2015-11-16 (Mon)

ジョゼフ・ラドヤード・キップリング (Joseph Rudyard Kipling, 1865年12月30日 - 1936年1月18日) は、イギリスの小説家、詩人で、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られる。ボンベイ (ムンバイ) 生まれ。19世紀末から20世紀初頭のイギリスで最も人気のある作家の一人で、代表作に小説『ジャングル・ブック』『少年キム』、詩『マンダレー』など。「短編小説技巧の革新者」とみなされ、児童向け作品は古典として愛され続けており、作品は「多彩で光り輝く物語の贈り物」と言われる。1907年にノーベル文学賞を、41歳の史上最年少で、イギリス人としては最初に受賞。他にイギリス桂冠詩人、爵位などを打診されたが辞退している。
「少年キム」が単行本として発刊されます♥
「少年キム」については、こちらをご参照♥
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☆The Great Game
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 『白人の重荷』の中で第三世界の民を「愚かで残忍」と表現したラドヤード・キプリングは、【日本人については「白人キリスト教徒より慈悲と礼節を知る民」と言い、鎌倉の大仏の掌に乗って騒ぐ「軽薄でみっともない米国人」と対比させていた】。

The white man's burden (白人の重荷)
その軽薄な米国人の1人で日本問題専門家という【ジョン・ダワー】はキプリングが見た日本は「その後、突然狂い出し、残忍になって自滅した」と規定している。

立派な日本人がある日発狂して、性格も残忍になったなんてジキル博士とハイド氏みたいだが、【ダワーはなぜ日本がハイド氏に変わったのか、その理由もワケも一切書いていない】。

書いているのはハイド氏になった日本人の姿で、例えば南京では「6週間にわたって無辜(むこ)の民20万人を殺した」と見てきたように言う。


軽薄な日本問題専門家ジョン・ダワー
支那では70万年前の北京原人の骨も出た。劉邦と戦った項羽の銅剣も出たのに、【南京からは一体の骨も出ていない】。

米人宣教師が死屍累々(ししるいるい)と言った南京の大通りを同じ日、日本軍が堂々入城した写真がある。周りはきれいなものだ。

南京入城
【ダワーはその食い違いは語らない】で、別の日本軍の残虐を語る。
「日本軍は赤ん坊を投げ上げて銃剣で刺した」
「病院を襲って医師も患者も殺し、看護婦を犯した」
という米紙報道を取り上げる。
【そっくり同じことを第一次大戦時、ドイツ兵の残虐行為として米紙が報じた】。戦後、それを検証してみたら【みんな嘘だった】。

曰くつきの話だ。当然検証するのかと思ったらダワーは、
「第一次大戦で流布された噂を想起させるが、日本軍についての報道に嘘はない」
で済ませる。【なんでそう断定できるのか、ダワーはその証拠も示さない】。

しかしそう規定した彼の著作『敗北を抱きしめて』は、権威ある【ピューリッツァー賞を受賞】し、さらに歴史資料の価値を認める【バンクロフト賞から全米図書賞まで受賞】した。
つまりこの「発狂した日本」と「残忍な日本」が歴史的事実に昇格したということだ。【慰安婦を語った吉田清治の嘘が権威ある国連報告書に引用】されることで、国際社会で事実と認定されていった経緯に似る。

実際、ダワーのピューリッツァー賞受賞でいまニューヨークタイムズ紙やフォーリン・アフェアズ誌はダワーの規定に沿って南京大虐殺も慰安婦も七三一部隊もみな真実として扱い、日本攻撃を続ける。
「お前は残忍だった」と【根拠のない捏造話で、それも半世紀以上も誹謗し続ける】のは考えてみれば実に異様なことだ。

南京市民に歓迎される日本軍
なぜそんな異常事態が繰り返されるのか。【米国には申し開きもできない残虐行為、東京大空襲や長崎・広島への原爆投下という大罪がある】。それを「日本が悪かったから」ということにして相殺したい、そのための作文だという解釈もある。
頷けるが、ただダワーの言う「日本が発狂する」前の【日清戦争当時、米紙はもう盛んに「残虐日本」を書き立てていた】事実がある。

