2016-03-07 (Mon)

山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年(大正8年)9月24日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は美容師。
作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続けたことと太宰と共に入水自殺を遂げたことでも知られる。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 大東亜戦争開戦時、多くの国民が開戦を支持しました。

この歴史的な事実に目を向けたうえでこそ、本当の意味での反省があるのではないでしょうか。

一握りの狂信集団に騙され、国民は戦争に巻き込まれ、アジア諸国には迷惑をかけた。
こうした歴史認識は、あまりに偏っているといわざるをえません。

【何故、日本国民の多くが、あの戦争を支持したのでしょうか】。

現代でも多くの若い人々を魅了する『人間失格』、『斜陽』の著者として有名な【太宰治(だざいおさむ)】の小説「十二月八日」の中に、その手掛かりがあります。

太宰治
十二月八日とは、昭和16年12月8日を意味しています。いうまでもなく、日本海軍が真珠湾攻撃を敢行した【日米開戦の日】のことです。

開戦を報じる朝日新聞
小説はこのような形ではじまります。
「きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和16年の12月8日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな1日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう」
日米開戦が始まったその日、一般的な主婦がいかに感じていたのか。

それがこの小説の主題です。

果たして、戦争を悲しみ、呪っていたのでしょうか。

困窮する生活を訴え、1日も早い終戦を願っていたのでしょうか。

【全く違います】。

日米開戦に歓喜する主婦の悦びに満ち溢れた1日が描かれているのです。

朝、ご飯の準備をしようと子供に乳をやっていると、どこからかラジオの声が聞こえてきます。

「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

開戦を報じる朝日新聞
日米開戦を告げる重大な一報でした。
この一報を受けた主婦の感想は次のようなものです。
「しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」
戦争を憎む気持ちなど微塵も感じさせない叙述です。我々、【戦後の日本人の大方の予想とは異なり、日米開戦の一報に、この主婦は感激している】のです。勿論、この後の辛く、苦しい戦争生活を知らないからこそ、この時、この主婦はこのような感覚を抱いたのでしょう。しかし、ここで確認しておきたいのは、【開戦当初、多くの日本国民が、この主婦のように日米開戦を支持していたという事実】です。…

現在、我々は「人種」という問題をあまり意識することはありません。しかし、【戦前の日本では、この「人種」という問題が非常に大きな意味】をもっていました。
本書は「人種」、とりわけ「人種差別」の問題から、あの大東亜戦争を説明してみようという試みです。』

いかがでしょうか?
私たち日本人は、現在でも同じですが、「人種差別」の意識を持ち合わせていません。これは、「人種差別」意識を持っている「キリスト教白人」や、「ユダヤ人」とは、まったく異なっている特徴です♥
同様に、「支那」や「朝鮮」も、「人種差別」意識が強く、私たち日本人とは決定的に違っています♥
この違いをもたらしているのは、一体、何なのでしょうか?

