2015-12-21 (Mon)

福沢諭吉
脫亞論
世界交通ノ道便ニシテ西洋文明ノ風東ニ漸シ到ル處草モ木モ此風ニ靡カザルハナシ蓋シ西洋ノ人物古今ニ大ニ異ルニ非ズト雖ドモ其擧動ノ古ニ遲鈍ニシテ今ニ活發ナルハ唯交通ノ利器ヲ利用シテ勢ニ乘ズルガ故ノミ故ニ方今東洋ニ國スルモノヽ爲ニ謀ルニ此文明東漸ノ勢ニ激シテ之ヲ防キ了ル可キノ覺悟アレバ則チ可ナリト雖ドモ苟モ世界中ノ現狀ヲ視察シテ事實ニ不可ナルヲ知ラン者ハ世ト推シ移リテ共ニ文明ノ海ニ浮沈シ共ニ文明ノ波ヲ掲ケテ共ニ文明ノ苦樂ヲ與ニスルノ外アル可ラザルナリ文明ハ猶麻疹ノ流行ノ如シ目下東京ノ麻疹ハ西國長崎ノ地方ヨリ東漸シテ春暖ト共ニ次第ニ蔓延スル者ノ如シ此時ニ當リ此流行病ノ害ヲ惡テ之ヲ防カントスルモ果シテ其手段アル可キヤ我輩斷ジテ其術ナキヲ證ス有害一偏ノ流行病ニテモ尚且其勢ニハ激ス可ラズ况ヤ利害相伴フテ常ニ利益多キ文明ニ於テヲヤ啻ニ之ヲ防カザルノミナラズ力メテ其蔓延ヲ助ケ國民ヲシテ早ク其氣風ニ浴セシムルハ智者ノ事ナル可シ西洋近時ノ文明ガ我日本ニ入リタルハ嘉永ノ開國ヲ發端トシテ國民漸ク其採ル可キヲ知リ漸次ニ活潑ノ氣風ヲ催フシタレドモ進歩ノ道ニ横ハルニ古風老大ノ政府ナルモノアリテ之ヲ如何トモス可ラズ政府ヲ保存セン歟、文明ハ决シテ入ル可ラズ如何トナレバ近時ノ文明ハ日本ノ舊套ト兩立ス可ラズシテ舊套ヲ脫スレバ同時ニ政府モ亦廢滅ス可ケレバナリ、然ハ則チ文明ヲ防テ其侵入ヲ止メン歟、日本國ハ獨立ス可ラズ如何トナレバ世界文明ノ喧嘩繁劇ハ東洋孤島ノ獨睡ヲ許サヾレバナリ是ニ於テカ我日本ノ士人ハ國ヲ重シトシ政府ヲ輕シトスルノ大義ニ基キ又幸ニ帝室ノ神聖尊嚴ニ依頼シテ斷シテ舊政府ヲ倒シテ新政府ヲ立テ國中朝野ノ別ナク一切萬事西洋近時ノ文明ヲ採リ獨リ日本ノ舊套ヲ脫シタルノミナラズ亞細亞全洲ノ中ニ在テ新ニ一機軸ヲ出シ主義トスル所ハ唯脫亞ノ二字ニ在ルノミ
我日本ノ國土ハ亞細亞ノ東邊ニ在リト雖ドモ其國民ノ精神ハ既ニ亞細亞ノ固陋ヲ脫シテ西洋ノ文明ニ移リタリ然ルニ爰ニ不幸ナルハ近隣ニ國アリ一ヲ支那ト云ヒ一ヲ朝鮮ト云フ此二國ノ人民モ古來亞細亞流ノ政敎風俗ニ養ハルヽヿ我日本國ニ異ナラズト雖ドモ其人種ノ由來ヲ殊ニスルカ但シハ同樣ノ政敎風俗中ニ居ナガラモ遺傳教育ノ旨ニ同シカラザル所ノモノアル歟、日支韓三國相對シ支ト韓ト相似ルノ狀ハ支韓ノ日ニ於ケルヨリモ近クシテ此二國ノ者共ハ一身ニ就キ又一國ニ關シテ改進ノ道ヲ知ラズ交通至便ノ世ノ中ニ文明ノ事物ヲ聞見セザルニ非ザレドモ耳目ノ聞見ハ以テ心ヲ動カスニ足ラズシテ其古風舊慣ニ戀々スルノ情ハ百千年ノ古ニ異ナラズ此文明日新ノ活劇塲ニ敎育ノ事ヲ論ズレバ儒教主義ト云ヒ學校ノ敎旨ハ仁義禮智ト稱シ一ヨリ十ニ至ルマデ外見ノ虚飾ノミヲ事トシテ其實際ニ於テハ眞理原則ノ知見ナキノミカ道徳サヘ地ヲ拂フテ殘刻不廉耻ヲ極メ尚傲然トシテ自省ノ念ナキ者ノ如シ我輩ヲ以テ此二國ヲ視レバ今ノ文明東漸ノ風潮ニ際シ迚モ其獨立ヲ維持スルノ道アル可ラズ幸ニシテ其ノ國中ニ志士ノ出現シテ先ヅ國事開進ノ手始メトシテ大ニ其政府ヲ改革スルヿ我維新ノ如キ大擧ヲ企テ先ヅ政治ヲ改メテ共ニ人心ヲ一新スルガ如キ活動アラバ格別ナレドモ若シモ然ラザルニ於テハ今ヨリ數年ヲ出デズシテ亡國ト爲リ其國土ハ世界文明諸國ノ分割ニ歸ス可キヿ一點ノ疑アルヿナシ如何トナレバ麻疹ニ等シキ文明開化ノ流行ニ遭ヒナガラ支韓兩國ハ其傳染ノ天然ニ背キ無理ニ之ヲ避ケントシテ一室内ニ閉居シ空氣ノ流通ヲ絶テ窒塞スルモノナレバナリ輔車唇齒トハ隣國相助クルノ喩ナレドモ今ノ支那朝鮮ハ我日本國ノタメニ一毫ノ援助ト爲ラザルノミナラズ西洋文明人ノ眼ヲ以テスレバ三國ノ地利相接スルガ爲ニ時ニ或ハ之ヲ同一視シ支韓ヲ評スルノ價ヲ以テ我日本ニ命ズルノ意味ナキニ非ズ例ヘバ支那朝鮮ノ政府ガ古風ノ專制ニシテ法律ノ恃ム可キモノアラザレバ西洋ノ人ハ日本モ亦無法律ノ國カト疑ヒ、支那朝鮮ノ士人ガ惑溺深クシテ科學ノ何モノタルヲ知ラザレバ西洋ノ學者ハ日本モ亦陰陽五行ノ國カト思ヒ、支那人ガ卑屈ニシテ耻ヲ知ラザレバ日本人ノ義俠モ之ガタメニ掩ハレ、朝鮮國ニ人ヲ刑スルノ慘酷ナルアレバ日本人モ亦共ニ無情ナルカト推量セラルヽガ如キ是等ノ事例ヲ計レバ枚擧ニ遑アラズ之ヲ喩ヘバ比隣軒ヲ並ベタル一村一町内ノ者共ガ愚ニシテ無法ニシテ然カモ殘忍無情ナルトキハ稀ニ其町村内ノ一家人ガ正當ノ人事ニ注意スルモ他ノ醜ニ掩ハレテ堙沒スルモノニ異ナラズ其影響ノ事實ニ現ハレテ間接ニ我外交上ノ故障ヲ成スヿハ實ニ少々ナラズ我日本國ノ一大不幸ト云フ可シ左レバ今日ノ謀ヲ爲スニ我國ハ隣國ノ開明ヲ待テ共ニ亞細亞ヲ興スノ猶豫アル可ラズ寧ロ其伍ヲ脫シテ西洋ノ文明國ト進退ヲ共ニシ其支那朝鮮ニ接スルノ法モ隣國ナルガ故ニトテ特別ノ會釋ニ及バズ正ニ西洋人ガ之ニ接スルノ風ニ從テ處分ス可キノミ惡友ヲ親シム者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ我レハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絶スルモノナリ
明治18年(1885年)3月16日
参考現代語訳
世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。ゆえに最近、東洋に国がある民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世の移りにあわせ、共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。文明とは全く、麻疹(はしか)の流行のようなものだ。 目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。 この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 筆者はその手段は断じてないことを保証する。有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。 いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。 これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが知識人の課題である。
近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。 だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。 「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。
そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。
以上は、Wikisource からの転載
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 明治初期最大の言論人といえば、【脱亜論で知られる福沢諭吉】です。最近の研究者は、脱亜論と言われるようになった『時事新報』の論説が無署名で、福沢が書いたものかどうかということにこだわっているようですが、どうでもいいことです。

