2016-03-28 (Mon)

マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 「6年ほど前だったか、中国で製造された冷凍餃子を食べた日本の家族が中毒症状を起こした事件があったろう。実は、あの事件にも『黒い子供たち』が絡んでいたんや」

それは2008年1月、千葉、兵庫両県に住む三家族合計10人がスーパーで売っていた中国製冷凍餃子を食べて、下痢や嘔吐などの中毒症状を訴え、5歳の女児が一時、重体となった事件で、日本中をパニックに陥れた。

14年7月、中国・上海市の食品工場が大幅に使用期限が切れた鶏肉を米国の有名なファーストフードチェーン店や日本のコンビニに出荷していた事実が発覚し、人々に衝撃を与えた。この事件で6年前の毒入り餃子事件が再びクローズアップされ、忌まわしい記憶を新たにされた方も多いだろう。

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆支那の腐った肉をマクドナルドなどが使用!期限7カ月過ぎ腐敗、カビだらけ、床から拾った肉も!
毒入り餃子事件では、日本の発売元・JT(日本たばこ産業)が未開封の同じ商品を検査した結果、メタミドホスという非常に毒性の強い農薬成分が検出され、警察庁の肝煎りで千葉・兵庫両県警と警視庁が合同捜査本部を設置。中国側が早々と「冷凍餃子から検出された有機リン系殺虫剤メタミドホスが、生産から輸出までの過程で混入する可能性はほとんどない」と明確に否定したこともあって、捜査本部は食品テロの可能性も視野に入れながら、本格的に捜査に乗り出したのだ。…

中国側はあくまで中国国内での殺虫剤混入を否定し続けたが、…物証が決め手となり、問題の餃子が河北省石家莊市にある「天洋食品廠公司」で製造されたことが判明。同社の工場で臨時工員として働いていた男が、1日13時間労働で八百元(事件当時のレートで約1万円)の安い月給しか支給されないという劣悪な労働条件への不満から犯行に及んだことが分かり、中国当局に逮捕され、14年1月、無期懲役の判決が出ている。

呂月庭
この事件のいったい、どこに「黒い子供たち」がかかわっていると言うのだろうか。

当時の捜査関係者の証言によると、この毒入り餃子事件の後、中国のインターネットの書き込みサイトに、犯行声明とも取れるコメントが載ったという。
《 我々が、どんな製品も輸出しなくなったら、日本の犬は生きていけるのか! 》
《 恥知らずの日本人よ。中国の餃子を食べるな。もう日本人は中国の食品を食べなくてもいい(中略)中国の製品をノーと言っている。喜ばしいことである 》
これらの【コメントの発信源を辿っていくと、「黒道」の下部組織が現れた】のだ。

しかし、「黒道」がどうして毒入り餃子事件にかかわらなければならないのか。

中国公安省によると、「黒い子供たち」が生まれたのは中国政府の一人っ子政策という悪政のためであり、彼らは国家が犯した過ちを正すために農民の暴動や臨時工員など低賃金労働者による【労働争議を支援】してきたと言われている。

☆黒竜江省長「賃金未払いは全くない」発言、地元炭鉱で数千人が抗議「誰の懐に入った」


「黒道」が反政府運動に繋がる理由は何となく分かったような気がするが、それが【どうして反日活動に繋がるのか】と言えば、こういう理論なのだという。

日本製品が中国市場で中国製品を圧倒して駆逐し、市場を事実上独占している。現在の中国企業で発展しているのは、日本資本と組んだ会社ばかりで、非外資系中国企業が次々と潰れ、失業者が多く出ている。農村出身の貧しい若者たちは日本資本の工場で臨時工員として安い賃金で働かされている。臨時工員は日本資本の犠牲者である…
何だ、これは――という考え方である。』

いかがでしょうか?
現在の支那で、各地で頻発する「労働争議」の裏側に、キリスト教司祭や信者が多い「黒道」と呼ばれる組織が暗躍していることが御理解いただけましたでしょうか♥
で、著者が書いているように、それが何故か反日へと向かっていると。。。
これは、戦前にも見られたことで、キリスト教勢力による常套手段です♥ ですから、現在の支那で不穏な動きが、「すでに始まっている」と認識しておかなければいけません。
詳しくはこちらをご参照ください♥
↓
☆中国人は、こうして反日になったんです♥
☆日本と中国の仲が悪くなった理由♥
☆中国は、こうして騙されたんです♥

