2016-03-25 (Fri)

32年テーゼ(32ねんテーゼ)は、1932年5月にコミンテルンで決定された『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』の通称。「赤旗」1932年7月10日特別号に発表された。

日本からは片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加して討議された。前年に草案として提示されたいわゆる「31年政治テーゼ草案」を作成したゲオルギー・サファロフが失脚したため、あらたなテーゼが必要とされてつくられたものである。発表以降、1936年2月に岡野(野坂参三)・田中(山本懸蔵)という変名で「日本の共産主義者への手紙」がモスクワにおいて発表されるまで日本共産党の綱領的文書として扱われた。

野坂参三(日本共産党議長)

日本共産党の任務
「 日本共産党は、国内の階級的力関係と日本における、まさに来たらんとする革命の性質および任務の双方についての正しい、かつ明確なピクチュアをもたねばならない。…
換言すれば、君主制の転覆、地主の収奪、および労働者と農民の独裁の樹立を経ねばならない。…
現瞬間のための主要な行動スローガンは、次のものでなければならない。
●帝国主義戦争反対。帝国主義戦争を内乱に転化せよ。
●ブルジョア=地主、ミカド、および社寺の土地の農民のための無償没収。地主、金貸し、および銀行に対する農民の一切の負債の取消し。
●植民地(朝鮮、満州、台湾等)の日本帝国主義のくびきからの解放。
●ソヴィエト連邦および中国革命の防衛 」 (『コミンテルン・ドキュメント』Ⅲ、現代思潮社刊)

☆政府が「共産党は破防法調査対象」と答弁書を閣議決定
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ここまで「トラブルなど何もない」と豪語していた「王将」と同じ会社のこととは思えないほど、さまざまな問題が起きていた事実を書いてきた。

京都府警幹部は首を傾げながら、こう語る。
「会社側が隠しとった事実を含め、『王将』と大東(おおひがし)社長にまつわる問題点のほぼすべてを突き止めて捜査してきた。中には関心を抱かせるものもあったが、何しろ、大東氏が社長に就任する以前の話が多く、現職の企業トップが射殺されるという衝撃的な出来事には直結しないのではないかと思われるんや」

はっきり言えば、それぞれのトラブルが発生した時期が古いため、なぜ13年末に社長が射殺されたのかが分からないということである。そして、捜査本部としてはあまりいい手応えを感じていないということでもあった。
そんな中で、【大東氏周辺に“ちょっとした異変”が起きていた】ことが分かってきた。

早朝出勤して本社玄関前や駐車場を清掃することに始まって、役員から幹部社員といった各種話し合いを繰り返し、一日二店は行くという店舗回り……と分刻みのスケジュールを予定時間通りにきちんとこなしてきた大東氏が、13年の夏を過ぎた頃から時々、不規則な行動を取ることがあり、何をやっていたのか分からない“空白の時間帯”を設けるようになってきたというのである。

大東氏は時折苦渋に満ちた表情を浮かべることはあったが、悩みごとを吐露するどころか、愚痴一つこぼしたことはなかった。まして会社に脅迫状の類が届いたり、嫌がらせの電話がかかってきたりしたことはないし、大東社長側近の役員や秘書が彼から“まとまった金額のカネ”を用意するように指示されたこともないという。
ただ、いつもと違っているところとしては、大東社長が常時持ち歩いていた現金がやや多めになっていたことである。

事件当時、大東氏が財布や背広のポケット、車内の紙封筒などに数十万円ずつ計百数十万円を所持していて注目された。社内の人間は大東氏が百万円前後の現金を持ち歩いていたことは知っていたが、「店舗回りなどでちょっとしたテコ入れなどに使うカネかな」と思っていた程度で、何に使うためなのかを正確に知る者は一人もいなかった。

