2016-05-14 (Sat)

ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。
慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 沖縄で生まれ育つ中で、いつの間にか自分自身が日本国に対して不信感を持ち、日本人であることに誇りを持てなくなっていた。

「自分は日本人なのか沖縄人なのか」
とアイデンティティの確立さえできなくなり、若い頃はずいぶん苦しんだものだ。

「日本は侵略戦争を行い、多くのアジアの人々を苦しめた」
「日本人は嫌われて当然、憎まれて当たり前」
だと思うようになっていた。

【そんな自分を救ってくれたのは天皇皇后両陛下だった】。

昭和50(1975)年7月17日、今上陛下が皇太子の頃に初めて沖縄県に来られた時、【「ひめゆりの塔」事件】が起きる。

聖地であるひめゆりの塔壕内に【隠れ潜んでいた本土の過激派と沖縄の青年が、火炎瓶を皇太子同妃両陛下へ投げつけた】。



両陛下は直ちに警察官に守られ退避。その時【両陛下は、説明係であるひめゆり女子学徒隊生存者の安否を必死に気遣われていた】。

この出来事は大事件だったので、私は両陛下のその後の日程は全てキャンセルされるものとばかり思っていた。ところが両陛下は、真夏のギラギラ照りつける太陽の下、汗だくになられながらも計画されたスケジュール通り、戦没者が祀られる霊地を廻り、祈ってくださった。

後に皇太子同妃両陛下は、
「何があっても受け入れる」
と覚悟を決めての来沖だと知った。
本土からの学生運動家や県民の一部による
「皇太子来沖阻止のために暴力をも辞さず」
との過激な情報もあり、そのような中での来島だったのだと。

もちろん【沖縄県民のほとんどは両陛下の来沖を心から歓迎していた】のだが、私は両陛下のありがたい思いとその美しい姿に感動し、涙が溢れてきた。
「これまで教えられた天皇家とは違う」
「何か変だ」
と疑問を持つようになった。

以後、自分自身で日本の歴史や沖縄の歴史を勉強するようになった。特に江戸時代末期、幕末、明治維新から第二次世界大戦、敗戦、そして現在までの近現代史を、自分なりに学んできた。
1990年頃から国際協力活動を始めたが、アジア各国でさまざまな現地の人々と話す中で、いかに「日本が信頼され、愛されている」か、体験を通して分かった。

「白人帝国主義の植民地政策」が、いかに残虐で悲惨なものであったのかも知った。

「今まで教えられてきたことは一体、何だったんだ?」
と大きな疑問も湧いてきた。そんな想いを持ちながらも、誰かに語ることなく、自分の胸の中だけに納めていた。


平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災が、私を変えた。』

いかがでしょうか?
今回の熊本地震もそうですが、東日本大震災や、我が家がそうであったように阪神・淡路大震災、他にも近年、様々な災害を経験して、それまでと違った意識を持たれた方々・違った行動をとられる方々が、どんどん出てきています。
きっと、スイッチが入ったんですね♥
これって、本来、私たち日本人が潜在的に持っているものが発露してきている、そう考えています♥
たまたま、当初のスイッチを入れ間違え、その後、この日本をおかしくしている連中の正体を知って急旋回された方もいらっしゃいますね♥

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆千葉麗子 さよならパヨク

これからも、どんどん、この日本をおかしくしている連中の正体を白日の下に晒していき、お天道様の罰を受けて頂きましょう♥
で、さきほどの文中にある、「ひめゆりの塔事件」ですが、今から、たったの41年前(1975年)に、左翼テロリストによって起こされたテロ行為です♥

以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 ひめゆりの塔事件(ひめゆりのとうじけん)は、1975年7月17日に沖縄県糸満市で発生した、日本の新左翼系過激派による皇太子明仁親王(当時)および同妃美智子に対する【2つのゲリラ事件の総称】である。
皇室としての第二次世界大戦後初の沖縄県訪問に際し、皇太子および同妃に、新左翼党派・沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))と共産主義者同盟(西田戦旗派)の各メンバー2人が、潜伏していた洞窟(ひめゆりの壕)や白銀病院から火炎瓶やガラス瓶、スパナ、石を投げつけたテロ事件。


沖縄復帰後に開催された沖縄国際海洋博覧会に際して、皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にあるひめゆりの塔を訪れることが伝えられた。これは皇族による第二次世界大戦後初めての沖縄訪問だった。戦後まもなく全国各地を回った「戦後巡幸」の際、昭和天皇は「戦争を防止出来ず、国民をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く日本を再興したい。」と、その志を側近に述べている。

「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げていた沖縄解放同盟準備会は、1975年初頭には「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「十五年戦争における大日本帝国による侵略・植民地主義弾劾」「沖縄戦における日本軍による住民虐殺弾劾」及び「(その最高責任者である)戦争犯罪人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として、1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定した。沖解同(準)は「前段闘争」として、6月18日に摩文仁の丘の日本軍慰霊塔に「日本軍の残虐行為を許さないぞ」、「皇太子沖縄上陸決死阻止」、「大和人は沖縄から出て行け」、「皇太子帰れ」などとペンキで落書きをした。