さて、それでは、昨日の続きです♥
終戦後(←戦時中ではありません)、満州在住の日本人が、命辛々逃げ出さなければならない状況に陥りました。この混乱で生じた問題が、「中国残留孤児」でした♥

こちらも併せてご覧ください♥
↓
☆一橋 文哉 進化する中国系犯罪集団


その一例として、これまで、「通化事件」について、ご説明をさせていただきました。
「通化事件」とは、満州において生じた、1946年、つまり終戦の翌年の2月3日の事件です♥
そして、三人の裏切り者がいました。中国共産党とグルになっていた野坂参三と前田光繁、そして林弥一郎です。


野坂参三(中国名・岡野進、日本共産党議長)

前田光繁(中国名・杉本一夫)

林弥一郎 人民解放軍空軍の父
では、昨日同様に、以下、Wikipediaから一部抜粋してご説明させて頂きます♥
いよいよ、「通化事件」がクライマックスを迎えます。
「通化事件」発生の前日、裏切り者が行動を起こします。
「 2月2日、正午過ぎに林少佐は蜂起の情報を前田光繁に電話で伝えた。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞に報告した。同じ頃、藤田大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備を行った。
通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はサイレンが鳴らなかった。日本人は時計を持っていないため外出中の人々は次々に拘束された。午後8時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁通化国民党部書記長を始めとする中華民国政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた後、蜂起前に虐殺された。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。」
つまり、日本人の裏切り者のせいで、前日にはすでに、武装蜂起の情報がダダ漏れとなっていて、肝心の中華民国側との連携が取れなくなってしまっていたんです。
そして、そんな状況を知らずに、翌日、武装蜂起が決行されます。
「 2月3日、中国共産党は便衣兵や日本人協力者などからすでに情報を集めており、重火器を装備して日本人の襲撃に備えた。
柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと変電所を占拠した。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍・林航空隊・戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などの指揮下で蜂起した。蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどで武装しており、蜂起成功後に敵から武器を奪うことになっていた。一方、瀋陽の遼寧政府(中華民国政府)からは「中華民国政府軍の増援の連絡がつかないから計画を延期せよ」との無線連絡がなされたが、無線機の故障で日本人には伝わらなかった。
日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃した。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署めがけて突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒された。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、一月十日事件で連行された日本人が監禁されている牢に到達したが、待ち構えていた機関銃によって射殺された。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅した。
阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃したが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により建物に近づく前に壊滅した。 寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃した。 ここでは400名が内応するはずであったが、斬り込み隊は銃撃を受け、犠牲者を出して引き上げざるを得なかった。
中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后、浩皇弟妃、皇女嫮生(皇弟溥傑の次女)を始めとする満州国皇室の救出に向かい、一時は公安局を占拠することに成功した。中山は皇室が捕らわれている部屋に飛び込むと皇弟妃浩の誰何に対し「国民党」「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と答え、宮内府憲兵の工藤が救出に向かっていること、女中達が数軒先の家で風呂の用意をしていることを告げた。まもなく公安局は中国共産軍に包囲され、機関銃や大砲による砲撃が行われた。遊撃隊は次々と倒れ、皇后を守ろうとした満州国皇帝愛新覚羅溥儀の乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされ死亡した。続いて皇帝一族に布団をかぶせて覆いかぶさるなどして守ろうとした日本兵、中国兵は砲弾により次々に命を落とした。その後、中山隊長らはやむなく公安局から退いた。その他の襲撃地点でも日本人は撃退された。
林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、蜂起合図前に中共軍に拘束され、木村戦車隊も出発直前に包囲され、中共軍に拘束された。
篠塚良雄によると篠塚たちは竜泉街にある竜泉ホテルを占拠したとしている。なお、篠塚によると731部隊を経て藤田実彦が参謀長を務める第125師団に加わった経歴の篠塚は8月17日に藤田実彦大佐から誘われて参加したとしている。」
ここで、四人目の裏切り者、篠塚良雄が出てきました♥