福沢諭吉
福沢は早くから【朝鮮の開化派と親交を持ち、慶応義塾に留学生を受け入れ】ていました。私財を投じて彼らの面倒を見て、ソウルに新聞『漢城旬報』を作ります。李朝がまったく顧みていない、【ハングルの普及】にも努めました。政変の後、刺客に追われる【金玉均(きんぎょくきん)】や朴泳孝をかばったりもします。【筋金入りの親韓派】です。

日本亡命中の金玉均(1885年)
しかし【甲申事変の後、閔(みん)氏が開化党の家族を凌遅刑(りょうちけい)にした】という報を聞き、【激烈に朝鮮を罵倒】します。

「朝鮮はこの世の地獄だ」「朝鮮人民の為に、李氏が滅びるのを望む」という調子です。【凌遅刑とは、体中の皮膚を削ぎ落としながら苦しめて殺すという拷問】で、【朝鮮では最大級の刑罰】です。

死刑は最高刑ではなく、その上に「苦しめて殺す」があるのです。

私の好きな国と嫌いな国の基準は単純で、その国の真人間が報われているかどうかです。李氏朝鮮は明らかに大嫌いな国です。…
【開化党は、教育と軍事、それを支える経済が国の根幹だとわかっている】のです。しかし、【そのような真人間は報われません】。とはいうもののの、その連中もアメリカの力を頼ろうとするのですから、やはり福沢諭吉のように怒りたくなる気持ちもわかります。

国内政治でも、国際政治でも、原理は基本的に同じで、相手を利用するか、されるかです。また、相手を利用するということは、利用されるということでもあるのです。
だから、金玉均を「親日派だからいい人だ」とか、「アメリカにも色目を使っていたから悪い人だ」ということ自体がナンセンスなのです。金玉均たちが政治家として指弾されるべきは、義理堅い日本人を無視して、アメリカに接触して何の成果も得られなかったことです。結果責任を伴わないというのは、李氏朝鮮のすべての政治家に言えます。

竹添進一郎
さて、明治17年(1884年)12月4日、竹添進一郎日本公使の協力を得て【金玉均らの閔氏政権に対するクーデターが敢行】されます。【甲申事変】です。これは日本政府の統一意志ではなく、竹添の独断です。むしろエスピオネーゼ(裏工作)に属することなので、公式決定をするなどありえません。
それはともかく、【金玉均は日本のような改革を行おうとします】。そこでまず、「国王【殿下】の呼称の廃止」「清への【朝貢】の中止」を宣言します。韓国の愛国者なら、まず言いたくなるような正論です。しかし、正論ですが、何の根回しもせずに行えば、宗主国を気取る清に喧嘩を売るようなものです。「時期を見誤った正論はただの暴論」を地で行くような計画性のなさです。

幽閉中の大院君(1883年)
当時の清は、ベトナムをめぐりフランスと交戦中で、朝鮮にはかかわれないと思われていたのですが、運悪く直前に戦闘が終了してしまいます。しかも清はフランスに負けてベトナムでの影響力を失ってしまったので、朝鮮への執着を深めます。手駒としては軟禁中の【大院君】がいます。

