2016-06-01 (Wed)

拉致監禁された蒋介石
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 共産党内での権力基盤をか固め、意気揚々としていた毛沢東だが、紅軍の勢力が増してくると、【中華民国(当時は蒋介石率いる国民党政府)が討伐を始める】ようになる。

毛沢東
中国南部で「革命根拠地」を作った【紅軍は、共産主義の伸長を恐れる国民党政府にとって脅威】となっていた。

国民党政府軍との戦いで【紅軍は大敗】を喫し、やむをえず【「根拠地」を放棄して逃走】を始めた。約1万2500キロメートルの逃亡行軍を行った後、中国西北部の陝西省(せんせいしょう)延安付近にたどり着いた。

長征の行程図。赤い点線は紅一方面軍、白い点線は紅二方面軍・紅四方面軍などを表す。
最初は十数万人いた紅軍も、延安にたどり着く頃には数千人にまで減っていた。途中で逃げ出した兵士も多い。

逃亡する毛沢東
延安には別の共産主義勢力が作った小さな根拠地が存在した。紅軍はそこに落ち着き、何とか生き延びたのである。
しかし、中国共産党政権は後になって、この不名誉な逃亡行軍を「長征」と称するようになる。逃げたのではなく「征伐」しに行ったというわけだ。

では、【紅軍はいったい何を「征伐」しに行ったと強弁しているのだろう】か。

なんと【中国共産党政権は、北上して「日本侵略軍」と戦うための「北上抗日」だと美化】している。…

ただし、当時の陝西省延安付近には、【「日本侵略軍」は1人もいなかった】。

「北上抗日」は、【中国共産党政権による完全なウソ】なのである。

国民党政府による討伐で陝西省延安に本拠地を移した中国共産党は、やがて、延安の近くで国民党政府軍と対峙する。【中国共産党の紅軍を包囲したのは、張学良(ちょうがくりょう 1901~2001年)と楊虎城(ようこじょう 1893~1949年)が率いる部隊】だ。

張学良

楊虎城
この頃、【国民党政府のトップである蒋介石は、抗日よりも国内平定を優先】していたため、【抗日運動を抑えながら、中国共産党の討伐】を進めていた。一方で、張学良と楊虎城はその方針に不満を抱いていた。

1936年12月、紅軍討伐を強化するために、蒋介石が陝西省の省都・西安を直々に訪れた。すると、【西安で抗日デモが発生】。それに合わせる形で、【張学良と楊虎城が蒋介石を逮捕・監禁するという事件】が起きた。中国近代史上有名な【「西安事件」】である。

軟禁中の蒋介石と関係者
張学良と楊虎城から内戦の停止と抗日路線への転換を促された蒋介石はそれを受け入れ、釈放される。この【「西安事件」以降、中国では抗日の旗印の下で、統一戦線が組まれる】ことになる。

【国民党政府の路線転換】を受けて、【中国共産党もコミンテルンの指示により、「抗日統一戦線」に加わる】ことになった。当時の【ソ連は日本の動きを非常に気にしていた】。日本が中国を全面的に占領してしまえば、ソ連にとって大きな脅威となるからだ。』

いかがでしょうか?
1936年12月に発生した「西安事件」。ここが歴史のターニングポイントになっています。
以前、1937年の「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」、そしてそこから次々に起きた日本人に対する虐殺事件の流れをご説明させて頂きました(→☆ドイツのなんとなくリベラル 「反米という病」 ~ 約束なんて守らない支那)が、この「西安事件」は、それら一連の流れの直前にあった重要な事件です♥

私たち日本人は、戦後の教育で、「第二次世界大戦」あるいは「太平洋戦争」という意味不明な言葉で表現された戦争において、ファシズム国家だった、「ヒトラーのドイツ」や「ムッソリーニのイタリア」と手を組み、アジアの国々を侵略し、「民主主義」の連合軍と戦い、そして敗戦、ようやく戦前の体制が崩壊し、「民主主義国家」としての道を歩み始めた、と教え込まれています♥
さて、本当でしょうか?

答えは、もちろん「NO!」です♥
それでは、ご一緒に見て参りましょう♥
20世紀、今から約80年前、世界の大国は、イギリス、大日本帝国、アメリカ、フランス、イタリアです♥
そして、私たち日本を中心に考えて、この時代の関係を現しますと、このようになります。
大日本帝国(明治時代) VS ソ連(コミンテルン)、アメリカ(左翼ユダヤ)
当時、ソ連(コミンテルン)とアメリカに蔓延(はびこ)る左翼ユダヤは、密接に結びついていました♥ そしてソ連(コミンテルン)は、謀略によって、自国の敵同士を互いに、戦わせようとしていました♥
まんまと罠にはまったのが、大日本帝国と中華民国でした。
この当時、すでに私たちの日本では、ソ連(コミンテルン)や共産党の暗躍は、一般常識として広く国民に認識されていて、新聞でも報道されていました♥
この辺りを、非常によく纏めていらっしゃるのがこちらになります♥ 是非、ご訪問してみてください♥
↓
☆ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか

