2016-07-26 (Tue)

台風の目(たいふうのめ)あるいは熱帯低気圧の目とは、熱帯低気圧(台風、ハリケーン、サイクロンを含む)の雲の渦巻きの中心部にできる、雲のない空洞部分のことである。台風の目の空洞の外壁となる部分は雲が壁状を成し、英語では「eyewall(アイ・ウォール)」と呼び、日本語で「目の壁」あるいは「眼の壁雲」と言われる。この雲の目の外壁は同時に目を囲む台風のそのものの広大な雲の内壁でもある。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 日本の近現代史をめぐる議論が、【あまりにも日本中心】であること。これが本書執筆の動機である。

比較的自立した歴史を歩んできた江戸時代までと異なり、【明治以降の日本は、帝国主義全盛の世界に放り込まれ】、日露戦争以降、列強の一員と認められるようにはなったものの、【米英ソのような本物の帝国主義には遠く及ばない】、二流の地域大国に過ぎなかった。

そのなかで我が国は、唯一の超大国のジュニア・パートナーあるいは「属国」である今日とは違い、【独立独歩のプレーヤーとして行動し、結果的に大敗北を喫した】のである。

にもかかわらず、【歴史学者を含め知識人の間で根強い、戦前日本暗黒史観】によれば、軍国日本が東アジアの平和な秩序を掻き乱し、米英中ソを振り回した挙げ句、最終的に武力制覇を意図したゆえ世界大戦となったとされる。

悪役ながら、【まるで世界史が、少なくともアジアでは、日本を中心に展開したかのようである】。

『続「甘え」の構造』で土居健郎(どいたけお)が指摘しているように、敗戦後の日本人の深いところで衝き動かしていたのは、
「まず記憶に新しい戦争体験の恐怖であり、次に同じことが二度と繰返し起きてほしくないという恐怖であり、また新たに日本に君臨することになった【連合軍司令部に対する恐怖】で」
あった。

暗黒史観は
「実は【何かに対する迎合】であり、それも結局は恐怖の然(しか)らしむるところ」
であって、
「今も、敗戦のショックによるストレスから国民が完全には自由になっていない」。

暗黒史観に対抗する側も、過去の日本への評価が違うだけで、日本中心の議論に終始しがちであることに変わりはない。

そのため、歴史認識をめぐる議論に、残念ながら【日本の来し方に決定的影響をあたえた当時の世界政治に関する海外の研究成果が、あまり反映されない状態】が続いている。

本書では、敗戦がもたらした言葉にならない恐怖を克服し、【歴史認識の鎖国状態を打破】すべく、近代の世界史を考えるうえで、【重要なしかし我が国では見過ごされがちな論点】を、日本に直接関係ないものも含め、取り上げていく。』

いかがでしょうか?
ここで著者が仰っていることのポイントは、戦後に語られる近現代史が、日本を中心に展開したかのような認識で語られているという点です。
中心に存在していたのは、私たちの日本ではなく、「本物の帝国主義」の米英ソであって、そんな中、「独立独歩のプレーヤーとして行動」したものの、「結果的に大敗北を喫した」と。
つまり、「戦争に引き込まれた」のが私たちの日本であって、「戦争に引き込んだ」のが帝国主義の米英ソだったということです♥