篠塚良雄
そして、このあと阿鼻叫喚の地獄絵図が、戦争が終わったはずの満州において、中国共産党の手によって繰り広げられます。
「 午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。中国共産党・八路軍は連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行した。寝間着、素足に下駄履の者や病人までも零下二十度になる戸外を数珠繋ぎで行進させられた。通化市から15km離れた郊外の二道江(満州製鉄東辺道支社があり居留日本人のほとんどはその関係者。)から連行された人々には途中で力つきて落後するものもあり、落伍者はその場で射殺された。この死の行進で加来繁、田代、森が射殺された。加来は行進中に倒れると引きずり出されて右股、胸を撃たれて銃殺された。田代の遺骸は事件後に殺害された場所で雪に埋もれた状態で発見されるが衣服は剥ぎ取られた状態であった。」
「 3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして旧通運会社の社宅などの建物の各部屋に押し込まれた。専員公署では8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められた。拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。三日間に渡って山中の倉庫に収容された中西隆も同様の体験をしている。中西を始めとする90人余りの日本人は数日間に渡って立ったまますし詰め状態で監禁されたため、発狂者が出るにいたった。朝鮮人兵士達は黙らせるよう怒鳴るとともに窓際の6人を射殺し、「お前たちはそのうち銃殺だ。ぱっと散る同期の桜じゃないか。36年の恨みを晴らしてやろう」と言い放った。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間人2千人(数千人とも)近くが殺された。また、数百人が凍傷にかかり不具者となった。」

いかがでしょうか?
「通化事件」については、まだまだ記述がございますので、こちらのWikipediaをご参照ください。
↓
☆通化事件
それでは、本日の最後に、私たち日本人を裏切った輩のその後を、ここで御紹介させて頂きます♥
まずは、下っ端からご紹介させて頂きます♥
最初は、コレ、篠塚良雄です♥

篠塚良雄
この篠塚良雄なる裏切り者は、「731部隊の法螺吹き」として有名(というか、すでに一般常識にさえなっていますが・・・)な御仁です♥
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆【731部隊の人体実験・細菌戦は嘘(全て作り話)】1~11の目次・一覧表
以下、Wikipediaからの抜粋です♥
「 1946年2月3日、師団参謀長の下で通化の竜泉ホテル占拠(通化事件)に加わり、中国人民解放軍に逮捕された。同年9月、人民解放軍に入隊、のち命により医学の講習所に通い始めた。1953年、天津の軍医大学に行くよう命じられたが、731部隊少年隊にいたことを明らかにしたため撫順戦犯管理所に送られた。
1956年6月に不起訴処分となり釈放、同年夏日本に引き揚げた。地方公務員となり、定年まで勤めた。また、1957年9月に発足した中国帰還者連絡会の一員として活動した。
定年後の1984年頃から、731部隊での体験を語り、戦争犯罪を告白し謝罪するようになった。1998年6月25日、戦争犯罪謝罪のため「アメリカ・カナダ 証言の旅、アジアのホロコーストを問う」に参加した際、シカゴ・オヘア国際空港で入国を拒否され、帰国させられた。入国拒否の理由は「ワシントンの命令」とされ、具体的なことは示されなかった。2001年の映画『日本鬼子』に出演、体験を語った。
2014年4月9日に体調を崩して入院するまで、731部隊での体験を証言する活動を続けた。」
篠塚良雄なる法螺吹きが、中国共産党の下っ端ななり下がった経緯が良く理解できますね♥
中国帰還者連絡会という怪しげな組織もポイントです♥
ご参考までに、「中国帰還者連絡会」は既に解散していて、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」に引き継がれています♥
こちらもご参照♥
↓
続いて、コレ、林弥一郎です♥

林弥一郎 人民解放軍空軍の父
以下、Wikipediaからの抜粋です♥
「 同年2月に通化事件が起こると、隊員が数名事件に関係したことが明らかになり、中国共産党中央から林を銃殺するよう3度命令が出された。林は事件前日に蜂起の情報を政治委員の前田光繁に伝えていたため、政治委員の黄乃一が弁明を務めた結果処刑を免れたが、航空総隊の人事権は前田に移された。3月1日に東北民主聯軍航空学校が発足すると飛行主任教官に任命され、中国共産軍の航空隊育成を行った。1956年(昭和31年)8月に帰国。その後、日中友好会会長を務めた。」
ここでも日中友好会なる怪しげな組織が出てきていますね♥
こちらもご参考♥
↓
☆関西日中平和友好会
続いてが、コレ、前田光繁です♥