また、13年秋頃に【「子供や若者の人権を守る団体のメンバー」と称する男女2人が、突然、大東社長に面会を求めて本社を訪れた】ことがあった。

たまたま大東氏が仕事で不在であり、その旨を伝えるとおとなしく帰って行ったが、いくら用件を尋ねても答えようとはしなかった。
そして、応対した社員が
「予めアポイントメントを取って頂かないと、社長が会えないこともある」
と伝えると、男性の方が
「社長は必ず会うと思いますよ」
と自信たっぷりの態度だったといい、女性の方が小声でボソボソと
「コジンの名誉がかかっていますから」
といった趣旨の発言を添えたように感じられた。

この社員は
「人権団体のメンバーが個人の名誉に関する話で訪れたとすれば、厳しい職場の環境を嫌って社を去った人間がパワハラとかいじめとかで訴えたのかな」
と直感的に思い込んでしまったという。だが、これは後で分かったことであるが、「コジン」と聞こえた言葉は「個人」ではなく「故人」であったのだ。
この男女の訪問者について報告を受けた大東氏は、特に反応を示さなかったし、その後の態度にも変わりはなかった。それから一週間ほど経った後、一人で自転車に乗って“いつもの散歩”に出掛けた大東社長が、途中で誰かに遭ったらしく、予定時間よりかなり早く戻ったことがある。大東氏は何も言わなかったが、顔色が悪く、しばらく社長室にこもって出てこなかった。

そうしたことが三回ほどあって、大東社長は慣れたせいか、社長室に立てこもることはなかったが、いかにも不機嫌そうに黙(だんま)りを決め込んでいたという。
一度は正面玄関でほかの役員とばったり会い、
「何かあったのか」
との問いかけに対し
「今日は変なものを見ちゃったよ」
と答えている。そして、今一度は巡回先の店舗で、そこの従業員がブツブツと独り言を呟(つぶや)いている大東氏を見かけている。大東氏が何をしゃべっていたかは定かではないが、一つだけ聞こえた言葉があるという。
それは次の一言であった。
【「コクドーって何や?」】 』

いかがでしょうか?
今回は、普段と毛色の違った書物になりますが、私たち日本人にとって重要なことが書かれていますので、ご紹介させて頂きました♥
事件そのものに関しましては、ご紹介は控えさせていただきますので、是非、この書物を読んで頂き、その全容を知って頂ければと思います♥
当ブログで注目していきたいのは、正体不明の「人権団体」、そして意味不明の「コクドー」という言葉についてです♥
本題に進む前に、まずは大東亜戦争の最後の年、昭和20年(1945年)の状況整理をしてみたいと思います♥
私たち日本の国内の状況を振り返りますと、敗戦色が濃厚になってきたにもかかわらず、国家総動員、総力戦、徹底抗戦、本土決戦を主張する一部の社会主義者・共産主義者が、政府内や軍部、官僚やマスコミに存在していました♥
そんな中、自死を覚悟したうえで、昭和天皇へ「戦争の終結」を直訴した人物、それが近衛文麿でした。実に3年ぶりの拝謁でした。

近衛文麿
天皇陛下の側に、長らく重臣たちを近づけなかったのが木戸幸一です。

木戸幸一
「 近衛が具体的に死ぬ手だてを確保したのが、昭和二十年一月二十日前後であろう…それからおよそ三週間後の二月十四日、近衛は実に三年ぶりに天皇に拝謁が叶った。自死の腹を括っての上奏である。
かつて拝謁してきた明治宮殿は、前年五月の空襲で焼け落ちていた。いま、近衛が鉄扉をくぐった「御文庫(おぶんこ)」と呼ばれる天皇・皇后の居所はコンクリートで固められた地下壕で、大型爆弾にも耐え得るよう陸軍が極秘裏に造営したものだ。屋根にはカモフラージュのために土が盛られ、ツツジなどの常緑植物が植え込まれていた。御文庫とは、暗号として付けられた名称である。
二十年二月、これまで統帥部以外の者を天皇の側に近づけなかった木戸内府が、ようやく重臣たちの上奏を許した。統帥権を盾に、木戸は「陛下にお目に掛かりたい」という重臣はもちろんのこと、高松宮、賀陽宮(かやのみや)など皇族方の拝謁も拒んできたのだ。
戦局は逼迫していた。…
十四日、モーニングで身支度を整えた近衛は、謁見所に入ると一礼した。
「近頃、お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」
天皇が勧める前に、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろした。
「近衛はいかがか」
「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」
とだけ答えると起立し、モーニングのポケットから和紙の束を取り出して読み上げた。
近衛自書の墨筆で、八枚あった。その概要は以下のとおりだが、長文なので要点のみに絞って引用する。
「 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候(ぞんじそうろう)。以下、此の前提の下に申述べ候。
敗戦は我国体の瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の輿論(よろん)は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは側知し難し)、随(したが)って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候。
つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。…
ソ連は欧州に於て、其の周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余(じよ)の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之(これあり)候。…
ソ連のこの意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(引用者注:野坂参三(のさかさんぞう))を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候。