1933年 世界地図
「 いまから考えると、西洋諸国を東洋から撤退させたこの大東亜戦争こそ、世界大戦の時代を終結させることにつながったというべきでしょう。ヨーロッパの撤退という、19世紀以来の世界支配の形を完全に変えたのです。アヘン戦争からはじまった東洋における西洋支配は、アメリカを除いて終焉しました。すべて引き込まれた戦争とはいえ、日本は世界を変えたのです。その意味でも、これは太平洋戦争ではなく、大東亜戦争であったのです。
これまで軍部が暴走した戦争と、あたかも引き込まれたことを無視して、日本が能動的に戦争をしかけたような解釈で、戦争の時代が語られてきました。これを変えなくてはなりません。
日本は決して好戦的ではないし、残酷なことを平気で行う民族ではありません。これまでの対外戦争はすべて、日本からしかけたものではない。むろん戦争中は、作戦の中で攻撃的なものはありました。それは戦争ですから当然です。しかし戦争を開始する理由はすべて受け身であったのです。
大東亜戦争をはじめたとき、それをニュースで知った日本国民の大多数は、これをやむを得ない戦争と支持しました。アメリカと戦争をしても、その物量で勝つことは不可能であることは誰しも感じていたことです。しかし負け戦でもしなければならない。ハル・ノートをのむわけにはいきませんでした。むろん、アジアにおける軍事的な体制は、日本が先行していました。飛行機、戦艦などの分野では他国の勢力を圧倒していました。その意味では、戦争は無謀ではなかったのです。しかし長期戦となると別でした。それでもドイツよりも長く持ちこたえたのです。
戦争を避けて、その屈辱の中に生きるよりも、矜持(きょうじ)を保つほうを選んだのです。その矜持はアメリカにも通じていました。もし天皇を戦犯にすれば、さらに戦争が延び、連合国の被害が大きいことを知っていたのです。アメリカで、この戦争がはじまってすぐにつくられたOSS (Office of Strategic Services)という戦術局は、最近発見された文書で、すでに最初から天皇を戦争責任者として追求しない方針を固めていたことが判明しています。しかしOSSは、天皇と軍部が対立しているような情報を流し、また国民の中の分裂を助長する戦術を立てていました。
このあたらしい資料によると、天皇を象徴として残し、日本を戦後、社会主義の国にするという方針を立てていたのです。このOSSの下では、多くの社会主義者が協力し、彼らが方針を決めていたのです。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆戦争に引き込まれるということ
「 明治天皇の御製を引いたゆえに昭和天皇は「平和主義者だった」と、近年、一部の昭和史研究者から意図的に「政治利用」されている… では、なぜ御前会議で明治天皇の御製にあった「波風」が「あだ波」と変えられたのだろうか。…

明治天皇御製「よもの海」
何か重大な「聖慮」が歌の奥に潜んでいると思うのが普通ではないだろうか。
迂闊なことだが、ほとんどの記録や昭和史関連書から「よもの海」の真実はこぼれ落ちてきた。
前夜、天皇は考え抜いた末、明治天皇の歌を「替え歌」にして詠んだとは考えられないか。
繰り返すが、今日ではこの御前会議における天皇の「四方の海」発言が、天皇の非戦もしくは戦争反対、平和愛好の意思表示だったと評価されている。だが、「波風」ではなく「あだ波」と天皇がわざわざ歌を変えたのなら、訴えたかった天皇の本心はもう少し別の意味を含んでいたと解釈されるべきではないだろうか。

