2016-01-18 (Mon)

アルザスの伝統的な衣装
アルザス地域圏(アルザス語:Elsàss、アレマン語:Elsäß、標準ドイツ語:Elsass、フランス語・英語:Alsace)は、フランス北東部にかつて存在した地域圏。西側の大部分をかつてのロレーヌ地域圏と接し、残りはかつてのフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツとスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県とオー=ラン県二つの県を含む。アルザスの名前はドイツ語のEll-sassから取られている。地域圏最大の都市であるストラスブール(シュトラースブルク)を首府とする。アルザスはかつては神聖ローマ帝国の領地であり、17世紀から19世紀にかけて何度もフランスとドイツを行き来してきた。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【領土問題は日本だけではなく、もちろん世界中にある】。

たとえば、1870年の普仏戦争でプロイセンに負けたフランスは、ドイツとの国境にあったアルザス地方を失った。

昔、「最後の授業」という作品を国語の教科書で読んだ記憶のある人は多いだろう。
アルザスの学校でフランス語を教えてはならないことになり、フランス語教師が最後の授業を行いながら、そのうち悲しみで言葉が途絶え、黒板に「Vive la France!(フランス万歳!)」と書いて授業を終える。占領され、母国語を奪われたフランス人の怒りと悲哀が伝わってくる感動的な教材だった。

このおかげで私は、アルザスなどという遠い国の一地方の名を覚え、ここがフランス領であり、いままた、めでたくフランス領に戻ったのだと長い間信じていた。

だから、そのずっと後、アルザス地方の州府シュトラスブールを訪れたときも、国境を越えた途端に町の雰囲気ががらっとフランス風になったことに気がつき感銘を受け、「この地をドイツ領にしようなどとは、やはり無理な相談だったのだ」と思った。

しかし、少し歴史を勉強すると、【アルザス地方は紀元前1世紀にゲルマン民族が住み着き、中世からは神聖ローマ帝国に属していた】ことがわかる。


神聖ローマ帝国 領土の変遷
【神聖ローマ帝国というのは、ドイツ人の帝国】だ。

【住民のアルザス人はドイツ系で、当然、フランス語は話したことがなかった】。

しかし、17世紀になると、「三十年戦争」でボロボロに疲弊したドイツに代わり、フランス王国が力をつけ、膨張政策を進め、1680年、アルザス地方はフランス王国の領有となった。

ところが、【フランス領となっても、住民はアルザス語というドイツ語の方言を話していた】。ルイ14世が全盛を誇り、ヨーロッパ中の宮廷では、貴族と名がつけば猫も杓子もフランス語を話していた時勢にも、アルザスでは、公的な場所以外では、フランス語はほとんど根づかなかったという。

やがてフランス革命が起こり、ナポレオン・ボナパルトが現れ、そして、去る。ナポレオンにかき乱されたヨーロッパ秩序回復のためにウィーン会議が開かれ、アルザスがフランス領に留まることになったのが1815年だ。それでもアルザスで話されていたのは依然としてアルザス語で、【フランス語は学校の一科目として教えられていたに過ぎない】。

その五十余年のち、【普仏戦争でプロイセンがフランスを破り、ようやくアルザスを取り戻した】。そして、アルザスの学校のカリキュラムからフランス語が削除された。宿命の敵の言葉だから、当然のことだろう。

そこで、冒頭の「最後の授業」となるのだが、このときアルザスの学校では、フランス語は国語としてではなく、外国語として教えられていたということを知ると、「最後の授業」の趣はかなり変わってくる。

つまり【この作品は、アルザスを奪還されたフランスによる、かなり政治的な意味の込められた作品だった】のかもしれない、とも思えてくるのだ。

それにしてもわからないのは、【なぜ日本がこんなマイナーな作品を国語の教科書で取りあげたのか】ということ。それも1927年にである。「国を占領されるというのは、このように悲しいことですよ。だからこそ富国強兵で、言葉とお国を守りましょう」というメッセージだったのか?