例えば「旅順大虐殺」だ。日本軍は後に日露戦争で苦労する旅順要塞をこのときは1日で落とし、旅順市内の平定に入った。
それを
「日本軍は浅瀬を逃げる子どもを含め無辜の市民6万人を殺した」
とニューヨークワールド紙のジェームズ・クリールマンが書いた。他の米紙も追いかけ、もっとどぎつく書いた。
このときは【駐日ベルギー公使アルベール・ダネタンが事実を確認して米紙報道を否定】してくれた。【仏人従軍記者も「支那人は正視に耐えない残虐さで日本人捕虜を殺した。耳を削ぎ、鼻を落とし、目玉をくり抜く残虐な拷問の末に手足をバラバラに斬り落として軒先にぶら下げておく。日本兵はそれを見ながら支那人捕虜に報復することもなく冷静に対応していた」と米紙の嘘を告発】した。
【クリールマンの子ども殺害の情景描写も、米騎兵隊がシャイアン族を皆殺しにしたサンドクリークの殺戮の光景を借用したことが、後に語られた】。』


サンドクリークの虐殺は、1864年11月29日にアメリカのコロラド地方で、米軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。

虐殺を指揮したチヴィントン大佐

西方に勢力を伸ばすアメリカ合衆国は、その植民地支配をミシシッピ川を越えた地域にまで広げ、それはロッキー山脈を越えつつあった。邪魔なインディアン部族を保留地に隔離し、入植地は順調に増えつつあった。が、この時期に起こった南北戦争は、合衆国のインディアン政策を混乱させてもいた。各地で白人の侵略に対抗するインディアンたちの戦い(インディアン戦争)が激化し、双方をそれぞれ交戦派と和平派の二派に分けていた。

コロラド州ではこの虐殺に先駆けて、白人の大集会が開かれ、有志の寄付によって「インディアンの頭の皮の買い取り資金」として5000ドルが集まった。「耳まで付いている頭の皮」なら、25ドルの高額な賞金が設定されたのである。金鉱に群がった侵略者たちにとって、周辺のインディアンはフロンティアを害する障害にすぎなかった。「野蛮なインディアンの絶滅」は、入植者の悲願だったのである。

シャイアン族のモケタヴァト(ブラックケトル)酋長
コロラド準州の近辺でも、インディアンと白人侵略者との激しい戦いが続いていた。両者ともに、ぞっとするような残虐なやり方で死者の身体が損傷され、互いの憎しみ合いは果てしがなかった。シャイアン族の襲撃は、ことにデンバーの白人たちを恐れさせていた。
続きは、こちらから♥
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☆サンドクリークの虐殺
『 米国は先の戦争のはるか前から、日本を故意に誹謗し、非白人で非キリスト教徒の野蛮人の国と言い募ってきた。

米国がなぜそこまで憎むのか。それを探るために【ダワーが言う「興隆する時代の日本」の足跡から初めて先の戦争の様々な現場を訪ねてみたままにまとめたのが本書】だ。
例えば連合艦隊の泊地だった【パラオでは進駐した米軍は日本が舗装した道路を掘り返し、日本がつくった発電所を壊し、日本の存在をすべて消してから道路を新たに舗装し、米国製の発電機による発電を始めた】。

これは【英国の仕業】だが、【香港陥落の調印が行われたペニンシュラホテルの調印場にそれを偲ばせるメモリーはない】。【その他の古戦場からも「日本」は消し去られていた】。

米国のそうした対応の根拠の一つはキプリングの言葉にある。【日本人が自然体で持つ国家観、高い知性、品格に対する「インディアン殺しの米国人」の強い反発と嫉妬心】だろう。
それだけではないかもしれない。本書ではいくつかの戦場を歩き、【そこで日本人が何を考え、何をしたか、対する彼らはどう対応したか】を細かく拾ったつもりだ。』

いかがでしょうか?
ジョン・ダワーのいい加減さが、お分かりいただけましたでしょうか?