私たち日本人にとっては、肌の色なんて、まったく気になったりしませんが、世界では、今でも意識している国が多いんです♥

「 日本人は人種差別意識をほとんど持っていないですよね。それを示す面白いエピソードがあるんですよ。アメリカに特派員として行ったときに、「ソーシャル・セキュリティ・ナンバー」っていうのを与えられたんです。国務省の出先機関に行って登録しなきゃいけない。…いま日本でやっている「マイナンバー」と同じですけど、アメリカで活動するときには「ソーシャル・セキュリティ・ナンバー」がないと、車の免許もとれないし、銀行の口座も開けない。だから、登録しました。
そこには個人を識別するための項目欄があって、目の色、髪の色、肌の色を自己申告して書くんです。目の色って言われても、よくわからないけど、日本人は「私の目が黒いうちは…」なんていう言い方があるくらいだから、黒なんでしょうね。ブラックかダークか忘れましたけど、黒と書かないといけない。髪の色もだいたい黒でしょ。
そこまではいいんだけど、肌の色が難しい。」
「 世界の人たちは肌の色をけっこう意識しているんだけど、日本人は、有色であることを別に侮辱だと思っていない。英語ができる人間が「あなたの肌の色は?」っていう欄に、平気で「イエロー!」って書くぐらいですからね。日本人は無頓着なのかもしれない。…」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆あなたの肌の色は何色ですか? ~ 日本人が人種差別意識を持っていない証拠
私たち日本人と違った「人種差別」意識をもつ彼らは、ある種独特の考え方を、それぞれ持っています♥
彼らに共通しているのは、「自分たちが選ばれたモノ」と勘違いしている点です♥
いわゆる「選民思想」です♥
ユダヤ教徒(=ユダヤ人)は、ユダヤ人が神と特別な契約を結ぶ唯一の人々であり、その契約を守っていくことで、来るべき「終末」において、ユダヤ人である自分たちだけが救われるっていう勘違いをしています♥ ユダヤ人にとっては、非ユダヤ人のことなんて、どうであっても構わない、という思想です♥
一方で、そんなユダヤ教から派生した、非ユダヤ人向けの宗教であるキリスト教を信じるキリスト教徒も、同様に、イエスを信じる自分たちだけが救われるんだって勘違いしています♥ そしてユダヤ人(=ユダヤ教徒)と違うところは、他人に対してキリスト教への改宗という積極的な関与を行ってきたのがキリスト教徒です♥ その挙句には、改宗をしない人間は、人間ではないモノとして殺戮してきたのがキリスト教の歴史です♥

スペイン異端審問
「 南米でスペイン人が極めて残虐なことをしていたのをある神父が見て、本山に報告書を書いた。これは神の心に反している。こんな残虐なことをしていいのか、と報告した。ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』です…ペルーを滅ぼしたのはカソリックでした。…これはスペインが滅んでしまう理由になるくらいの大きな影響を与えました…
訴えられたローマもまじめにその話を聞いて、何度も会議を開いた。そこで出た結論は、「まずは布教をしなさい」というもの。
教えて信者になったら、彼らは理性の持ち主である。3回教えてもダメな人間は、サルと同じだから、これは奴隷にしてもよろしいという結論なんです。
ペルーのリマに宗教裁判所博物館っていうのがあるんです。そこに異端審問や拷問で使われた道具が並んでいる。「インカの神様を捨ててキリスト教に帰依するように」と言ったのですが、誰も帰依しなかったので、みんな拷問されて殺されてしまった。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆「西早稲田2-3-18」って何? ~ 空飛ぶモンティ・パイソン 「まさかの時のスペイン宗教裁判」
そして、白人キリスト教徒たちは、世界中を侵略していきました。