1933年 世界地図
ソ連(コミンテルン)を中心に見た場合、周りが敵だらけでした♥
西側に、イギリス、フランス、イタリアがあり、東側には、大日本帝国、アメリカが存在していました。
ですから、大国と対峙する「緩衝地帯」に位置する「ドイツ」と「中華民国」を「道具」に使ったんです♥
「満州事変」「第一次上海事変」のあと、1933年(昭和8年)3月、私たちの日本は正式に国際連盟に脱退を表明しました。
そして、同年、ドイツで「妖怪」が生まれました♥ それが、ヒトラーです♥

この頃のキーとなる人物が、この三人の独裁者です♥

スターリンのソ連(コミンテルン)の指示のもと、中国共産党の毛沢東は、蒋介石の中華民国と大日本帝国を戦争状態に引き込もうと画策していました。本来、大日本帝国の最大の敵はソ連(コミンテルン)だったのですが、この画策によって、やがて中華民国との戦争に引き込まれていきます。
同時に、中独合作によって、中華民国はドイツによる軍事支援を得ていました。ヴェルサイユ条約に抵触するもので、明確に違反行為でしたが、これによって最新兵器が中華民国にもたらされることとなり、のちに大日本帝国が苦戦する理由の一つとなります。

中独合作
こちらもご参照♥
↓
☆ドイツの武器輸出急増が意味するもの~世界は今、確実に「いつか来た道」を辿っている
それでは、「西安事件」について見て参りましょう♥
まず、事件の首謀者の一人張学良ですが、実の父親を爆殺したことで有名ですね♥

張学良
以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説(ちょうさくりんばくさつじけんそれんとくむきかんはんこうせつ)とは1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件は、通説の日本人軍人であった河本大作による策謀ではなく、ソ連赤軍特務機関による犯行であるとする説である。ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフが最初に主張した。
ソ連崩壊以前から旧ソ連・ロシアの特務機関活動を専門に執筆活動していた、ドミトリー・プロホロフは、2000年に共著『GRU帝国』を出版したが、そのなかで分析の結果として、張作霖殺害にソ連の特務機関が関与していることを唱えた。それによれば、ソ連の職業的諜報員だったナウム・エイチンゴンが日本軍の仕業に見せかけて実行したという説である。
2005年に出版されたユン・チアンとジョン・ハリデイの共著による『マオ 誰も知らなかった毛沢東』に、張作霖謀殺に関して「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」との記述がある。
プロホロフによれば、日本の支援で満州を支配していたが、ソ連政府は張作霖と1924年9月に「中国東北鉄道条約」を締結し友好関係を結んでいた。
しかし張作霖軍の鉄道代金未納が1400万ルーブルに及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達したところ、張作霖はソ連人の鉄道管理官を逮捕し、実効支配したとしている。これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、1926年9月に張作霖排除を決行を決定しフリストフォル・サルヌインが立案し、特務機関のレオニード・ブルラコフによって奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して爆殺する計画を立てたが、ブルラコフらが逮捕されたため失敗した。
だが、張作霖が1928年に反ソ反共の満州共和国創設を日本政府と協議したことから、ソ連特務機関は再度暗殺計画を立案し、実行責任者としてナウム・エイチンゴンが任命され爆殺に成功したとしている。また、プロホロフは極東国際軍事裁判(東京裁判)で関東軍元幹部が犯行を認める証言をしたことについて「その幹部は戦後、ソ連に抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言をさせられた。日本が張作霖を暗殺しなければならない理由はなく、ソ連が実行した」と主張している。
また、中西輝政、加藤康男らはイギリスの秘密外交文書に、ソ連が事件を引き起こした可能性には一定の形跡があるとの指摘があるとする。その理由としてソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていたこと、1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内外でソ連に最も強硬に反抗してきたこと、ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願っていたこと、張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であったことなどを挙げている。そして、もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう、と記載されているという。」