朝日新聞の記者としても、十分な活躍が期待できそうな阿呆ですね♥
で、そんな阿呆を持ち上げるのは、もちろん阿呆の連中です♥
たとえば、共同通信w
【日本研究第一人者に聞く】沖縄の声に平和のビジョン 米覇権構造の問い直しを ジョン・ダワー氏
米国の日本占領に関する研究の金字塔『敗北を抱きしめて』でピュリツァー賞を受賞したジョン・ダワー米マサチューセッツ工科大(MIT)名誉教授は今年1月、沖縄での
―なぜ沖縄の新基地建設反対の声明に署名を?
「沖縄が
―まず犠牲について。
「沖縄は戦争末期、
「沖縄は51年の
。。。と、まあ、こんな感じで延々とデタラメを主張していますw
もっと記事は続きますが、面倒なんでこの辺で終わりにいたします♥

以上は、こちらの支那NEWSから♥
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☆【日本研究第一人者に聞く】沖縄の声に平和のビジョン 米覇権構造の問い直しを ジョン・ダワー氏

支那NEWS
こんな与太記事を読むよりも、こちらがお勧めです♥
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「敗北を抱きしめて」などいられない
敗戦から10年経った昭和31年、「もはや戦後ではない」と誰かが言い、日本人もおしなべて頷いた。1年もすればもうみんな水に流してしまう日本人が10年も敗戦を引きずっていられるわけもない。実際、そのころ世界一高い東京タワーが立ち上がり、テレビでは悪い白人シャープ兄弟を力道山が空手チョップでやっつけていた。のちに力道山が朝鮮人と聞いて少し残念に思ったけれど。
いずれにせよ、日本人はそのころあの戦争とは切れたつもりになっていたのに半世紀たった今も習近平は南京大虐殺がどうの、朴槿惠は慰安婦がこうの、駐日米大使まで靖國神社は建設的でないのと、まるでまだ終戦直後みたいな発言が繰り返される。先の戦争の日本を描いてピューリッツァー賞を取ったジョン・ダワーの著作になぞらえれば、日本は今も「敗北を抱かされたまま」に見える。おまけに支那人や朝鮮人の言う対日発言の貧しい文脈がまたダワーの著作に依拠している。今や日本を敗戦に縛りつける支柱となったダワー理論とは何か。戦後70年の節目に彼の意図を検証する必要がある。
「発狂した日本」
マサチューセッツ工科大教授、日本史研究家の肩書を持つダワーは、その昔、金沢辺りで英語教師をやったりしていた。
白人であることしか取り柄のないアメリカ人の定番コースを歩み、秘かに森鴎外を研究したというが、彼の著作にはそうした知性は感じられない。早い話、彼の近代日本史観は次の数行ですべて言い尽くしている。
日本が近代国家として興隆していった姿は目撃者を驚かせるものだった。それは誰が予測したよりも急速で、果敢で、順調であり、しかも最後には誰も予想しなかったような狂気に駆られ、残忍となり、自ら破滅していったのである
(『敗北を抱きしめて』の序)
日本が急ぎ近代化する姿はエドワード・モースとかキプリングとか多くの白人目撃者が語っている。いずれも温和で礼儀正しく、その死生観に感動する者もいた。
そんな日本がある日突然、発狂した。まるで「八つ墓村」の多治見要蔵のように斧を振り回し、そろって残忍になり「アジア各地で殺戮を重ねて」自滅したという。
突拍子もない話だ。本当にそうなら集団発狂した理由を是非とも知りたい。しかしダワーの『人種偏見』は発狂最中の日本を描いている。『敗北を抱きしめて』では発狂の果て、自滅したあとの戦後から書き出している。この信じられない「国家発狂」の理由を彼はどこにも書いていない。
わずかに『敗北を……』の中で発狂の原因として「日本は一等国になることばかりを考え、それが拒絶されたから西側に戦争を吹きかけた」(同書)というのだ。
一等国とは白人キリスト教国家のことを指すようだが、日本人はそれほど白人にもキリスト教にも憧れてはいなかった。