御前会議
そもそも「波風」を「あだ波」と書き間違えるとは考えにくいから、杉山もやはり近衛同様に「あだ波」と聞いたと理解して間違いあるまい。
内閣の最高責任者、近衛首相と統帥部の最高責任者、杉山参謀総長が、ともに揃って「あだ波」と聞き、記したのである。
他の出席者で記録を後世に残した者は皆無である。
昭和天皇を含め、御前会議の場に居合わせた十六名の出席者のうち、近衛、杉山の二人だけが記録を残した。…
優れた歌人でもあった明治天皇の御製のなかには、調べてみると「あた波」という一句が入った歌が何首もある。
ちなみに「あだ波」には二通りの解釈があって、ひとつは「徒波」と書く。表向きの意味はいたずらに立ち騒ぐ波。しばしば、変わりやすい男女の心の譬えなどとして詠まれる。
もう一つの解釈は、漢字にすれば「敵波」か「仇波」と書くものだ。…
(明治天皇の御製にある)「あた波」とは…すべて「敵」を指す言葉である。
そうしてみれば、日頃から明治天皇の御製を「毎日拝誦して居る」という昭和天皇が、御前会議前夜、決然として「あだ波」(昭和時代になると濁音で詠んだ)と句を置き換えた意味の深さに思い致さなければならないだろう。
よもの海みなはらからと思ふ世になどあだ波のたちさわぐらむ
この「あだ波」は「敵」、すなわち米英蘭を指しており、これを鎮めるという意味が潜んでいたと捉えるのが正しい解釈ではないか。
ただの「波風」であれば、他国間との行き違いから波風がたったが外交交渉によって鎮められないか、と限定した解釈で済む。
再度いうが、昭和天皇が間違って紙片に書き写すなどということは考えられない。
天皇は、「敵が騒いで海が荒れ、まことに困ったことだ」と、替え歌で本心を婉曲に表現してみせた。
一方で、ルーズベルトに会議内容が伝わることが分かっていて、「故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと務めて居る」と和平交渉の扉を閉じてはいないことも示唆したのだ。…
戦後になって、御前会議の「よもの海」の逸話が明らかになるや、「天皇は戦争を望まぬ平和主義者だった」という解釈が現れるようになるのだ。
その裏では「悪かったのは軍部、とりわけ陸軍」という説が繰り返し流されてきた。どうやら、左翼からも一見、保守とみられていた側からも、天皇を「平和主義者」にしておきたい理由があったようだ。亡霊のような東京裁判史観がそっくり生き返ったのだ。
天皇は御前会議席上、この戦争を始めるのは本意ではないものの、事ここに至っては「あだ波」に対峙せざるを得ないとの覚悟を替え歌に託し訴えたのだ。
替え歌に気づかぬまま、天皇を無理矢理「反戦主義者」に祭り上げようとする勢力の魂胆はいったいどこにあるのだろうか。
売れ筋の「昭和史」を刊行している研究者が、「天皇は反戦主義者だ」「天皇は平和勢力だ」というような短絡した表現をもって「政治利用」している現実を、見逃すわけにはいかない。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆天皇を無理矢理「反戦主義者」に祭り上げようと政治利用する勢力
いかがでしょうか?
何となく、見えてこられましたでしょうか♥
占領軍は、日本を戦後、社会主義の国にするという方針を立てていました。その社会主義化への革命のために、天皇を「平和主義者」にして、軍部を悪者にし、国民の分断を図り、平和憲法という「まやかし」による「武装解除を強制」したわけです。
その占領期に行われた施策は、ことごとく「社会主義政策」でした♥
例えば、誤解をされている方が大変多いのですが、日本型の伝統的な雇用慣行だと「思い込まされている」のが「終身雇用」です♥ 実はこれ、社会主義的思想のもとで形成された、ごく最近のモノなんです♥
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
「 終身雇用(しゅうしんこよう)は、同一企業で定年まで雇用され続けるという、日本の正社員雇用においての慣行である。長期雇用慣行(ちょうきこようかんこう)ともいう。
ジェイムズ・アベグレンは、 1958年の著書で日本の雇用慣行を「lifetime commitment」と名付けたが、 日本語訳版で「終身の関係」と訳され、 これから終身雇用制と呼ばれるようになった、とされている。 アベグレンは、年功序列、企業別組合とともに日本的経営の特徴であるとした。

終身雇用制の成立を江戸時代以前の丁稚奉公制度に求める意見もあるが、現在のような長期雇用慣行の原型がつくられたのは大正末期から昭和初期にかけてだとされている。 1900年代から1910年代にかけて熟練工の転職率は極めて高く、より良い待遇を求めて職場を転々としており、当時の熟練工の5年以上の勤続者は1割程度であった。 企業側としては、熟練工の短期転職は大変なコストであり、大企業や官営工場が足止め策として定期昇給制度や退職金制度を導入し、年功序列を重視する雇用制度を築いたことに起源を持つ。
その後第二次世界大戦終戦後、人員整理反対の大争議を経験した日本の大企業は高度経済成長時代には可能な限り指名解雇を避けるようになった。その後50年代から60年代にかけては、神武景気、岩戸景気と呼ばれる好況のまっただなかにあり、多くの企業の関心は労働力不足のほうにあった。そのため、この時期に特に大企業における長期雇用の慣習が一般化した。1970年代に判例として成立した整理解雇4条件など、種々の判例や労働組合の団結により実質的に使用者の解雇権の行使も制限されるようになり、戦前まではあくまで慣行であった終身雇用が制度として人々の間に定着した。」
ここで知っておいて頂きたいのは、私たちの日本は、もともと「実力主義」の国だったわけですが、戦後に「年功序列」や「終身雇用」がまるで伝統であるかのように、思い込まされているだけなんです♥
現在、私たちが生きている時代では、何かしらの組織に雇用されて、その見返りに「給与」を「もらう」関係で生活を送っている人々が大多数ですが、それでは、以前からも私たち日本人は、そのような関係に身を置いていたのでしょうか?