前田光繁(中国名・杉本一夫)
以下、Wikipediaからの抜粋です♥
「 京都府で小規模手工業者の家庭に生まれる。京都市立商工専修学校を卒業後、1936年(昭和11年)に海軍へ志願。呉海兵団に所属するが病気のため除隊。1年間の療養生活を経て、1937年(昭和12年)南満州鉄道関連企業に就職。1938年(昭和13年)、河北省で鉄道用砂利採取場の現場監督時に八路軍に連行される。八路軍野戦政治部に送られ、1939年(昭和14年)1月2日、八路軍へ入隊を表明し、野坂参三に次ぐ日本人民解放連盟の2番手となる。同年11月には八路軍内において「日本兵士覚醒連盟」を組織した。朱徳と行動を共にして戦闘に参加した後、1942年(昭和17年)に反戦活動のため延安に移動し、終戦まで同地にとどまった。
終戦後満州に赴き、中国共産党および八路軍の活動に協力しながら、通化事件にも関与した。
その後も八路軍のために活動を続け、1958年(昭和33年)に日本へ帰国した。帰国後は日中友好協会の理事を務めている。」
この前田光繁の経歴をみると、吹き出してしまいそうなんですが、コレが終戦後の「通化事件」という惨劇を引き起こしたかと思うと、非常に腹立たしい限りですね♥
それでは、日本人を裏切った「前田光繁」の姿をご覧ください♥


上が小林寛澄、下が前田光繁
「 9月3日、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利60周年記念行事のニュースセンターは北京飯店で座談会を催し、かつて八路軍に参加した旧日本軍兵士の前田光繁氏と小林寛澄氏がこれに出席した。
前田光繁氏(88歳)は1939年10月20日に自ら志願して八路軍に参加し、八路軍に参加した第一陣の日本国籍の兵士となった。1939年11月、前田光繁氏らは八路軍根拠地における最初の日本反戦組織である「日本兵士覚醒連盟」を発足させ、1942年に同連盟の華北連合会の会長に選ばれた。帰国後、引き続き日中友好のために努め、東京都日中友好協会の理事を務めたこともある。
小林寛澄氏(86歳)は1941年に自ら志願して八路軍に参加し、反戦連盟浜海支部の支部長を務め、1955年に帰国。
前田氏は次のように語った。「午前(9月2日)、胡錦濤主席の演説を聞き、深い感銘を覚えた。現在、中国の人々が平和な暮らしをしているのは、中国が世界各国と友好関係を結び、発展させているからである。胡錦濤主席は特に日中関係の「政冷経熱」(冷え込んだ政治関係、熱い経済交流)の現状に触れ、事実、多くの日本国民は日中友好を願い、日本では数多くの有識者が日中友好の大業に取り組んでいるが、しかし、日本を軍事主義の方に引きずっていこうとする勢力もある。これは、日本を含む世界各国の人々にとって注意しなければならないことである。日本は中国と友好関係を保っていかなければならないと考える。そうしなければ、日本は発展することはできず、存在しつづけることもむずかしい。胡錦濤主席の演説を聞いて、大いに奮い立たせられた。今後も引き続き努力し、極端な思潮に反対し、日中関係の友好的発展のために努めると思う」と語った。
前田氏と小林氏は記者の質問に答え、「今から見れば、60年前の戦争は中国人民に非常に大きな損害をもたらした侵略戦争である。60年前に中国侵略に参加した日本軍兵士の多くは農民であり、その中の数多くのものが死傷した。この面から見れば、日本は加害者であるとともに、被害者でもある。最初に反戦連盟が発足した時は、わずか三人であったが、1945年8月15日の日本の敗戦の時には、反戦連盟にはすでに1000人以上のメンバーがいた。これから見ても、かなり多くの日本人が戦争の罪悪を意識しており、かなり多くの人たちが平和と正義の側に立っていたことが分かる」と語った。
最後に、両氏は日中両国の将来について希望を表明し、「日中両国人民は相互理解を深め、困難を乗り越え、歴史を鑑とし、世世代代友好を保つことを願っている」と語った。」
以上はこちらから♥
↓
☆かつて八路軍に参加した旧日本軍兵士の座談会
そういえば、小林寛澄というヒトも、昨年、生き恥を晒していましたね♥
↓

☆中国主席、「抗日戦争」参加の日本人老兵らに記念章
最後は、コレ、野坂参三ですが、説明するまでもありませんね♥


野坂参三(中国名・岡野進、日本共産党議長)
戦後、日本に戻り、GHQにいた左翼ユダヤ人の社会主義者・共産主義者たちとともに、私たちの日本を弱体化させようとして、『日本共産党』をつくった人物なんですから♥

詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆アメリカがつくった「日本共産党」 ~ 今でも利用されている左翼・リベラルな人々
☆日本共産党のトンデモなこと ~ 志位和夫の伯父は、ソ連のスパイでした♥
要するに、「日中友好」などと言っている連中、その多くの輩は、そもそも問題や騒動を、自身でわざわざ作り出し、あるいは自身の行為がその根源であるのに、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為、つまり、『マッチポンプ』をやっているんですね♥
続きは次回に♥
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