どころか、むしろ軽蔑していたことを歴史は示している。16世紀、日本は初めてキリスト教を知るが、すぐ胡散臭さを感じた。秀吉はコエリヨら宣教師がよさそうな福音を説きながら日本人女を奴隷に売っているのを知って、売った女たちを連れ戻せ、さもなければ布教をやめろと迫った。世にバテレン追放令として知られる。
ローマを訪ねた少年使節団は、異国で裸にされ、売られる日本人女性の話を綴っている。だから家康も布教を禁じた。
切支丹禁令は明治政府にも引き継がれ、五榜(ごぼう)の高札に明記された。明治6年、これに米政府が邪宗扱い廃止を迫ったが、結局、明治憲法発布まで邪宗門の禁令は残った。
「白人」も日本人は嫌った。長崎の出島のオランダ人が黒人奴隷を酷使するのを見た日本人は「心から白人を嫌悪した」とスウェーデン人植物学者ツュンベリーが記録している。
江戸に参府する出島のオランダ人を詠んだ戯れ句がある。
登城する紅毛に蠅のついてきて
風呂に入らない不潔な彼らに日本人が辟易していたことをよく示している。
「戦時の嘘」とまったく同じ
19世紀初め、オランダと戦争中の英国の船フェートン号が長崎に来て暴れて行った。日本は英国人の危険さを察知し、対処するためにすぐ英国研究を始めた。日本初の英語辞書「諳厄利亜語林大成」はフェートン号事件の6年後の1814年に作られた。
当然、日本は阿片戦争の末も知っている。英国はそれを「貿易戦争」と呼ばせるが、日本人は明治このかたずっと阿片戦争と呼んできた。
長州藩は英仏と馬関で戦った。このとき軍艦がなかった米国は商船に小口径の砲をくくりつけて参加し、他国と同じに巨額の賠償金を取った。そういう狡く、さもしい白人国家の性格も知っていた。
白人たちの品格は、国を開いてからも例えばハワイ王国乗っ取りとか三国干渉とかでよく知っている。
日露戦争では大勝しながら賠償金ゼロという差別も受けた。そんな連中のクラブに入れないから日本は発狂したとダワーは言う。非白人の劣等民族ならきっとこう思った、それで発狂したに違いないと。
歴史家の思索というより「日本女の髪を掴み股間に押し付ければイチコロさ」という白人ナンパ師ジュリアン・ブランクの発想に近い。
彼は「日本人は残忍になった」という。なぜ日本人の性格がそろって残忍になったのかの病理解明もしていないが、いかに残忍だったかは『人種偏見』にやまと書いている。
いわく「日本が敵国に撒き散らしたのは死と憎悪の種だった。例えば日本の新聞が大きく報じた、どちらが先に日本刀で百五十人の支那人を叩き斬るかを賭けた二人の将校の腕比べだ」「マレーでは拷問した英国人の口に切り取った性器を咥えさせたとか、宣教師を水責めにしたとか。一体日本軍の残虐行為の犠牲になったものがどのくらいか、わからない」。
のっけは毎日新聞の浅海一男が書いた「百人斬り」の嘘だ。ダワーがきちんと取材していれば戦後の浅海一男の消息も知ることができただろう。彼は支那に招かれ、廖承志(りょうしょうし)に一家を面倒見るから北京に来いと誘われる。文化大革命の少し前のことだ。
廖は娘真理を北京大に入れて、今は北京市内に店1軒を与えている。その間、浅海は「日本軍は残虐だった」「向井、野田両少尉の百人斬り競争は事実だ」と北京政府のための発言を続けた。
一方の毎日新聞社は『昭和史全記録』の中で「百人斬りは事実無根」と否定している。ダワーは両者とも取材できたはずだが、それもしていない。
マレーでの英国人の話は知らない。だいたい日本軍はコタバルに上陸してシンガポールまで55日間の戦闘を続けたが、この間に戦ったのはインド兵とグルカ兵だった。
日本軍は彼らを蹴散らしてジョホール水道に迫る。英軍はそれでも自分は戦わず、インドから第12インド人旅団を送らせた。
彼らはスリムの丘に布陣し、その支援に初めて白人部隊がシンガポールから派遣されたが、着いたころにはもうインド旅団は粉砕されていた。白人たちは逃げ帰った。
つまり日本軍はマレーでは英人に遭遇もしなかった。ダワーはそんな戦争経緯も調べていない。
それに性器を切り取って口に咥えさせるのは支那人の十八番(おはこ)だ。本当の歴史学者ならそれくらいの知識は持っているだろうに。つまりこれも嘘だ。