閔妃
こうした情勢で先に動いたのが閔妃(みんぴ)でした。失脚した閔妃は、袁世凱の軍事力を頼って開化派に逆襲します。日本軍150人に対し、清軍1500人が取り囲み、銃撃戦になります。日本公使館は、またもや焼き打ちに遭ってしまいました。竹添公使は長崎へ脱出し、首謀者の金玉均や朴泳孝は日本へ亡命します。クーデターは3日で失敗しました。

袁世凱
このとき、【開化派要人の三親等以内の家族が凌遅刑にされ、福沢が激怒した】のです。

洪鐘宇に殺害される金玉均
【閔氏は海外にまで暗殺団を派遣し、金玉均は上海で射殺されて、遺体は凌遅刑にされ、さらに体を五つに裂かれ、それぞれ別の場所でさらされました】。

「大逆不道玉均」として河原に晒された金玉均。(1894年)
結局、清の後ろ盾を得たほうが勝つというのが朝鮮宮廷の政治なのです。開化党と対立した閔妃は清の後ろ盾を獲得して権力を維持します。

金玉均の墓(青山霊園)
一方、【日本に倣って改革を行おうとする真人間は非業の最期を遂げた】のです。』

いかがでしょうか?
朝鮮では、真人間が報われないってことが、御理解いただけましたでしょうか♥
さて、ここからは前回の続きです。
戦後の教育において、現在も継続されている懸念すべき問題があります。
それは、私たちの日本にとって、本来は、一連の流れとして存在している『歴史』を、都合良く区切る、そのうえで意図した通りのストーリーが出来上がり、それを『歴史』として子供たちが教えられていることです。

まず「学習指導要領」を、確認してみましょう♥
こちらで、読むことができます。
↓
☆文部科学省 中学校学習指導要領解説
学習指導要領には、時代ごとに「区切って」、このように教育指導にあたりなさい、って書かれてあります。
具体的には、このように区切られています♥

12世紀頃までを、「古代」としていますね♥

12世紀頃~16世紀頃までを、「中世」としていますね♥

16世紀頃~19世紀前半頃までを、「近世」としていますね♥

19世紀頃~20世紀前半頃までを、「近代」としていますね♥

大東亜戦争(表記は第二次世界大戦ですけどw)以後を、「現代」としていますね♥
で、この「古代」、「中世」、「近世」、「近代」といった時代の定義が、実は、まったく定まっていませんw
そもそも定義することに無理があるのに、都合良く勝手な解釈をして、さもそうであるかのように「区切っている」だけなんです♥

こういった歴史の区分の始まりは、ルネサンス期にありました。当時の時代区分では、「古代」、「中世」、「近代」の3つだけでした。
異民族であるゲルマン民族が4世紀~5世紀に、キリスト教のローマ帝国の領域に侵入・侵略を行い、やがてそれが現在のヨーロッパの原型となっていきますが、宗教も言語も本質的に異なるゲルマン民族が次第にキリスト教化され、もともと異民族であった彼らが、「古代」ギリシャ・ローマを受け継いでいると思い込んで、次のような妄想を始めました。
【古代】ギリシア・ローマ時代こそ理想であり、【近代】であるルネサンス期(つまり当時の現代ですね♥)が、その古代文明の再生の時代であって、古代と近代に挟まれた時代は、理想とする古代の文明が中断された時代で、その時代を【中世】と呼ぼう、と。
ですから歴史や文化が、ギリシア・ローマと、異民族ゲルマンとの間で分断が生じているのは当然であって、近代であるルネサンス期に、異民族ゲルマンが新しい歴史を刻みはじめ、新しいキリスト教文化を生み出した、っていうことなんです♥
ですから、私たちの日本に、ルネサンス人文主義者が唱えた歴史区分・三分法を当てはめようとすること、それ自体に無理がある、というのが前回までのお話でした♥
で、その三分法が、その後、さらに歪に変化することになりました♥
では、どういった歴史区分になっているのでしょう?