「 少し前まで「百姓」は差別用語だという理由で、かなりの長期間、放送禁止用語になり、代替用語として「農民」が使われた。とんでもない間違いで、歴史的に無知な人権擁護論者が、知ったかぶりをしてしゃしゃり出ると、こういう情けないことが起きる。
『百姓』は全く差別用語ではなく、むしろ『農民』のほうが当時の農業従事者を見下して呼ぶ差別用語なのだ。現代でも、田舎に行って「農民」と言うと、激怒する方が多い。「俺は百姓だ!農民なんかじゃないぞ!」と。「農民」は農業従事者にしてみれば差別用語だし、そもそも江戸時代に「農民」という言葉は、今の意味合いにおいて使われていない。
江戸時代に士農工商という身分制度は存在しなかった。『士農工商』という言葉自体は存在したが、それは、あくまでも『武士業、農漁業、工業、商業』という業種の差異を区別するもので、階級を意味するものではなかった。
しかも、「百姓」は、農業専業者に限らず、複数の業種に跨がって活動した者も意味した。だから、仮に「農民」に差別的なニュアンスがなかったとしても百姓の代替用語としては使えない。
戦国時代には、武士業と農漁業、工業、商業の全部を掛け持ちしている者さえ決して希有ではなかった。
例えば、白兵戦において戦国最強を謳われた上杉謙信の軍勢の9割は、平時には、農業に従事する百姓だった。そのため上杉軍の合戦は基本的に農閑期のみを選んで行われた。
武士業と農業を兼務する百姓がいなかったのは織田軍で、織田信長は、いつでも合戦が可能なように、兵農分離を推し進めた。理由は、今でこそ濃尾平野は穀倉地帯だが、信長の時代には木曽川、長良川、揖斐川という木曽三川が年がら年中、氾濫洪水を引き起こして、全く安定した農業収入が望めなかったからである。…
信長が楽市楽座を推進した動機も、農業には頼れない、という必然的な理由があったからで、信長に天才的な先見の明があったわけでも何でもない。
ここまで書けば呑み込めるだろう。織田軍には、商人を兼務する武士が存在したのである。
さて「士農工商」は、あくまでも業種を意味する概念であったから、一つの業種から他の業種に移ることも、全く自由だった。武士が、武士を捨てて農業、漁業、工業、商業従事者になることは自由で、その逆もまた、有り得た。戦国時代には数多くの事例があるので、いちいち挙げないが、江戸時代だと、武士を捨てた有名人には中江藤樹が、逆に百姓から武士になった者には、勝海舟、男谷信友などの一族がある。」
詳しくはこちらをご参照♥
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☆江戸時代に「身分制度」は無かったんです
「 17世紀は、人口と耕地面積が急増した、日本史上でも特筆すべき時期でした。1600年頃の全国総人口は約1500万~1600万人、耕地面積は約163万5000町と推計されています。それが享保六(1721)年には約3128万人、耕地面積約297万町へと急増しました。人口は約2倍、耕地面積は約1・8倍に増加したのです。
増加分の内のほとんどは、17世紀中のものだったと思われます。以後、江戸時代中・後期になると、人口・耕地面積とも増加率は大きく低下し、弘化三(1846)年の総人口は約3229万人と、微増にとどまっています。つまり、人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものと考えて、まず間違いないなです。
ところで、これは単なる量的な変化ではありません。村社会の内部には、大きな質的変化生じていました。それは百姓の家の成立です。
みなさんは、たとえ百姓だろうと、家なら古くからあっただろうに、と思うかもしれません。しかしここでいう家は、みなさんがイメージする現代の家、つまり「家族」とは異なっています。基本的に、現代の家族は“生活”の単位であり、“生産”の単位ではありません。
父親は毎日出勤して仕事は職場で行い、母親は家庭で主に家事・育児を担い、大きくなった子供は別の場所で働いているというような家族像を思い浮かべてください。あるいは、両親が共稼ぎで、朝それぞれの職場に出勤し、子供は学校に通っているという家族でも結構です。いずれにしても、家族構成員は、家を単位にまとまって働いているわけではありません。もちろん現代でも、農漁業や小売業、中小企業経営など、家族が経営の単位となっている場合は少なくありません。しかし一般的な考え方として、職住分離が主流になっているのではないでしょうか。