「日本軍は水責めをした」とダワーは言う。彼の言う水責めは魔女狩りの審問から生まれた拷問だ。米軍がフィリピンを植民地にする戦いで抵抗するフィリピン人にそれをやった。
米上院公聴会の記録では板に大の字に縛りつけ、5ガロンの海水や汚水をじょうごで呑ませる。自白しないと「膨れた腹の上に巨漢の米兵が飛び降り、土人は口から六フィートも水を噴き上げて死んだ」とある。
日本人にそんな拷問方法の知識もそれを実行するほどの野蛮さも持ち合わせない。
ダワーはさらに「非戦闘員の大規模な虐殺は南京が契機だった」という。「南京陥落以降、六週間にわたって処刑強姦、男女を問わない無差別殺人を繰り広げ……その死者数は二十万と見られる」「日本兵が赤ん坊を投げあげ、落ちてくるところを銃剣で刺した」「この銃剣はシンガポールでは医師、看護婦、入院患者に向けられた」と続く。
のっけはお馴染みの南京大虐殺だ。彼の言が正しいとすれば日本軍は42日間、毎日休みなく5000人ずつ処刑したことになる。仮に10人一度に銃殺して、その遺体を運びだし……を1日に500回繰り返さねばならない。
それを42日間、休みなく続けたという。師団規模の人員でも大忙しだろうが、南京の留守部隊は輜重兵(しちょうへい)など2、300人もいなかった。
何より20万の死体はどこにあるのか。北京原人の骨だって出た。春秋時代の越王勾践の銅剣も湖北省で発掘されてニュースになった。しかし南京からは一体の遺骨も出ていないではないか。
それに「大虐殺があった」というのはマギーやベイツやフィッチらすべて米人宣教師だ。それを報じたのもニューヨークタイムズにシカゴトリビューン。日本を敵視する米国の連中ばかりだ。
彼らが「死屍累々の南京大路」と報じた同じ日付の日に日本軍が入城する写真があるが、そのどこにも死体は写っていない。それをダワーはどう説明するのか。
それに続く「日本軍の赤ん坊殺し」と「病院での狼藉」は注目すべきだ。実は第一次大戦さなか、英米紙がドイツ軍の残虐行為として報じた中に「ドイツ兵は赤ん坊を放り上げて……」とか「病院を襲って看護婦を犯し、医師や入院患者を殺した」というくだりがある。そっくり同じ。
米国はそれを口実に参戦した。大戦後、ドイツの批判材料として検証が行われた。その結果がアーサー・ポンソンビーの「戦時の嘘」にまとめられたが、すべてでっち上げの嘘だった。
それと寸分違わない話が出て来たら、まともな歴史学者だったら検証するだろう。
しかしダワーは検証もせずにこう続ける。
「実際に起きた一連の日本軍によるショッキングな事件はほとんど疑う余地はない。第一次大戦中に反ドイツ感情をあおるために流布された残虐行為の噂を想起した懐疑派でさえ、日本軍の残虐行為についてなされた戦時中の報道は事実通りと認めている」
誰が何を根拠に事実だとしたかを彼はここでも示していない。それで日本軍に関しての今度の「戦時の嘘」は「本当だ」という。
かくて「日本はあるとき突然発狂し、残忍になった」ことの証明はできたとして『敗戦を抱きしめて』は書き出される。
転んだ朝日新聞
彼は終戦直後の日本に立つ。彼は自分の祖父の代までインディアンを無慈悲に殺しまくり、奴隷を酷使し、黒人女を慰み物にしてきたことも、歯の悪いジョージ・ワシントンが健康な黒人奴隷の歯を抜いて入れ歯をつくってきたこともきれいに忘れ、慈悲の心をもち、民主主義の何かを弁える知的な白人キリスト教徒になりきって日本人を観察する。
そこでまず「日本人は特別だ、ユニークだと言われるが、それは嘘だ」と断じる。
例えば3・11のおりに世界は略奪もない、助け合う日本人に感動した。
シアトルでWTO総会があったとき、デモった米国人は警備が手薄と見るとすぐ街中で略奪に走った。バグダードを攻略した米兵は博物館を荒らしシュメールの文化財を盗んだ。英軍が逃げた九龍は略奪する支那人で溢れ返った。
そんな略奪行為が日本にはなかった。ないどころか阪神淡路大震災ではヤクザが炊き出しをしたとロサンゼルスタイムズ紙のサム・ジェムスンが書いている。