以下は、Wikipediaの抜粋です♥
「 歴史の時代区分によく用いられる古代、中世、近代という3区分法はヨーロッパの歴史を分析するために考え出された。この区分法の起源は、ルネサンスの人文主義者たちが、古代ギリシア・ローマ時代を理想とし、ルネサンスはその古代文明の再生であり、その間の中世を古代の文明が中断された暗黒時代と捉えたのがそもそもの始まりである。今日では、中世を「暗黒時代」と捉える歴史学者は皆無であるが、当時においては、このようにして栄光のギリシャ・ローマの時代を「古代」、「暗黒時代」の「中世」、そして今(ルネサンスの時代)を「近代」とする3区分法が用いられるようになった。
ルネサンス以降もこの3区分法は用いられつづけ、つい最近までヨーロッパの時代区分はこの3区分が一般的であった。しかし、歴史学の研究が進展する中で、中世と近代の間に「近世」を挟む提案がなされた。これは広く歴史学者に受け入れられ、現在では古代、中世、近世、近代の4区分が一般的に用いられるようになった。
古代、中世、近世、近代の境界は概ね以下の通りである。
古代 - 中世: 西ローマ帝国の滅亡
中世 - 近世: 東ローマ帝国の滅亡、ルネサンス、大航海時代、宗教改革
近世 - 近代: 市民革命(特にフランス革命)、産業革命
なお、近代と現代の境界については、1980年代までは1914年の第一次世界大戦の開始以降を現代とする区分が一般的であった。しかし、1990年代以降は、1989年のベルリンの壁崩壊とそれに伴う冷戦の終結までを近代の枠組みの中で捉えることが多くなってきている。」

つまり、異民族のゲルマン民族の侵略によって西ローマ帝国が滅亡(5世紀後半)する前を古代、滅亡後を中世としていて、

ローマ帝国の領域の変遷
13世紀~14世紀の異民族であるモンゴルの襲来を受け、やがて東ローマ帝国が滅ぶ(15世紀中葉)頃から近世としています♥ルネサンス期でもありますね♥

そしてこの近世は、大航海時代という名の「白人による海外侵略、植民地化の時代」でもあります♥
で、18世紀後半のフランス革命からを近代としています♥

『民衆を導く自由の女神』(1830年、ウジェーヌ・ドラクロワ画)
なぜ、このようになったのでしょう?
考え出したのが、ユダヤ人のマルクスです♥

カール・マルクス
「 西洋史学の三分法をもとに、19世紀にはマルクス主義による歴史観がつくられました。「古代」は「奴隷制」の時代。「中世」は「封建制」で農奴の時代。「近代」は「資本主義」で労働者の時代。そしてそのいずれの時代においても人民は搾取されているという生産様式の矛盾した歴史を説きました。それが「進歩史観」と結びついて、「中世」の「暗黒」史観が生まれたのです。
こうした歴史の見方を、現在でも多くの歴史家たちが信じているようですが、そのような搾取の歴史の中からは、…偉大な「文化」は生まれません。強制からは、…大きなモニュメントも生まれようがないのです。「自由」があってこそ、こうした「文化」が生まれ、階級よりも「役割分担」の社会があったからこそ、長い間「社会」が安定してきたのです。統治者はいつの時代でも必要ですし、働く人民は決して圧迫されてきたわけではありません。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆日本に「中世」は、ありません♥

画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ マルクス主義と天皇制ファシズム論
しかし、このマルクス的な考え方・理論は、すでに完全に破綻しているんです♥