世界の植民地化の流れ
「 …欧米列強の植民地政策とその実体を瞥見(べっけん)することは、果たして朝鮮系の人々が主張するように「朝鮮人は史上最も残虐だったとして知られる日本の植民地支配の下で生きた」か否かを検証する上で有効であろう。当時の植民地統治の実態を調査してみると、強制労働、経済的搾取、反抗的な分子が居住する村々の焼き討ち等に加えて、住民の強制移住あるいは隔離などが各地で行われていたことが明らかになる。
ヨーロッパの植民地保有国も、自らの植民地を制圧するために強制収容所を利用した。ドイツはその植民地、南西アフリカ(現ナミビア)で、1906年から1908年にかけて、原住民であるヘレロ族を強制収容所に送り込んだ。…これらの収容所では、ヘレロ族の人口のほぼ半分があらゆる種類の虐待、餓え、そして病気のために命を落とした。イギリスですら、抵抗運動を抑圧するために、…強制収容所を使っている。早期の強制収容所は、南アフリカで戦われた第二ボーア戦争(1899-1902)でお目見えした。ボーア人(オランダ系南ア移民)入植者に対する地元の支援を弱めるため、イギリスの軍隊は焦土作戦を採用し、田畑、家屋、家畜等を、焼き払い、数万人を強制収容所に送り込んだ。これらの収容所では、およそ二万五千人が病と餓えで命を落としている(※うち二万二千人は16歳以下の子供たち)。 だが、このような状況下で死んだアフリカ人の数を数えたものはいなかった…
イギリスはアフリカの植民地において、さらに大規模に原住民用の保護区を設けることによってアフリカ人を白人から隔離した。…アフリカ人の一方的な犠牲のもとに白人労働者の保護を目的とした差別的な法律がこれらの措置を可能にしたのだが、それはアパルトヘイト政策が実施される数十年も前に施行されていたのである。
同様の法律が、南ローデシア(現ジンバブエ)の議会で1930年に可決されている。南ローデシアの植民地当局は全土を分割し、そのうちのほぼ40%にあたる、最も肥沃で価値の高い土地を白人入植者に振り分け、残りの不毛の地をアフリカ人に与えた。こうしたシステムはケニアにも設置されている…」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆世界中の人種差別と戦った「大日本帝国」♥
そんな野蛮なキリスト教徒たちに対して、「人種差別なんかやめろー!」って、立ち向かったのが、私たち日本人だったんです♥
「 この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマでした。その中にあって、日本は前例のない国でした。第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃を提案したのです。
会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、署名を拒否して帰国するといって退室しました。議長であるアメリカのウィルソン大統領は、本件は平静に取り扱うべき問題だと言って日本に提案の撤回を求めました。…日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めたのです。イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアなどが反対しましたが、出席16ヶ国中11ヶ国の小国が賛成し、圧倒的多数で可決されました。
しかしウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。牧野は多数決での採決を求めました…人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬りました。今日の文明世界では、あり得ないことです。…日本人も白人ではなく有色民族です。同じ有色民族として誇りある日本人は、白人の有色民族への暴虐を看過する事ができなかったのです。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆キリスト教国による『壮大なドラマ』♥