それでもダワーは「日本人にユニークさはない」と断じ、その中に昭和天皇も入れる。「敗戦の詔勅は自分の戦争責任を免れるためだった。『五内為(ごないため)に裂く』と叫んで、国民の同情を買ったのは成功だった」と書く。
米国の植民地戦争時代、仏軍に捕まったジョージ・ワシントンは仏軍捕虜を殺した罪を部下に擦りつけて生き延びた。そのレベルでしか人の行動を測れないダワーの下品さにちょっとたじろがされる。
彼は天皇を軽んじた上で日本人も見下す。『敗北を……』では日本側が接待用に設けたRAA慰安婦施設の話や性病対策にペニシリンが持ち込まれた話やらを特筆する。
「除隊した兵士が手ぶらで郷里に帰ったと責められた」と皇軍の落ちぶれた様も描かれる。どこが高潔でユニークだと。
台湾の蔡焜燦(さいこんさん)『日本精神』に朝鮮人が軍の管理品を盗み出す描写がある。さもありなんとは思ったが、それを日本人の除隊兵がやった、そういう盗品を期待する郷里の家族がいたなどという話はあの時代を生きた者としてはっきり嘘だと言い切れる。
彼は敗戦の日、皇居前に額ずいた「そんなに多くはいなかった」人たちを論ずる。電車も満足に通わない焼け野原の東京で、確かにメーデーほどの人波はなかった。
それがどうしたと思うが、彼はこう続ける。「彼らがそこで流した涙は日本や天皇を想ってではない。不幸と死。騙されたという思いだった」「それは軍国主義者を憎み、戦争を嫌悪し、破壊された国土に呆然とたたずむ民衆の姿なのだ」とまた勝手に決めつける。
さあ哀れな民をどう救うか。これは尋常な手段では民主化は望めない。「病気の木を直すには根も枝も切り落とさねばならない」つまり日本人を枯死させる大手術が必要になる。
「戦争の勝者がそんな大胆な企てに乗りだすことは法的にも歴史的にも前例がなかった」が、マッカーサーは日本改造に乗りだしていく。
この文言には明らかな嘘があるが、まず彼の「大胆な企て」を追う。
彼はまずそれを言論の自由の封殺、検閲から始めた。民主主義がなぜ民主主義と一番遠い方法で行われたか、ダワーの説明はない。
最初の標的は朝日新聞だった。今では信じられないが、この新聞は当時、進駐軍の目に余る略奪や強姦を厳しく非難し、さらに原爆の非人道性を告発する一文(昭和20年9月15日)を鳩山一郎に書かせた。
GHQがバターン死の行進とか、無辜の民を焼き殺したとか、「赤ん坊を放り上げて銃剣で刺した」とか、フィリピンでの日本軍の残虐行為を新聞に書かせたときは「かかる暴虐は信じられぬ」「求めたい日本軍の釈明」(9月19日)とGHQにきちんとした検証を求めている。
マッカーサーはすぐ朝日を発禁にし、GHQの批判も米兵や朝鮮人の犯罪報道も禁じるプレスコードを出した。
朝日はこれを受けてすぐ転んだ。
検閲は手紙や電話まで広げられた。北朝鮮だってそこまでやるかというGHQの横暴をダワーは積極的に評価し、逆に「検閲で言論を封じた日本の軍事政権」の暗黒から日本人を救ったと強調する。
確かに戦前、検閲はあった。支那事変が続く中、軍の行動が分かる表記は墨が入った。当たり前だ。
石川達三の『蒼氓(そうぼう)』にも筆が入ったが、その気になれば消された部分は「乙種合格」とか理解はできた。
しかしGHQのそれは検閲の跡も残さなかった。だれも検閲されていることを知らなかった。
彼らは情報を完全に絶ったうえで日本人に勝手な情報をインプットした。その道具にされたのが「転んだ朝日新聞」だった。
朝日はGHQが望むまま、そしてダワーが書いたように「国民は軍事独裁主義者の犠牲にされ、無謀な戦争に投入された」という日本の中の対立構造を描き続けた。
同時にGHQは「悪い日本」に対する「民主主義でいい国の米国」を朝日に書かせた。発禁を受けた2カ月後の11月11日付紙面には「京都、奈良、無傷の裏」と題して京都や奈良が空襲の標的から外され「人類の宝」が守られたのは「ハーバード大のラングドン・ウォーナーの献身的な努力があった」という記事が載った。
ウォーナーのリストに載った文化財はおかげで守られたと。