黎明之塔
沖解同(準)は、最終的に7月10日に「『ひめゆりの壕』に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの知念功と西田戦旗派のメンバーの2人が、「ひめゆりの壕」に11日に潜入した。知念は、沖縄史ととりわけ沖縄戦の記録を読み漁ったあとに、壕に潜入したという。知念は後に、「この『闘争』は、皇太子および同妃の暗殺や殺傷が目的ではなく、皇太子及び皇族を『裁判闘争』に引き摺り出して『天皇制の戦争責任』を追及することが最終目的だった」と主張している。

沖縄解放同盟準備会 知念功
また、屋良朝苗沖縄県知事の意向を受けた沖縄県労働組合協議会(県労協)は、幹部三役のみの会議によって「海洋博反対」、「皇太子訪沖反対」については取り組まないことを決定するが、在日米軍基地労働者で構成する全軍労(のちの全駐労)や自治労沖縄などの労働組合によって、海洋博会場付近および那覇市内、糸満市など沖縄南部などでの沖縄各地でのデモや、様々な業種での時限ストライキや抗議職場集会が実行され、「皇太子訪沖反対」の意思表示を行なった。」

[ 屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年12月13日 - 1997年2月14日)は、沖縄県の政治家。沖縄の日本復帰後、沖縄県知事を2期務めた。
沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。
知事在任中の1975年7月17日に沖縄県糸満市で皇族に対する火炎瓶によるテロ事件(ひめゆりの塔事件)が発生したが、事前に警備当局が危惧する中、
「警察は火炎瓶が飛ぶなどと言っておりますが、そんなことは絶対にありません」
と警備削減させていたばかりでなく、テロリストが潜伏していた地下壕内を、皇太子および同妃の訪問に先立ち安全確認を主張した警備陣に対しても、
「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」
として実施をさせなかった(後、現地で取材をしていた沖縄タイムス記者が、TBSの番組内において「怪しい男がいたので注目していました」と発言しているように事前確認をしていれば未然に防げた可能性が高かった)などが警備担当者から明らかにされている。
知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。]
「 白銀病院でのテロ
正午頃、糸満市にある白銀病院に病気を偽装して「入院」していた「患者」と「見舞い客」に偽装した沖縄解放同盟準備会の活動家2人(川野純治、他)が、病院の下を通過する皇太子および同妃の車両に3階のベランダから「皇太子帰れ、天皇制反対」等と叫びながらガラス瓶やスパナ、石などを投擲し、警備車両を破損させた。

沖縄解放同盟準備会 川野純治
2人(川野純治、他)は公務執行妨害の現行犯で逮捕された。またこの際に、活動家の犯行を阻止しようとした同病院の医師らが活動家から暴行を受けた。

沖縄解放同盟準備会 川野純治
ひめゆりの壕でのテロ
ラジオで白銀病院事件を含む地上の情報を聴いていた知念ら「ひめゆりの壕」の2人は、実況中継で午後1時5分頃に皇太子および同妃がひめゆりの塔に到着したことを知る。2人は地下壕に梯子を架けて、地上に這い出ると、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲した。火炎瓶は献花台に直撃して炎上したが、皇太子妃が警察官に庇われて地面に倒れた際に打撲傷を負った。

沖縄解放同盟準備会 知念功
知念ら2人は「礼拝所不敬罪」(刑法第188条第1項)並びに「火炎瓶処罰法」違反の現行犯で逮捕された。この際、警備にあたっていた沖縄県警警備陣は火炎瓶に驚き任務放棄して逃げてしまった・・・・・・・・・


(逃げ出しちゃう沖縄県警がこちら♥)

が、警護に当たっていた皇宮警察側衛隊の一人が壕の中から這い上がってこようとする過激派に対して飛び掛かり引きづり落として更なる投擲を阻止した。


なお事件直後に皇太子は、まず案内役を務め同行していた「ひめゆり会」会長の身を案じて声をかけた他、事件の発生に動揺する警備担当者を処分しないように関係者に依頼し、その後のスケジュールを皇太子妃とともに予定通りこなした。」

いかがでしょうか?
繰り返しますが、「ひめゆりの塔事件」は、今から、たったの41年前(1975年)に、左翼テロリストによって起こされたテロ行為です♥
ですから、そのテロリスト連中は、いま現在も生存しているんです♥


しかも、その一人は、あり得ないことに「公職」に就いています♥
それが、「沖縄解放同盟準備会」の川野純治です♥

沖縄解放同盟準備会 川野純治
[ 川野 純治(かわの じゅんじ、1954年(昭和29年)9月22日 - )は、日本の政治家。沖縄県名護市議会議員、日本の新左翼党派の沖縄解放同盟準備会の元活動家、テロリスト。1975年、当時の皇太子・皇太子妃沖縄訪問に抗議し、ひめゆりの塔事件を起こした。]

[ 2010年9月、名護市議選に社民党の推薦を受けて立候補した。米軍基地の移設反対を徹底すると訴えて当選した。当選後、「名護市は生まれ変わる。稲嶺市政を支えて基地問題を解決したい」と語った。また、ある市議は、1975年の事件のことは投票日直前に一部市民の間で流れたが、ほとんどの市民は知らなかったと指摘した。財団法人「わびあいの里」により公表されていた肩書きは、「社団法人沖縄県官公庁労働者共済会職員」であった。]
いかがでしょうか?
やはり、あの連中が絡んでいるんですね♥


もう、うんざりですね♥

この辺りは、いろいろと関係者が多くって、複雑になっていますので、また別の機会に詳しくご説明させて頂きますね♥
最後にこちら♥

続きは次回に♥
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