で、そのキリスト教徒とともに、表裏一体の関係でユダヤ人(=ユダヤ教徒)が存在していたんです♥
「 フィリピン、メキシコをはじめとする南米は、すべて布教と同時に侵略がなされてきました。大航海時代のコロンブスが、実はユダヤ人であったということがいわれていますが、ザビエルも、キリスト教に改宗したユダヤ人ではないかといわれています。ですからユダヤ人が、実は、大航海時代の隠れた主役だということが、隠された歴史的事実として考えられるようになってきました。それだけ今、ユダヤ人の問題が、歴史の中に組み込まれるようになった、あるいは認知されるようになってきたのです。それだけユダヤ人の役割が、世界でも認知されているということです。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆イエズス会ってなに? ~ 大航海時代の隠れた主役 ユダヤ人
この書物を読み進めていくと、いかに「人種差別」に対し、私たち日本人が立ち向かったのかが理解できます♥ キリスト教徒やユダヤ教徒の根強い「人種差別」観は、現代においても、まだ存在しています♥ それは、宗教からきているからです♥ 宗教上のおかしな勘違いをしているところから、いまだに根強く「人種差別」意識を持っています。
このあたりは、また別の機会にでも詳しく書かせて頂きます♥
最後に、太宰治の『十二月八日』の原文を青空文庫(青空文庫HP)から転載しておきますので、ぜひ、ご一読なさってみてください♥
『 十二月八日
太宰治
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経(た)って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手(へた)でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。でも、あんまり固くならない事にしよう。主人の批評に依(よ)れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目(まじめ)なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。本当に私は、幼少の頃から礼儀にばかりこだわって、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしゃくして、無邪気にはしゃいで甘える事も出来ず、損ばかりしている。慾が深すぎるせいかも知れない。なおよく、反省をして見ましょう。
紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いて噴(ふ)き出した。
「どうも、この、紀元二千七百年(しちひゃくねん)のお祭りの時には、二千七百年(ななひゃくねん)と言うか、あるいは二千七百年(しちひゃくねん)と言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。僕は煩悶(はんもん)しているのだ。君は、気にならんかね。」
と伊馬さん。
「ううむ。」と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。」
「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。なんだか、そんな気がするんだ。だけど僕の希望をいうなら、しちひゃくねん、と言ってもらいたいんだね。どうも、ななひゃく、では困る。いやらしいじゃないか。電話の番号じゃあるまいし、ちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。何とかして、その時は、しちひゃく、と言ってもらいたいのだがねえ。」
と伊馬さんは本当に、心配そうな口調である。
「しかしまた、」主人は、ひどくもったい振って意見を述べる。「もう百年あとには、しちひゃくでもないし、ななひゃくでもないし、全く別な読みかたも出来ているかも知れない。たとえば、ぬぬひゃく、とでもいう――。」
私は噴き出した。本当に馬鹿らしい。主人は、いつでも、こんな、どうだっていいような事を、まじめにお客さまと話合っているのです。センチメントのあるおかたは、ちがったものだ。私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。どんなものを書いているのか、私は、主人の書いた小説は読まない事にしているので、想像もつきません。あまり上手でないようです。
おや、脱線している。こんな出鱈目(でたらめ)な調子では、とても紀元二千七百年まで残るような佳(よ)い記録を書き綴る事は出来ぬ。出直そう。
十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(そのこ/今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹(いぶき)を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、
「知ってるよ。知ってるよ。」
と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。芸術家というものは、勘(かん)の強いものだそうだから、何か虫の知らせとでもいうものがあったのかも知れない。すこし感心する。けれども、それからたいへんまずい事をおっしゃったので、マイナスになった。
「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」
私はがっかりした。主人は、どういうものだか地理の知識は皆無なのである。西も東も、わからないのではないか、とさえ思われる時がある。つい先日まで、南極が一ばん暑くて、北極が一ばん寒いと覚えていたのだそうで、その告白を聞いた時には、私は主人の人格を疑いさえしたのである。去年、佐渡へ御旅行なされて、その土産話に、佐渡の島影を汽船から望見して、満洲だと思ったそうで、実に滅茶苦茶だ。これでよく、大学なんかへ入学できたものだ。ただ、呆(あき)れるばかりである。
「西太平洋といえば、日本のほうの側の太平洋でしょう。」
と私が言うと、
