2016-05-04 (Wed)

杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である。
吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。
今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。
起源は、酒神・大神神社の三輪山のスギにあやかったという。俗に一休の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。
スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。

造り酒屋の玄関
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 江戸に幕府が開かれると、新興都市江戸には、参勤交代で出仕する武士のほか、たくさんの人が集まってきた。

温故東の花第四篇 旧諸侯参勤御入府之図
[長州藩(萩藩)の13代藩主毛利敬親の参勤交代行列を描いた錦絵。総勢1,000人といわれる行列が、江戸高輪付近を通る様子を表す。図中の長持ちや旅箱には、毛利家の家紋「一文字に三ツ星」が見られ、また槍を投げ渡しする様子も見られるなど、大名行列の一シーンを現在に伝える貴重な絵図資料である。] こちらをご参照♥ ⇒ ☆文化遺産オンライン
その多くは男性で、江戸は男性都市としてスタートした。

町には早くから【酒を売る酒屋】ができ、やがて【煮物などを売る煮売茶屋】が現れてきた。

煮売屋
酒屋や煮売茶屋では、客に酒を飲ませていたが、あくまでもそれは本業ではなかった。それに対し、【客に店で居酒をさせることを本業にする店】が現れてきた。それが【居酒屋】である。

煮売酒屋
居酒屋が江戸の町に出現すると、江戸という特殊性を持った都市のなかで、居酒屋は非常な発展を遂げ、【今から200年前には、飲食店のなかで、一番多い業種に成長】していた。

居酒屋は江戸の市民社会のなかで、重要な役割を担っていたことになる。
それにもかかわらず、これまで、江戸の料理や食生活などについて書かれたものは多数出版されているが、居酒屋をテーマとして書かれたものが見あたらないのは不思議だった。
居酒屋について言及されていても、概略的な説明だったり、断片的に記されているにすぎない。また、【居酒屋の実情が正しく伝えられていないものもよく見かける】。

そこで居酒屋をテーマにした本を書いてみようと思い立ち、史料集めに取り組んできた。やってみると、江戸の庶民生活を対象にした史料はそれほど多くなく、なかなか思うようにははかどらず、数年の歳月を費やしてしまった。悪戦苦闘はしたが、一方では、江戸の居酒屋について、今とは異なる発見があったり、誤解していたことに気づいたりして結構楽しみながら作業を進めることができた。
ところで読者のみなさんは、江戸時代の居酒屋に対して、どのようなイメージをお持ちだろうか?

・暖簾(のれん)は縄暖簾と決まっていた
・朝早くから営業していた
・土間には食卓が置かれ、客は醤油や酒の空き樽に腰掛けて酒を飲んでいた
・鳥や豚などの獣肉はタブーだった
・刺身などはまだ食べられていなかった
・客は燗酒を徳利と猪口で飲んでいた
・女性の店員がサービスしていた
・お通しを出す制度がすでにあった

縄暖簾
本書では、史料に基づいて江戸の居酒屋の発展していく過程を描き出してみた。また、挿絵や川柳を多用して、その過程を視覚的・聴覚的にとらえていただくことを心掛けた。江戸時代にタイムスリップするような気分で江戸時代の居酒屋文化を楽しんでいただければと願っている。』

いかがでしょうか?
この書物はとっても面白かったですよ♥
酒屋の店頭での立ち飲みや煮売茶屋の登場、それがやがて煮売酒屋、つまり居酒屋へと発展していく過程は、江戸時代がいかに平和であり、町人百姓がイキイキと生活をしていたことが理解できます♥
ちなみに、欧米でいうデリカテッセンが、煮売屋・煮売茶屋です。

デリカテッセン、ベルリン
ところで、「居酒屋の実情が正しく伝えられていないものもよく見かける」との記述がございましたが、実際に、そういったロクデモナイ本もいまだに販売されていますね♥ 時代考証がきちんとなされていないトンデモ本や、歴史を歪曲・捏造する作家も数多くいます♥ 当ブログでは、そういった類の本は、ご紹介いたしませんので、ご安心ください♥
例えば、ご参考までに、参勤交代にともなう大名行列のお話を。
下の絵のように、大名行列のそばで、土下座させられている一般の百姓たちの姿を、普通にイメージされる方が、いまだに多いのではないでしょうか?

これって、「嘘」なんですよ♥

「 テレビや映画の時代劇でよく見かけるのが、参勤交代の大名行列に一般民衆が土下座して通過を見守るシーンである。これは実は、大きな間違い。もっとヒドい時代考証間違いの映画になると、木っ端役人の八州廻り(はっしゅうまわり)にさえ百姓が土下座しているシーンがあった。
一般民衆は路傍に立って行列を見物する振る舞いが許された。…一般民衆にとって、大名行列を見物する行為は、現代ならばスポーツ選手の優勝パレードを見物するのと似たような感覚の娯楽だった。…一般民衆が土下座しなければならなかった行列は、将軍および御三家と紀伊徳川家の行列だけで、この行列は「土下座せよ」という意味で「下にぃ、下にぃ」と先触れの番士が声を掛けた。
さて、参勤交代の大名が道中で泊まる宿が、本陣である。これを高級旅館だと勘違いしている人が多いが、全く異なる。…本陣とはそもそも役職のことであり、まわりくどい言い方をすると、宿舎は「本陣の館」となる。
本陣は単に大名に宿泊場所を提供するだけで、基本的に酒食を提供しない。だから参勤交代する大名は調理器具や食材、料理人、さらには入浴用の風呂桶など、一切合切を運ぶ必要があった。
また、本陣は百姓町人だが、実は戦国時代は武士であった。豊臣家や徳川家が天下を統一する過程で、どんどん有力大名が滅ぼされていったが、そういう大名家に仕えていた家臣団まで根刮ぎに滅ぼされたわけではない。
そんな、根絶やしにするような扱いをすれば、手ひどい叛乱が起きて、天下統一など達成できたものではない。
有力大名を攻め滅ぼす場合、トップは殺すが、その下の「幹部家臣」は名主(なぬし)、庄屋、本陣などという名称を与えて、従来の収入がほぼ維持できるような懐柔策を採用した。
現代風に言えば、M&Aでライバル会社を乗っ取ったものの、全社員を総入れ替えするわけにはいかないので、代表権を持たない幹部社員はそのまま継続して社員として遇する、という状況と似ている。
したがって名主、庄屋、本陣は、百姓町人でありながら、当人の意識としては武士のままである。
そういう本質的な由来を知らない時代劇作家が書くと、まだ戦国時代なのに、名主、庄屋が存在したりする、トンデモ時代劇が世に出回ったりする。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆百姓が大名行列に土下座したという「大嘘」
いかがでしょうか?
この絵は、歌川広重の東海道五拾三次にある『日本橋 朝之景』です。