爆破直後の状況、列車の残骸から黒煙が上がっている
せっかくなので、こちらの書物についても♥


「 『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(原題:Mao: The Unknown Story)はユン・チアン、ジョン・ハリデイ夫妻が2005年-06年に、世界各国でほぼ同時に刊行した毛沢東の伝記。日本語版(土屋京子訳)は、講談社(上・下巻)で刊行された。
世界25ヶ国で出版され、欧米でも長くベストセラーの1位となり、日本語版も同年11月に出されて以来17万部を超える売上げを示した。なお訳者は前著『ワイルド・スワン』も担当している。
同書の取材執筆は『ワイルド・スワン』以後10年以上の歳月をかけて行われ、冷戦時代は困難だったロシアとアルバニア所蔵の公文書、毛沢東と接触した数百人もの中国国内外の人々へのインタビュー、関係各地の調査により新たな毛沢東像を描き出した。
著者は来日時のインタビュー(『週刊朝日』2005年10月26日号掲載)で、『ワイルド・スワン』と同様に中国大陸(中華人民共和国)での出版の可能性は「まったくない」と述べた。これは同国に出版、表現の自由がないことを踏まえたものである。
毛沢東の出生から死に至るまで当時の社会情勢と共に描いたノンフィクションである。毛について「青年時代に国民党に入党し、共産党に入ってからは卑劣な手を使って党を乗っ取り、アヘンを密売し、長征では軍を壊滅状態に追いやり、抗日戦争にはほとんど参加しようとせず、中国を征服すると7000万人を死に追いやった、自己中心的な良心のない人間だった」と記している。また、随所に従来の通説と異なる主張(「孫文の妻、宋慶齢は共産党のスパイだった」「張作霖爆殺事件はソ連の謀略によるものだった」など)を展開している。

毛沢東
チアンとハリデイは、毛沢東の権力の座に至るまでの理想主義的な説明や彼の支配へのありふれた主張を受け入れていない。彼らは毛が幼少期から権力に対する憧れを抱き、自身の個人的な友人を含めて多くの政敵を抹殺したと主張している。1920年代と1930年代の間は、彼らの主張によれば毛はスターリンの支援なしでは党における影響力を得ることが出来なかった上、長征における毛沢東の決定はエドガー・スノーの『中国の赤い星』に表されているような(それらの書の影響もあり)革命の神話が出来て来たが、英雄的で巧妙なものではない。また蒋介石の息子蒋経国はモスクワで人質になっていたため、蒋介石は故意に共産党軍を追詰めて毛たちを捕えようとはしなかった。

江西、延安のような第二次国共合作と国共内戦の間共産主義者に支配された地域は、恐怖による支配であり、アヘンによる収入に依存していた。彼らの主張によれば、毛は日本軍との戦いに率先して臨むことをせず、単に張国燾のような党内の対抗勢力を除くために軍隊数千人を犠牲にした。農家に生まれた毛沢東は1949年に権力の座に就いたが、農民たちの福祉にほとんど関心を示さなかった。農業の余剰分を産業支援と反対派への脅しに使うとした毛の決定は、大躍進政策の結果としての大量殺人的な飢饉をもたらした。飢饉は中国国内の穀物不足が明らかになった時にすら穀物輸出が継続されたため、より過酷なものとなった。」
さきほどの「孫文の妻、宋慶齢は共産党のスパイだった」という記述に関しましては、宋慶齢が中華人民共和国名誉主席という意味不明な肩書を持っていることからも明らかですね♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆沖縄県と「タカリ」 ~ 集(たか)り = 人をおどして金品をまき上げること。また、その行為をする者。

中華人民共和国の首脳陣と(左から張聞天・毛沢東・宋慶齢・周恩来・陳毅)
さらに、余談ですが、張学良に繋がる、旧日本軍の「革新軍人」が存在していました♥ それが張学良の顧問補佐官を務めた柴山兼四郎です。

柴山兼四郎
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆共産主義者の戦争犯罪を暴いた「近衛上奏文」 ~ 戦争は軍部ではなく、共産主義者の暴走によるものでした
で、「西安事件」のもう一人の首謀者・楊虎城は、西安の地方軍閥ですから、蒋介石や毛沢東なんかに、自分の支配地を荒らされたくはありませんでした♥

楊虎城
以上が前提としてあって、「西安事件」を見てみますと。。。
「 共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていた。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していた。
日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていた。10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達された。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説した。
1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていた。」
で、このあと、蒋介石は逮捕・監禁されるのですが・・・
「 監禁された蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。12月13日、黄埔軍官学校書記長鄧文儀は第28師、第51師に西安攻撃を進言するとともに軍官学校卒業生7万余人の名で強硬策を国民政府に進言した。中国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった。ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将からはドイツ人顧問をともなった戦車旅団、ドイツ式訓練を受けた第83師、第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦が献策された。第28師は進撃し、洛陽の空軍部隊は渭南への爆撃を行った。政府軍の進撃と爆撃が行われると、張学良は蒋介石に4-7日以内に南京に送還する予定であったが政府軍の攻撃のために出来なくなったと述べた。これを聞いた蒋介石は何かを待たなければならないために自分たちでは決定できないのであると推理した。事情を知った一般世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。」
このように、張学良は「誰かの指示を待っていた」わけで・・・
「 しかし中国共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り話し合いが行われ、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)との間に合意ができて蒋介石は解放された。翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し、中国共産党の完全掃滅を決議し、その後も妥協を行わず中共を追詰めたが、日中戦争が勃発し、国民政府は中共掃滅を放棄し、第二次国共合作が成立する。蒋介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたかは、戦後も一貫して張学良は語らなかった。
蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝している。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続することが、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。中ソ両国の間で「ソ連側の国民政府支持、新疆・外蒙古に対するソ連政策の撤回、中国側の防共政策の放棄」を骨子とする諒解が成立し、中国に対して共同防共を働きかけて来た、日本の外交政策は破綻した。今まで日中交渉に当たっていた外交部長張群は更迭された。
蒋介石の息子の蒋経国が留学中のソ連に政治的人質に捕られ、帰国を条件に国共合作を認めたという。
後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのかについては、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、永遠の謎となってしまった。
胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。」