これに対して江戸時代の家は、何よりもまず、共同で生業を営む生産の単位でした。家は、「家名」「家業」「家産」の一体性をもち、過去から未来へ永続するものと観念された、生産・生活の基礎単位だったのです。したがって、家は現世に生きる者だけでなく、死んだ祖先やこれから生まれる子孫までが含まれていました。これも現代とは異なる点です。
「家名」とは、家に代々伝わる名乗りです。江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていました。ただ、それを公的な場で名乗ることを許された人は、ごく一部でした。そこで各家の家長は代々同じ名前(勘左衛門とか吉兵衛とか)を名乗って家名とし、それによって家の連続性を象徴的に表示したのです。家を継ぐ男子は若いうちだけ別の名を名乗り、父親から家督を相続すると、父と同じ名前に改名します。名前全体ではなく、名前のうちの一字を代々継承する場合も多くありました。こうした襲名慣行は、現代でも歌舞伎や落語の世界などで見られる通りです。
次に「家業」といえば、江戸時代の百姓の多くは農業であり、漁業や林業などの場合もありました。また「家産」とは、土地や家屋、主要な生産用具などを中心に、家に代々伝わる財産のことを表します。家はそのときどきの家長によって統括されましたが、家長は所持地を自由に分割したり、売却・譲渡したりすることはできませんでした。家長は先祖から伝わった家の土地を、少しも減らすことなく子孫に伝える責任がある、とされていたからです。百姓の所持地は先祖からの預かりものたる家産であって、家長個人や家族が勝手に処分してはなりませんでした。江戸時代の百姓の土地所持は、基本的に個人ではなく家を単位としていたのです。
このような性格をもつ家は、16~17世紀頃に、一般の百姓層の間で広範に成立していきました。原始・古来以来、農民は存在していましたが、15世紀頃まではその経営は不安定でした。安定した家産を継続的に維持することは難しく、したがって家も広範には成立しえなかったのです。江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代だったといえるでしょう。」
詳しくはこちらをご参照♥
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☆坂東太郎(ばんどうたろう)って何? ~ 日本に「家」ができた江戸時代
もう、お判りですね♥
このように、昔の私たち日本では、人口の大多数を占めた「百姓」の人々は、組織に雇用されて、その見返りに「給与」を「もらう」関係だったわけではありません♥ 一家総出で、自分たち自身で、生産し「稼いでいた」わけで、誰かから分け前を「もらう」ような生き方をしていません♥ また、ひとたび戦(いくさ)が始まれば、自分たちも戦に参加しているんです♥
誰かから分け前を「もらう」ような生き方を当然と思い込み、本来の実力主義社会を忘れ、何もしなくても「年齢に伴って出世する」、何も役に立たなくても「解雇されず一生雇われる」、そして、「自分たちの国を自分たち自身で守ろうとしない」、「イザとなったら他の誰かが守ってくれる」、そんな社会を当たり前だと思い込まされているのが、戦後の現代日本人なんです♥
まさに、占領期に行われた「社会主義政策」の賜物なんです。
で、それを「打破」するためにも、正しい歴史認識が必要になってくるのですが、戦後に語られる近現代史が、日本を中心に展開したかのような認識を改めていく必要があります♥
で、それを考えるヒントとして、「台風の目」を思い起こして頂けると良いと思います。
「台風の目」の下は、風も穏やかで、雨も降りませんし、青空が見えたりする、とても平和な空間です♥
ところが、その周囲は、激しい暴風雨です♥
実は、私たちの日本は、この「周囲」に位置していたのであって、中心の「台風の目」に位置していたわけではなかったんです♥日本を中心に展開したかのような認識を改める必要があることが、ご理解いただけると思います。激しい暴風雨で、夥しい被害を受けた事実が、それを証明していますね♥
では、その反対に、中心の「台風の目」に位置していた、ほとんど被害を被っていないのは、いったいどこだったでしょうか?
つまり、それこそが、私たちの日本を「戦争に引き込んだ」犯人なんです♥
それでは、明日以降は、「戦争に引き込んだ」のが誰だったかが明らかになる「証拠」、それをこの書物を通して見てまいりたいと思います♥
続きは次回に♥
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