「 マルクスは、新たなイデオロギーを提示しました。
ドイツの地方生まれのユダヤ人であるマルクスは、市民革命が相次いだ時代にヨーロッパを転々として赤貧生活を送っていました。そして、わかりやすくいえば、「貧乏人は救われる」「虐げられている人たちに正義がある」「労働者は団結しろ」「既得権益者をやっつけろ」というようなことを説いていったのです。
「それならば、マルクス主義は宗教なのではないですか?」と質問する人もいますが、そう感じるのも当然です。
マルクスの主張の根本はかなり宗教に近いものだったといえるのです。あと2百年もすれば、宗派のひとつとして捉えられているのではないかと私は思います。
マルクス主義は、資本主義社会の矛盾を指摘し、社会主義社会へと移行する必然性を説いた思想体系です。
世の中は、原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近世資本主義→未来共産制と移り変わっていくという「発展段階論」がマルクス主義の軸となっています。そうした経済活動のあり方と変化が歴史を前進させる原動力となるという考え方が「唯物史観」です。
こうしたイデオロギーは宗教にも似ているうえに、現在の「進歩史観」に大きな影響を与えています。
古代から現代へ向けて社会が良くなっていく過程として中世を位置づけたマルクスは、それぞれの時代を経済の仕組みと重ねて語っています。
その発展段階においても多くの疑問が持たれます。
「それならば日本の古代はどう考えればいいのか?」と、まず問いたいところです。
飛鳥時代に奴隷がいなかったわけではありませんが、マルクス主義者と呼ばれる人たちは皇帝がいるところには必ず奴隷がいるというような極端な見方をします。
そのため、天皇制がある日本を古代のままであるようにも解釈するのだから始末に負えません。天皇制がある限り、未来共産制が来ないので廃止しろ、といったことまでを言い出してしまうのがマルクス主義者です。
奴隷がいれば古代になるとするなら、「アメリカは南北戦争まで古代だったのか?」ということにもなります。南北戦争は1861年から1865年まで続いたので、日本でいえば、明治維新を目の前にしていた時期です。
封建制が中世の区切りになるなら、始皇帝が封建制の世を改めたシナでは、「秦の時代(秦による統一は紀元前221年)から現代だったのか?」ということにもなってきます。
カザフスタンやモンゴルは、ロシア革命のあと間もなく社会主義になっていますが、その過程に中世封建制があったかといえば、その点でも難しい問題が出てきます。マルクスのいう封建制つまりフューダリズムは、ドイツのエルベ河から西、フランスのロワール河から北のあいだにしかなかった現象で、騎士が自分の領地の一部を有力な君主に献上して、その見かえりに保護を受ける契約を結ぶことでした。そこでカギとなるのは土地所有をめぐる関係性です。
しかし、遊牧民にはもともと土地所有のという概念がないのです。
カザフやモンゴルでは遊牧民に封建制があったといえるのかという議論が長く続けられてきましたが、その結論は出ていません。
主人と家来の関係はあったことから中世封建制はあったと見ることはできますが、さすがに近世資本主義は経験していません。それでモンゴルでは『資本主義を飛び越えて』(B・シレンデブ大統領著)という本が書かれているくらいです。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆マルクス主義は、キリスト教の鬼っ子
御理解いただけましたでしょうか?
『歴史』を都合良く区切り、あらかじめ意図した通りのストーリーを描いて、それを高尚な理論のように見せかけているのが、マルクス主義者の大罪です♥
そして、私たち日本の戦後の教育において、現在も継続されている懸念すべき問題。
それは、このマルクス主義、あるいは隠れマルクス主義に基づいて、日本にとって、本来は、一連の流れとして存在している『歴史』を、都合良く区切り、そのうえで意図した通りのストーリーを描き、それを『歴史』として子供たちに教えているっていうことなんです♥
「隠れマルクス主義」については、こちらをご参照♥
↓
☆日本のリベラルと世界のリベラルの違い ~ 21世紀は伝統回帰の時代です
どれほど歪な形で、私たちの日本の歴史が区切られているかは、学習指導要領を読めば明白です♥
具体的に、目に見える形で、表にしてみると、こんな感じになるんですよ♥

皆さんの「古代」のイメージと、学習指導要領の「古代」は、一致していますでしょうか?
おかしくありませんでしょうか?
続きは次回に♥
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