あるいは、もうひとつ考えられるのは、その17年前に行われた韓国併合だ。日本統治下の朝鮮では急速な勢いで教育制度が整備され、学校が作られた。学校で用いられたのは日本語だったが、ハングルも必修となる。それにより、朝鮮人はハングルを習い、識字率は20年間で10%から65%にまで上昇した。
そうなると、「最後の授業」は、「日本はプロイセンと違い、よりよい占領政策を敷いていますよ」というメッセージであったとも考えられる。

このあと、アルザスはまだまだドイツとフランスの間を行ったり来たりする。第一次世界大戦でドイツが敗れると、アルザスは再びフランス領となるが、ことのとき、アルザスとロレーヌ地方の住人187万4000人のうち、163万4000人がドイツ語を母国語としていたという記録が残っている。

そして、アドルフ・ヒトラーが台頭すると、今度はフランス全体がドイツの占領下に入る。フランスが再び主権を取り戻し、アルザスを回復したのは、1945年のことである。』

いかがでしょうか?
みなさんは、この「最後の授業」という作品を、どのようにお感じになったでしょうか?

「最後の授業」は、1985年以降、私たち日本の国語の教科書に採用されていません。子供たちに、国家や領土、母国語、民族、世界史など、複数の事柄を多元的に考えさせることができる作品だと思います♥ 世の中、善か悪かみたいなキリスト教一神教的な見方では説明できない事柄が多いわけで、そういったことを考えさせて、議論させるのに適していますね♥
ところが、左巻きの単純左翼は、一神教的な断片的・断定的な見方でしか物事を考えることができないんです♥ 例えば、社会言語学者の田中克彦。

田中克彦
このヒトって、学者としての能力が著しく低いのですが、こんなトンデモ本も出しています♥

最も参考になるレビューを御紹介しておきますね♥
「 従軍慰安婦は朝鮮人(韓国人)だけが従軍慰安婦だった。日本人女性に従軍慰安婦はいなかったそうです。ではなぜ日本軍は朝鮮人女性だけを求めたのか?また日本軍以外は性の処理をする相手(慰安婦)が必要なく、なぜ日本軍だけが求めたのか?ということで思いつくままに語っていますね。20年前くらいなら通用したかもしれない知識で慰安婦問題を語る本を発行する意義が解りません。道楽かな?
また、東条英機を甦らせて、死者を著者の思い込みで語らせて政治利用しています。たとえば蘇った東条英機は「安倍君の参拝はめいわくだよ」なんて語ったそうな。死者の言霊を操れる霊媒師ですか。こんな本にどれだけの価値があるんでしょうか? 古本が出回ってから買えばよかった 」
ちなみに、このヒトの弟子に、李妍淑(りけんしゅく)なる韓国出身の社会言語学者がいます。「戦争と女性の人権博物館」建設の呼びかけ人でもあります♥
WHR日本建設委呼びかけ人
(50音順・敬称略 09/03/22現在)
李政美(歌手)
イ・ヨンスク(一橋大学教授) ⇒ 李妍淑(りけんしゅく)
池田恵理子(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」運営委員長)
石川真生(写真家)
鵜飼哲(一橋大学教授)
大森直樹(東京学芸大学教員)
川田文子(ノンフィクション作家/日本の戦争責任資料センター共同代表)
君塚仁彦(東京学芸大学教員)
金富子(VAWW-NETジャパン運営委員)
辛淑玉(人材育成コンサルタント)
高里鈴代(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)
高橋哲哉(東京大学教授)
鄭暎惠(大妻女子大学教員)
中野敏男(東京外国語大学教員)
中原道子(VAWW-NETジャパン共同代表)
西野瑠美子(VAWW-NETジャパン共同代表)
林博史(関東学院大学教授/日本の戦争責任資料センター研究事務局長)
朴慶南(作家)
吉見義明(中央大学教授)

☆WHR日本建設委呼びかけ人
で、そんな田中克彦が、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」が、実はもともとドイツ語文化圏の話であり、フランス・ナショナリズムの作品だ、としたんです♥ つまり、右翼作品だって、レッテル貼りをやったわけです♥ 田中克彦自身の極左的なところは棚上げにして♥