東海道五拾三次之内 『日本橋 朝之景』
東海道五拾三次は、この絵からスタートしていますが、ちゃんと左右に開かれる扉も描かれていて、「これから始まるよ~」ってメッセージが込められていますね♥
で、ここでお気づきになられましたでしょうか?
日本橋の上を、今にも渡ってくる集団。これ、大名行列です♥ 側にいる町人百姓の姿を見てください♥ 大名行列に見向きもしないで、忙しそうにしていますね♥
お分かりでしょうか? 大名行列なんて、この程度の扱いでしかなかったんです♥
納得のいかない方の為に、別バージョンの同じ絵をご紹介しておきますね♥
それが、こちらです♥

東海道五拾三次之内 『日本橋 行烈振出』
ほら、御覧のように、もっと町人百姓が増えています♥ 御納得頂けましたでしょうか♥
今度は、葛飾北斎の冨嶽三十六景にある 『従千住花街眺望ノ不二』です♥

冨嶽三十六景 『従千住花街眺望ノ不二(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)』
[千住の花街より(従)眺望される富士。前景に大名行列の鉄砲隊、そして小屋越しに毛槍の隊が続くのが見える。中景には、稲刈りの終わった田圃の畦道に、美しい農民の娘二人が行列を眺めている。その視線に応えるかのように娘の方を見る武士も幾人かいる。遠くには花街(岡場所、非公認の遊郭)の界隈が見える。そんな男たちの未練を笑うかのように、白く雪化粧をした富士が悠然とそびえる。] こちらをご参照♥ ⇒ ☆文化遺産オンライン
手前の行列が、大名行列で、それを見物している村百姓の娘さんたちと、その娘さんたちを意識する従者が描かれています♥


土下座の「土」の字も見当たりませんね♥
さて、昨日の予告通り、そろそろドイツのお話に。。。と思っていましたが、長くなりましたので本日はここまでに♥
でも、せっかく広重や北斎が出てきましたので、最後にもうちょっとだけ♥
今から約200年前の私たちの日本。
そこには、二人の天才がいました。葛飾北斎と歌川豊国です♥

葛飾北斎 自画像 天保10年(1839年)頃

初代歌川豊国肖像。初代歌川国貞画。
私たちが大好きな歌川広重は、歌川豊国とともに歌川派の双璧をなした歌川豊広に師事します。

歌川広重の死絵 3代豊国筆、安政5年(1858年)
歌川派の祖は、歌川豊春で、こんな画風なんです♥

浮絵 和国景跡京都三拾三軒堂之図

で、話を元に戻しますと、初代歌川豊国の跡を、歌川国重(のち豊重)が二代目歌川豊国を継ぎます。歌川国重の画風は、こんな感じです。

「名勝八景 大山夜雨」 二代目豊国画。
この二代目の技量を遥かに凌駕していたのが、歌川国貞、のちの三代目歌川豊国です♥
で、その歌川国貞(三代目歌川豊国)が描いた「日本橋」がこちらになります♥

歌川国貞 『江戸日本橋』
歌川広重の描く「日本橋」をアレンジしたものです♥

東海道五拾三次之内 『日本橋 朝之景』
ここで、ご注意頂きたいのは、歌川広重が描いた「日本橋」は、南から北を向いて描いたものだということです♥

日本橋 ※写真は関東大震災直後(1923年)の日本橋
上の地図でもお分かりのように、当然、富士山は左手にあって見えません♥
ですが、歌川国貞は、その見えないはずの富士山を描いています♥
富士山や凧を描くのは、葛飾北斎の得意とするところでした♥ つまり、歌川国貞(三代目歌川豊国)は、葛飾北斎の手法を取り入れているんです♥
ちなみに、葛飾北斎の冨嶽三十六景にある「日本橋」がこちらになります。

冨嶽三十六景 『江戸日本橋』
ちゃんと、東から西に向かって描かれていますね♥
個人個人の好み、好き嫌いもありますから、評価に関してはここではいたしませんが、当時の私たち日本の文化が、ヨーロッパに破壊的なダメージを与えた(→壊しただけではなく、新しい創造を生んだ)点は、ぜひ覚えておいてください♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆世界に影響を与える「ジャポニズム」 ~ 「ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女」の場合
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆Japonism (ジャポニズム)の凄さ ~ エッフェル塔は、日本のあるものに似せて造られたんです
そして、もし、御関心がございましたら、お勧めなのが、この漫画です♥

映画化もされていますが、ぜひ、原作の漫画にも触れてみてください♥
続きは次回に♥
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