の規定ではなく、1912年(明治45年)に平山によって明文化されたものである)。
1.冬至を含む暦月を11月、春分を含む暦月を2月、夏至を含む暦月を5月、秋分を含む暦月を8月とする。
2.閏月は中気を含まない暦月に置くが、中気を含まない暦月がすべて閏月とはならない。
天保暦では、太陽の運行を参照する定気法によって二十四節気の配置を決め、二十四節気のうちの中気を用いて月名を決めるため、通常はこの方法で問題は生じない。大部分の年では、「秋分を含む暦月」(8月)と「冬至を含む暦月」(11月)の間、および、「冬至を含む暦月」(11月)と「春分を含む暦月」(2月)の間は、2暦月または3暦月(3暦月となった場合には閏月を置く)となるため、月名の決定に問題は起きないからである。しかし、もしこれが1暦月となってしまった場合、月名の決定方法の1を満たすことができなくなり、月名の決定に不都合が生じる。また、1暦月に2つの中気が入った場合も、適用すべき規定がないため、これも月名の決定に不都合である。天保暦のように定気法を採用する太陰太陽暦(月の運行によって日を決め、太陽の運行を参照して調整する暦)の場合、ケプラーの第2法則により、近日点を通過する秋から春にかけて、中気から次の中気までの長さが暦月(朔日から次の朔日の前日まで)より短くなることがしばしば起こるため、このような不都合は実際に生じてしまう。」
ということで、改歴をしてもしなくても、ややこしい問題が存在していたわけです♥
ただし、私たち日本人が考えなければいけないことは、敗戦後に占領軍が行った「日本の11の祝日をすべて変更したこと」です♥ おかしな思想が入り込んだ憲法と同様に、由々しき問題なんです♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本の11の祝日がすべて変更されました ~ SEALDsと北朝鮮を結ぶ線
それでは本日の最後に、こちらの動画をご覧ください♥
歳神様も「ありがたい」存在ですが、私たち日本人にとって「ありがたい」存在、それが「天皇」です♥
毎年毎年、新年を迎えようとしている大晦日。私たち日本人の多くは、楽しいひと時を過ごしていることではないでしょうか?
では、その頃、私たち日本の「天皇」は、一体何をされていらっしゃるのでしょうか?
8/26(金)日下公人「日本出動」第12回 ゲスト:倉山満<テーマ:天皇の孤独>
(1:09:45頃から)

続きは次回に♥
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