真っ赤な嘘だ。京都は原爆投下候補地の筆頭で、原爆の正確な被害を測るため、通常爆弾による空襲を禁じてきた。米公文書には投下地点は京都駅近くの梅小路操車場で、その上空500メートルで原爆は炸裂する予定だった。それで京都市民50万が死に、八坂神社も二条城も西山の金閣寺も消滅していたはずだった。
広島、長崎に先に投下したのは、さすがに一瞬で古都を燃やし尽くし、50万も殺すのに躊躇(ためら)いがあったと想像できる。それが黄色い劣等人種だとしてでも、だ。
そんな恥ずべき大虐殺計画を美談に変える。しかも根拠のウォーナーリストには明治神宮も名古屋城も、原爆で消滅させた広島の太田城も入っている。みな爆撃で燃やした。
もっとましな嘘をつけと思うが、それでも日本人はころっと騙され、奈良には今もウォーナーに感謝する顕彰碑まで立った。徹底した検閲と忠臣、朝日新聞のおかげだ。
マッカーサーもそれで聖人になった。彼はそのころ米共和党の大統領候補になったことがある。朝日は彼の「高潔で気高い人柄」を褒め、彼の偉大さは米大統領の椅子が似合うと書き続けた。日本人は彼が大統領になると信じていた。だってそういう記事しかマッカーサーは許さなかったからだ。
しかし米国人は彼がフィリピンから敵前逃亡したことも、そのときに米傀儡政権のケソン大統領を脅して「五十万ドルもニューヨークケミカル銀行の自分の口座に振り込ませた」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』)ことも知っていた。彼が大統領から最も遠い男だと知っていた。
実際、共和党大会で一千五百余人の代議員のうち彼は11票を取っただけだった。いかに情報から隔絶されていたにせよ、彼がこんな泡沫だったとは日本人は本当に驚いたと思う。
いま振り返ってみるとマッカーサーのやったことはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界とほとんど相似と言っていい。歴史学者ダワーもそれに気づいているはずだが、彼は逆に賛歌を歌い続けた。
イラク戦争後、戦後処理をどうするかという時期、彼はニューヨークタイムズに「日本とイラクの違い」を寄稿した。その中で日本での成功は「マッカーサーのカリスマ性と米軍将兵の紳士的な振る舞いが日本統治を成功させた」と書いている。
調達庁の数字によれば、占領期、米兵によって10万人の女性が強姦され、2536人が殺された。沖縄では6歳の幼女が強姦の果て殺され、小倉市は朝鮮戦争時、一個中隊の黒人兵に占領され3日間、略奪と強姦に蹂躙された。今のイスラム国と似た状況だった。そのすべてが報道規制で闇に葬られた。そんな連中をダワーは紳士だったという。
マッカーサーはもっと悪質だった。終戦間際に米潜水艦が灯火(ともしび)をつけて航行中の阿波丸を緑十字船と知りつつ魚雷で沈めた。1人生き残った。
賠償を払う段になってカネを惜しんだマッカーサーは無償供与だったガリオアエロア援助を有償に切り替えてそのカネで阿波丸賠償を日本政府に出させた。
彼は自分の滞在費も含め駐留米軍の費用もすべて日本政府に出させた。あの東京裁判の費用も、キーナン検事の宿泊から遊興費まですべて日本に出させた。
ダワーの著作を通して感じるのは、ここまであくどいマッカーサーの戦後統治を何としてでも栄光のまま存続させたいという思いが滲み出ていることだ。
「カルタゴの平和」
ダワーは歴史学者でなく、むしろ政治屋という印象が強いが、もう一つ、彼が歴史学者でない証拠がある。
日本大手術に当たって彼が「歴史的にも前例がない」と言ったことについて「それも嘘だ」と書いた。
ちゃんと前例がある。紀元前3世紀、世にポエニ戦役と呼ばれるローマとカルタゴの戦いがあった。
カルタゴのハンニバルは日本と同じに正々堂々、戦場で戦った。ローマのスキピオはその点、米国に似ていた。インディアンとの戦いでは戦場に戦士を誘い出し、その隙に銃後の集落を襲って戦士の妻と子を殺した。日本との戦いでもそう。戦場を飛び越して銃後の広島長崎に原爆を落とし、日本軍兵士の妻子を殺した。