胡適
いかがでしょうか?
最終的に関係者を背後から操っていたのは、一体、誰でしょうか?

答えは簡単ですね♥ スターリンです。

ヨシフ・スターリン ソビエト連邦共産党中央委員会書記長
もう一つ、重要な点があります。続きを見てみましょう♥
「 この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものとなった。 また当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測。対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなる。以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けになる。」

尾崎秀実
当ブログでも、繰り返しご紹介しております「尾崎秀実」が、ここで繋がってきます♥
「 …ひそかに活躍したのが尾崎秀実および彼の同調者であった。…日本は中国での軍事的な展開は限定すべきであると決定していたのを彼らは覆した。…近衛首相は中国戦線不拡大の政策を推進していた。
蒋介石と日本軍は人を介して日本軍を中国から引き揚げることに合意していたにも拘わらず、ソ連のコミンテルンの指令に基づき尾崎秀実をして、日本が日中戦争を拡大させるように仕向けた…
尾崎は、近衛首相のプレーンであったことから、彼は充分に前もって日本政府の動きを知ることができた。…日本と中国との戦線不拡大がほぼまとまりかけていた時、尾崎らは汪兆銘を首班として日本の傀儡政権を擁立させた。1940年のことである。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本列島の誕生 ~ 日本、インドネシア、アメリカ大陸に共通して残っているもの
☆ゾルゲ事件 ~ 日本史上最大のスパイ大戦争
このように、罠に嵌められていったのが、私たちの大日本帝国だったんです♥
続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキング

- 関連記事
-
- 習近平を待ち受けている悲惨な将来 ~ 「ABC不安」が「ABCDEFG不安」に (2016/06/26)
- 25年前のソ連崩壊、そして、現在の中華人民共和国の崩壊 (2016/06/25)
- 中国の環境限界 ~ 成長の限界ということ (2016/06/09)
- マオイズムへの回帰で自滅する中国 (2016/06/08)
- あの国の品質 ~ 日本人には信じられないこと (2016/06/07)
- 今年行われる、日本が主役のもう一つのサミット (2016/06/06)
- 中国共産党の人民「解放」のやり方 ~ 終戦後の長春大虐殺 (2016/06/02)
- 中国共産党の「北上抗日」と「西安事件」 ~ スターリンのパシリだった毛沢東 (2016/06/01)
- 中国共産党のお家芸 ~ 「AB団粛清事件」 (2016/05/31)
- 土地革命と中国共産党 ~ 「一村一焼一殺、外加全没収」 (2016/05/30)
- 中国共産党にとって不都合なこと (2016/05/29)
- アベノミクスの大成功と、世界が抱える『ABC不安』 ~ 台湾独立运动 (2016/05/28)
- 無知な反原発パヨクが知らない「逃げられない現実」 ~ 被曝国は日本だけではありません (2016/05/27)
- 六四天安門事件27周年記念集会開催 2016年6月5日 (2016/05/26)
- B2 ~ 習近平、金正恩が本当に畏れているモノ (2016/04/15)
Re: No title * by みっちゃん
ツバサさん、こんばんは♥
お返事が遅くなってしまって、ゴメンナサイ^^
まったく同感です♥ 特に西安事件については、ロシア側の資料が出てくれば、謎が解けるんじゃないかと思っています♥
これからも、宜しくお願いしま~す^^
お返事が遅くなってしまって、ゴメンナサイ^^
まったく同感です♥ 特に西安事件については、ロシア側の資料が出てくれば、謎が解けるんじゃないかと思っています♥
これからも、宜しくお願いしま~す^^
よくもありもしない事を言えますよね(笑)
そこに存在しない軍を相手にするとは、
妄想力が逞しいというかなんというか^^;
蒋介石が西安事件に関しては一切発言しようとしなかったというのは、
やっぱり、そこに何かあったから発言しなかったと取れますし、
真相が気になるところですね。