「そうか。」と不機嫌そうに言い、しばらく考えて居られる御様子で、「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」
おっしゃる事みな変である。主人の愛国心は、どうも極端すぎる。先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹(かつお)の塩辛(しおから)ばかりは嘗(な)める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。
主人の変な呟(つぶやき)の相手にはならず、さっさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端(のきば)に干して置いたおむつも凍り、庭には霜が降りている。山茶花(さざんか)が凛(りん)と咲いている。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまっているのに、と不思議な気がした。日本の国の有難(ありがた)さが身にしみた。
井戸端へ出て顔を洗い、それから園子のおむつの洗濯にとりかかっていたら、お隣りの奥さんも出て来られた。朝の御挨拶をして、それから私が、
「これからは大変ですわねえ。」
と戦争の事を言いかけたら、お隣りの奥さんは、つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、
「いいえ、何も出来ませんのでねえ。」
と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。
お隣りの奥さんだって、戦争の事を思わぬわけではなかったろうけれど、それよりも隣組長の重い責任に緊張して居られるのにちがいない。なんだかお隣りの奥さんにすまないような気がして来た。本当に、之(これ)からは、隣組長もたいへんでしょう。演習の時と違うのだから、いざ空襲という時などには、その指揮の責任は重大だ。私は園子を背負って田舎に避難するような事になるかも知れない。すると主人は、あとひとり居残って、家を守るという事になるのだろうが、何も出来ない人なのだから心細い。ちっとも役に立たないかも知れない。本当に、前から私があんなに言っているのに、主人は国民服も何も、こしらえていないのだ。まさかの時には困るのじゃないかしら。不精(ぶしょう)なお方だから、私が黙って揃えて置けば、なんだこんなもの、とおっしゃりながらも、心の中ではほっとして着て下さるのだろうが、どうも寸法が特大だから、出来合いのものを買って来ても駄目でしょう。むずかしい。
主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、
「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」
と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」
と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。
台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程(これほど)までに敵愾心(てきがいしん)を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅(め)っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要(い)りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛(つら)い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐(いきがい)をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。
ラジオは、けさから軍歌の連続だ。一生懸命だ。つぎからつぎと、いろんな軍歌を放送して、とうとう種切れになったか、敵は幾万ありとても、などという古い古い軍歌まで飛び出して来る仕末なので、ひとりで噴き出した。放送局の無邪気さに好感を持った。私の家では、主人がひどくラジオをきらいなので、いちども設備した事はない。また私も、いままでは、そんなにラジオを欲しいと思った事は無かったのだが、でも、こんな時には、ラジオがあったらいいなあと思う。ニュウスをたくさん、たくさん聞きたい。主人に相談してみましょう。買ってもらえそうな気がする。
おひる近くなって、重大なニュウスが次々と聞えて来るので、たまらなくなって、園子を抱いて外に出て、お隣りの紅葉の木の下に立って、お隣りのラジオに耳をすました。マレー半島に奇襲上陸、香港(ホンコン)攻撃、宣戦の大詔(たいしょう)、園子を抱きながら、涙が出て困った。家へ入って、お仕事最中の主人に、いま聞いて来たニュウスをみんなお伝えする。主人は全部、聞きとってから、
「そうか。」
と言って笑った。それから、立ち上って、また坐った。落ちつかない御様子である。
お昼少しすぎた頃、主人は、どうやら一つお仕事をまとめたようで、その原稿をお持ちになって、そそくさと外出してしまった。雑誌社に原稿を届けに行ったのだが、あの御様子では、またお帰りがおそくなるかも知れない。どうも、あんなに、そそくさと逃げるように外出した時には、たいてい御帰宅がおそいようだ。どんなにおそくても、外泊さえなさらなかったら、私は平気なんだけど。
主人をお見送りしてから、目刺(めざし)を焼いて簡単な昼食をすませて、それから園子をおんぶして駅へ買い物に出かけた。途中、亀井さんのお宅に立ち寄る。主人の田舎から林檎(りんご)をたくさん送っていただいたので、亀井さんの悠乃(ゆの)ちゃん(五歳の可愛いお嬢さん)に差し上げようと思って、少し包んで持って行ったのだ。門のところに悠乃ちゃんが立っていた。私を見つけると、すぐにばたばたと玄関に駈け込んで、園子ちゃんが来たわよう、お母ちゃま、と呼んで下さった。園子は私の背中で、奥様や御主人に向って大いに愛想笑いをしたらしい。奥様に、可愛い可愛いと、ひどくほめられた。御主人は、ジャンパーなど召して、何やらいさましい恰好(かっこう)で玄関に出て来られたが、いままで縁の下に蓆(むしろ)を敷いて居られたのだそうで、
「どうも、縁の下を這(は)いまわるのは敵前上陸に劣らぬ苦しみです。こんな汚い恰好で、失礼。」