スキピオはハンニバルがローマの南ブルティに布陣している間に今のリビアにあったカルタゴを攻めた。ハンニバルは急ぎ駆けつけたが、スキピオに敗れた。
勝ったローマはカルタゴに対し、
・膨大な賠償金の支払い
・カルタヘナなど植民地の没収
・軍の解除と軍艦の焼却
・交戦権の放棄
を要求した。
さらにその調印が行われるまで
・ローマ軍の略奪、強姦を放置し
・丸裸になった海の民カルタゴの交易船も燃やし、農業国化を強いた
ローマはこの条件を呑んだカルタゴをその後もいびり続けた。
マルクス・ポルキウス・カトーこと大カトーは演説の最後に必ず「カルタゴを滅ぼさねばならない」と語り続けたのは知られる。
そして隣国ヌミビアが攻め込んだのに対してカルタゴが自衛の戦争を始めると交戦権放棄の違反としてローマが攻め込んで今度こそ攻め滅ぼした。王侯貴族はみな殺しにし、住民は奴隷に叩き売り、最後は塩を撒いて草木が生えることも認めなかった。世に言う「カルタゴの平和」だ。
蒋介石の顧問だったオーエン・ラティモアは日本の戦後処理についてこの「カルタゴの平和」を何度も口にしている。
マッカーサーのGHQの仕事を見ると、まず日本からその統治地域・台湾、朝鮮、南洋諸島を没収し、永世中立国のスイスまで膨大な賠償金を支払わせ、戦力不保持と交戦権放棄を明記したマッカーサー憲法を呑ませた。
カルタゴの交易船に相当する日本の工業力については鍋釜しかつくれないレベルまで落とし、農業国化することがエドウィン・ポーレーの賠償使節団によって計画された。
第1次で昭和初期まで工業力を落とし、重工業は解体され機械類は支那朝鮮などに運び出された。
第2次で明治時代まで落とす予定だったが、朝鮮戦争で中断された。
しかし農業国化はそのまま進められ、NHKは今も「農業の時間」とかあほな番組を作り続けている。
笑えるのはローマに略奪の自由を認めた項目までGHQは実施した。日本中の駅前一等地を不法占拠した在日朝鮮人支那人の跋扈がそれに当たる。
マッカーサー統治がカルタゴのモノマネだということは日本の戦後処理を研究する者にとっては常識だが、ダワーはそれも知らないで「歴史上初めて」と書いて憚らない。
かくも無知と偏見に満ちた『敗北を抱きしめて』はしかし世に出てすぐピューリッツァー賞を受賞し、さらに米国史に貢献した研究に出されるバンクロフト賞も取った。
歴史書の資質も品格もないのになぜ受賞したか。
それは彼が書いたように「日本が理由もなしに発狂し、残忍になり、アジアを血に染めたこと」にしておけば米国の残忍なフィリピン支配も東京大空襲も広島、長崎の原爆投下もすべて正当化される。
そして米国はダワーが書くマッカーサーのように「慈愛深く知的な白人キリスト教徒」でいられるからだ。それで彼に賞を出した。
授賞理由は米国の望む「戦後史観」の総カタログ集という位置づけだ。ここに書いてあることをこれからも真実として語り継ごうというわけだ。おかげで嘘つきダワーもまた形だけは「真実を語る歴史学者」になれた。
ただピューリッツァー賞だって万能じゃない。スターリンを褒め称え続けたニューヨークタイムズ紙のウォルター・デュランティ記者について、ウクライナ系米市民が「彼はウクライナの大虐殺もなかったとばかり書いてきた」と訴えた。今から十余年前のことだ。「こんな嘘つきにピューリッツァー賞は似合わない」と。
コロンビア大のフォン・ハーゲン教授が調査し、「ウクライナの惨劇まで否定して米国に誤ったスターリン像を植え付けた。記者の道を踏み外したことは明らか。賞の撤回がふさわしい」と断じられた。
人の道を踏み外したダワーが第二のデュランティになる日もそう遠くはないと思う。
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☆「敗北を抱きしめて」などいられない 『歴史通』 2015年1月号

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