野坂参三(日本共産党議長)
かくの如き形勢より推して考えうるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分にありと存ぜられ候。…
特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にも、此の主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞(そくぶん)いたし候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義を受け入れ易き境遇にあり…
これら軍部内一味の者の狙いは、必ずしも共産主義に非ずとも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知純粋なる軍人、これに踊らされたりと見て大過なしと存候。
戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の望ありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みもなき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。
此の一味を一掃し、軍部の立て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)。」(矢部貞治『近衛文麿』下)…
「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かつて急速度に進行しつつあり」と上奏され、天皇はおそらく驚愕するほどの衝撃を受けたに違いない。…多くの重臣はおおむね、「本土決戦のようなことはお避け遊ばされたい」という程度で済ませていた。近衛のように、「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かつて急速度に進行しつつあり」などと上奏した者はいない。「非常の御勇断を」とは「すぐに降参なさい」との意味だが、天皇にそう簡単に言えるものではない。青酸化合物を懐中に忍ばせていた近衛にして初めて言上(ごんじょう)できる言葉である。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆近衛上奏 あの有名な慶應義塾大学と「日本共産党」の共通点 ~ 野坂 参三 (支那名:岡野進)
つまり近衛文麿は、戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党、すなわち、政府内や軍部、官僚やマスコミに存在していた「国家総動員、総力戦、徹底抗戦、本土決戦を主張する一部の社会主義者・共産主義者」の手に乗るものだって、見事に見抜いていたんです♥
「 終戦までの過程がかくも遅れたのは、コミンテルンによる「敗戦から革命へ」の実践による“成果”だったことは火を見るより明らかである。わが国の官僚や軍部が感化された理論は、第三インターナショナル(コミンテルン)からの指導によるものだった。
この時期、昭和天皇のごく身辺近くまで、共産主義の地下水脈は接近していた。
それは一九三二(昭和七)年五月、コミンテルンで採択されたいわゆる「三二テーゼ」の概略を繙(ひもと)いてみればすぐに分かる。
「三二テーゼ」と一般的に呼ばれる文書には、「日本における情勢と日本共産党の任務に関する共産主義インターナショナル執行委員会西欧局のテーゼ」という長い正式名称が付いている。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆国家総動員、総力戦、徹底抗戦、本土決戦を主張していたのは、共産主義者です
で、この頃、ソ連の「クリミア」でアメリカ、イギリス、ソ連による首脳会談が行われていました。いわゆる「ヤルタ会談」です♥

会談に臨むチャーチル、ルーズベルト、スターリン
ここで、私たち日本人が知っておかなければならない二人の人物が存在します。まず、一人目が戦後、伊藤忠商事会長などを歴任した瀬島龍三(せしまりゅうぞう)中佐です♥