アルフォンス・ドーデ
アルフォンス・ドーデは、『アルルの女』などで有名なフランスの小説家です♥
以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 『アルルの女』(アルルのおんな、L'Arlésienne)は、ドーデの短編小説、およびそれに基づく戯曲。その上演のためビゼーが1872年に全27曲の付随音楽を作曲しており、ここから編まれた2つの組曲が広く知られている。
あらすじ
南フランス豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた女性に心を奪われてしまった。フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとする。それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。2人の結婚式の夜、牧童頭のミティフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝える。物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つ。」
レビューがこちら♥
「 戯曲版の『アルルの女』です。題名になっている「アルルの女」は、作中には一度も登場せず、名前すら出てきません。でも存在感は圧倒的ですらあります。『アルルの女』といえば、ビゼーの組曲の方がかえって有名かもしれません。戯曲の展開を知った上で聴けば、アダージェットやファランドールなど10倍は楽しめるはずです。プロヴァンスの美しい自然の中で繰り広げられる物語はかなり激しい内容ですが、その中で翻弄される人々の心の動きには胸を打たれます。息子を心配する母の気持ちはローヌ河よりも深遠で、村娘ヴィヴェットの純情は可憐で萌えます。老僕バルタザールとルノー婆さんの短い一幕は喩えようもなく美しく、謎めいた白痴の存在は作品全体に文学的奥行きを与えます。活字の戯曲として読めばあっという間です。 」
「 この本が古書でないと入手できないということ自体が驚きです。フランス文学では基本的な作品ですから。でもおかげさまで予期したよりもきれいな状態で届いたので、とても満足です。」
これが右翼と思えますか♥ 左巻きの単純左翼の田中克彦は、こんな偉大な作家の作品にレッテル貼りをしたんです♥

田中克彦
田中克彦のレッテル貼りは、アルフォンス・ドーデの長男、レオン・ドーデが、ジャーナリストかつアクション・フランセーズの活動家だったことにヒントを得たものだったんでしょうか? アルフォンス・ドーデ本人とは、まったく関係がありません♥
以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 アクション・フランセーズ(Action Française)とは、1894年に発生したドレフュス事件を契機として組織された、フランスの王党派のナショナリズム団体である。シャルル・モーラスなどの反ドレフュス派の知識人を中心に結成され、間もなく王政支持に転向。最も徹底した反共和主義の運動として相当の影響力を持った。「アクション・フランセーズ」の名は「フランス的行動」を意味し、1899年に創刊された同名の機関紙に由来する。」
で、田中克彦が、アルザスはもともとドイツ語文化圏であって、「最後の授業」はフランス・ナショナリズムの作品だって決めつけたわけなんですけど、そのアルザス人自身は、こんな感じでした♥
以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 アルザス人(アルザス語: Elsässer, Elsässi, アレマン語: Elsäßer, 標準ドイツ語: Elsässer, フランス語: Alsacien)とは、フランスのアルザス地方に住むアルザス語を話すドイツ系の民族。アルザス・ドイツ人ともいい、ドイツ系フランス人の大部分を占める。
アルザスの中心都市はストラスブール(ドイツ名シュトラスブルク)である。 いまではライン川をはさんでドイツと国境を接しているこの地域は、元来ドイツの前身である神聖ローマ帝国の支配下にあり、フランス領になったのはスペイン継承戦争以後である。これ以降、アルザス人は『ブルボン家に仕えるドイツ人』と呼ばれるようになった。
フランス領になってからは「フランス化」が進められたが、普仏戦争でドイツに再統合された。しかし、140年も及ぶフランス支配の帰結として、他のドイツ人とアルザス人との間には文化的・政治的意識のズレが生じ、ツァーベルン事件を機にドイツ人に侮辱されたアルザス人自身はドイツを完全な祖国と見なさない場合が多くなった。他のドイツ人からはアルザス人はフランス文化に汚されていると見なされ、アルザス人は徐々に他のドイツ人と違った独自のアイデンティティーを模索するようになった。
第一次世界大戦後、アルザスは再びフランス領となったが、第二次世界大戦においてナチス・ドイツはアルザスを奪回し、一時的に支配下に置いた。しかし、ドイツの敗戦と共にアルザスは再々度フランス領となり、今に至る。
このように度々フランスとドイツの紛争地となったこともあり、アルザス人の間には国民意識というより地域意識といえるような独自のアイデンティティーが形成されていった。」
行き場をなくした、ネーションをなくしたエスニックの問題のように見えてきますね♥
さて、『最後の授業』は、1873年出版のアルフォンス・ドーデによる短編小説集『月曜物語』の1編で、その『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載されていたものです♥
左巻きの田中克彦が、この作品に「右翼」のレッテルを貼った理由、それが1871年3月26日の「パリ・コミューン」です♥ 当時のフランスの状況を理解するためには、この出来事を知っておく必要があります♥ つまり、史上初の「プロレタリアート独裁」(マルクス)による自治政府を宣言したパリ市の自治市会(革命自治体)です♥ ここから目を逸らせるためのレッテル貼りだと言えます♥

コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード
以下は、Wikipediaの抜粋です。
「 パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris CommuneまたはFourth French Revolution)は、パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(la Commune)のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」(マルクス)による自治政府を宣言したパリのコミューン(la Commune de Paris 1871)について説明する。
このパリ・コミューンは約2ヶ月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。
1789年のフランス革命以来、1871年まで、フランスでは共和政体が2度(第一共和制および第二共和制)見られたが、いずれも短命に終わり、残りの長い年月は第一帝政、復古王政、7月王政、第二帝政といった君主制が続いていた。しかし、第2帝政下の1870年7月に皇帝ナポレオン3世はプロイセンとの戦争(普仏戦争)で敗北を喫し、そのうえセダンの戦いにおいて皇帝自身も捕虜となったことが伝わった。 過激派の跳躍に危機感を抱いた穏健的共和派の議員が1870年9月4日、共和国宣言を行い臨時の国防政府が設けられることとなり、ここに第二帝政は崩壊した。
国防政府下で戦争は続行。急遽国民衛兵が召集されパリ防衛にあたることとなった。1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲された。
その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。パリ市内のガス灯は消え、街路樹を切り倒し薪とし、馬車の馬を喰い、犬、猫、鼠が肉屋に並んだ。。そんな中、とどめを刺すようにプロイセン軍は市内への砲撃をはじめた。パリ市民はドイツ人に憎悪を抱くようになる。1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定に調印した。
2月8日国民議会選挙がおこなわれた。2月12日国民議会がパリを避けるようにボルドーで招集され、降伏後の和平交渉を担う穏健的共和派のティエールを首相とする臨時政府が誕生した。
議会はアルザス=ロレーヌの割譲、および50億フランの賠償金という条件を講和派の多数決により承認した。パリ包囲に対して多大な犠牲を払った抗戦派は、この決定に憤慨し議席を去った。
1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入市した。
1871年3月18日ティエールはパリの治安回復を目的とする武装解除の先端として、パリ防衛の重要な堡塁であったモンマルトルの丘から、国民衛兵が所持するパリ市民の寄付による大砲200門余を取り除く指示を下した。 ルコント将軍とパチュレル将軍指揮の下大砲の撤去を実施するが、これを偶然目撃した女性兵士の一群が撤去に抵抗した。将軍は配下の兵に発砲を命じたが命令は無視され、 ルコント将軍は国民衛兵により捕虜となった。軍の一部はコミューンに合流し、ティエールは軍と政府関係者をひきつれ、ヴェルサイユに待避した。 捉えられた将軍のなかに以前1848年6月のパリ蜂起で労働者の弾圧を行ったクレマン・トマ将軍がいたため、ルコント将軍ともども猛る群集によって殺害された。 この事件は反乱した暴徒による非道としてヴェルサイユ政府のプロパガンダに使われ、議会とヴェルサイユ政府軍のコミューンへの憎悪を掻き立てた。これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵中央委員会が埋めることとなった。

国家機構から放棄されたパリ市民は、国民衛兵中央委員会の下でコミュニティを通じて、自発的に行政組織を再稼動させた。 国民衛兵中央委員会は自らの権力基盤を正当化するために3月26日パリ市民による代表制普通選挙が行われた。その後1871年3月28日にパリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日までパリを統治することとなる。その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合の設立、女性参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、失業や破産などによる社会保障などの革新的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた。」

「 パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。 逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワジ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。
国民衛兵中央委員会の一部に第一インターナショナルが参加していたことから、カール・マルクスはコミューン崩壊の2日後、『フランスの内乱』を執筆し、コミューン戦士の名誉を擁護するとともに、コミューンの事業からプロレタリア革命理論を抽出した。この著作の中でマルクスはコミューンを労働者階級のための国家と規定し、共産主義革命におけるプロレタリア独裁の歴史的必然性を説いた。」

カール・マルクス
要するに、田中克彦は、コレっていうことですね♥


うんざりですね♥

続きは次回に♥
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