とおっしゃる。縁の下に蓆などを敷いて一体、どうなさるのだろう。いざ空襲という時、這い込もうというのかしら。不思議だ。
でも亀井さんの御主人は、うちの主人と違って、本当に御家庭を愛していらっしゃるから、うらやましい。以前は、もっと愛していらっしゃったのだそうだけれど、うちの主人が近所に引越して来てからお酒を呑む事を教えたりして、少しいけなくしたらしい。奥様も、きっと、うちの主人を恨(うら)んでいらっしゃる事だろう。すまないと思う。
亀井さんの門の前には、火叩きやら、なんだか奇怪な熊手のようなものやら、すっかりととのえて用意されてある。私の家には何も無い。主人が不精だから仕様が無いのだ。
「まあ、よく御用意が出来て。」
と私が言うと、御主人は、
「ええ、なにせ隣組長ですから。」
と元気よくおっしゃる。
本当は副組長なのだけれど、組長のお方がお年寄りなので、組長の仕事を代りにやってあげているのです、と奥様が小声で訂正して下さった。亀井さんの御主人は、本当にまめで、うちの主人とは雲泥(うんでい)の差だ。
お菓子をいただいて玄関先で失礼した。
それから郵便局に行き、「新潮」の原稿料六十五円を受け取って、市場に行ってみた。相変らず、品が乏しい。やっぱり、また、烏賊(いか)と目刺を買うより他は無い。烏賊二はい、四十銭。目刺、二十銭。市場で、またラジオ。
重大なニュウスが続々と発表せられている。比島、グワム空襲。ハワイ大爆撃。米国艦隊全滅す。帝国政府声明。全身が震えて恥ずかしい程だった。みんなに感謝したかった。私が市場のラジオの前に、じっと立ちつくしていたら、二、三人の女のひとが、聞いて行きましょうと言いながら私のまわりに集って来た。二、三人が、四、五人になり、十人ちかくなった。
市場を出て主人の煙草を買いに駅の売店に行く。町の様子は、少しも変っていない。ただ、八百屋さんの前に、ラジオニュウスを書き上げた紙が貼られているだけ。店先の様子も、人の会話も、平生とあまり変っていない。この静粛が、たのもしいのだ。きょうは、お金も、すこしあるから、思い切って私の履物(はきもの)を買う。こんなものにも、今月からは三円以上二割の税が附くという事、ちっとも知らなかった。先月末、買えばよかった。でも、買い溜めは、あさましくて、いやだ。履物、六円六十銭。ほかにクリイム、三十五銭。封筒、三十一銭などの買い物をして帰った。
帰って暫(しばらく)すると、早大の佐藤さんが、こんど卒業と同時に入営と決定したそうで、その挨拶においでになったが、生憎(あいにく)、主人がいないのでお気の毒だった。お大事に、と私は心の底からのお辞儀をした。佐藤さんが帰られてから、すぐ、帝大の堤さんも見えられた。堤さんも、めでたく卒業なさって、徴兵検査を受けられたのだそうだが、第三乙とやらで、残念でしたと言って居られた。佐藤さんも、堤さんも、いままで髪を長く伸ばして居られたのに、綺麗さっぱりと坊主頭になって、まあほんとに学生のお方も大変なのだ、と感慨が深かった。
夕方、久し振りで今(こん)さんも、ステッキを振りながらおいで下さったが、主人が不在なので、じつにお気の毒に思った。本当に、三鷹のこんな奥まで、わざわざおいで下さるのに、主人が不在なので、またそのままお帰りにならなければならないのだ。お帰りの途々(みちみち)、どんなに、いやなお気持だろう。それを思えば、私まで暗い気持になるのだ。
夕飯の仕度にとりかかっていたら、お隣りの奥さんがおいでになって、十二月の清酒の配給券が来ましたけど、隣組九軒で一升券六枚しか無い、どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが、九軒みんな欲しいという事で、とうとう六升を九分する事にきめて、早速、瓶(びん)を集めて伊勢元に買いに行く。私はご飯を仕掛けていたので、ゆるしてもらった。でも、ひと片附きしたので、園子をおんぶして行ってみると、向うから、隣組のお方たちが、てんでに一本二本と瓶をかかえてお帰りのところであった。私も、さっそく一本、かかえさせてもらって一緒に帰った。それからお隣りの組長さんの玄関で、酒の九等分がはじまった。九本の一升瓶をずらりと一列に並べて、よくよく分量を見較べ、同じ高さずつ分け合うのである。六升を九等分するのは、なかなか、むずかしい。
夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。園子のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴム鞠(まり)のように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花の様なおへそが附いている。足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になってしまう。どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。
銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。あの独活(うど)の畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かった。女学校四年生の時、野沢温泉から木島まで吹雪の中をスキイで突破した時のおそろしさを、ふいと思い出した。あの時のリュックサックの代りに、いまは背中に園子が眠っている。園子は何も知らずに眠っている。
背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはずれた歌をうたいながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ、特徴のある咳(せき)をしたので、私には、はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
と私が言ったら、
「なあんだ。」と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
と、どんどん先に立って歩きました。
どこまで正気なのか、本当に、呆(あき)れた主人であります。』
続きは次回に♥
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