瀬島龍三
そして、もう一人が、日本人として2人目のハーバード大名誉学位保持者であり、「マルクス主義者」だった都留重人(つるしげと)です♥

都留重人
この2名は、クーリエでした♥ つまり、外交機密文書を人の手で運ぶ「外交伝書使」だったんです♥
「 参謀本部と外務省の首脳が訪ソ使節としてまず頭に浮かべたのは、参謀本部第五課(ロシア課)所属の参謀から選ぶ案だった。だが、参謀本部内にはもっと優れた適任者がいると秦(はた)次長から名前が挙がったのは、つい二月から三月にかけてクーリエとして日ソ間を往復して帰ったばかりの瀬島龍三(せしまりゅうぞう)中佐(戦後、伊藤忠商事会長などを歴任)だった。
クーリエとは、外交機密文書を人の手で運ぶ「外交伝書使」のことだ。ウィーン条約で認められた国際飛脚とでもいうべきクーリエには、さまざまな特権が与えられていた。生命の安全保証ならびに持参する外交行嚢(がいこうこうのう)が税関審査などを免除されるなどの外交特権である。…
瀬島特使案は最終的には消えた。だが、ヤルタ協定のさなか、ソ連内にいて先方の軍首脳と会っていた瀬島のこのときの任務は、いまだに特定されていない。
今日では小野寺緊急電を握り潰した中心人物は瀬島ではないか、とも言われているが、決定的な証拠は隠されたままだ。」

小野寺信
ここでいう小野寺緊急電とは、小野寺が日本に送った最高機密情報のことで、「ヤルタ会談後にソ連が対日宣戦する」という内容のものでした♥
そして、瀬島龍三に続くクーリエとして、天皇陛下の側に長らく重臣たちを近づけなかった木戸幸一が指名したのが都留重人でした♥
「 瀬島案が無理となった三月末、大本営と政府間の調整会議の席上で、いつもは陪席しているだけの内大臣・木戸幸一(きどこういち)が、なぜかこのときばかりは発言した。昭和十五年以来、内大臣の要職に就き、東條英機を首相にと天皇に言上するなど、もっとも天皇の信頼を得ている宮中政治家だ。
「ソ連特使の適任者がいないということのようだが、私の知り合いで外務省の書記官がいる。彼なら適任と考えられるがどうか」
そう言って木戸が上げた名前が「都留重人(つるしげと)」だった。都留は昭和八(一九三三)年にハーバード大学に留学した。昭和十一(一九三六)年五月には博士課程に合格し、アメリカやイギリス、カナダの学者などと深い交流をもって帰国した経済学者である。…
米国生活が長く英語に堪能だということは周囲の誰もが理解できたが、木戸がなぜロシア通でもない経済学者を推したのかはすぐには分からなかった。だが、軍首脳は直ちにこれを名案だと判断、都留は三月二十九日に急遽、東京を発ち、ソ連へ向かったのである。手には重たい外交行嚢を提げていた。その都留重人には「木戸の知り合い」という面以外に、もう一つの顔があった。
まず木戸との関係から言えば、都留は木戸の姪を妻に迎えていた。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆「戦争反対」を唱え、そこから「内乱へ転化せよ」
で、この都留重人の大親友が、カナダ人で後にGHQに招かれた「ソ連のスパイ」のエドガートン・ハーバート・ノーマンです♥

ハーバート・ノーマン
「 都留のもう一つの顔は、ハーバード大学で築き上げた共産主義者としての側面である。都留はハーバードにいるときに、三歳年長のカナダ人学生、ハーバート・ノーマンと深い親交を結ぶようになった。ノーマンは宣教師の息子として、長野県軽井沢で生まれている。
二人の共通の話題はマルクス主義だった。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本を「敗戦から革命へ」と導く水先案内人たち
こちらもご参照♥
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☆ホンモノのスパイ大作戦 ~ アメリカが知らなかったこと、ソ連が知っていたこと
こちらもご参照♥
↓
☆アメリカがつくった「日本共産党」 ~ 今でも利用されている左翼・リベラルな人々
いかがでしょうか?
当時、私たちの日本にも存在した裏切り者の社会主義者・共産主義者たちによって、国内の状況が他国に筒抜けになっていたわけです。
そして、その情報をもとに、戦争を終わらせよう、降伏しようとしていた私たち日本に対し、アメリカは原子爆弾を実験投下し、ソ連は無慈悲な侵略を行ったんです。ソ連の侵略は、1945年の9月まで続いていたんです♥
最後に、ここまでのお話は、全く関係がないように思われるでしょうが、実は、「餃子の王将」にかかわる出来事へと繋がっていくんです♥
続きは次回に♥
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