2015-10-06 (Tue)

中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂である。奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。
詳しくはこちらから♥
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関山 中尊寺 公式HP
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 モンゴルはいまでこそ、中央アジアの小国にすぎませんが、【元(モンゴル)】が、世界をつなげたということを理解しておかなければなりません。…

このモンゴルこそが、【世界の歴史を一つにつなげた】ということの意義を、認識することが必要です。…

こちらもご参照♥
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☆世界では死んでいて、日本では生きています
モンゴル帝国の隆盛とその拡大によって、東西のさまざまな文物が行き交うことになり、東西の文化の交流も進んだという事実、これが重要なのです。…

それというのも、東洋の文化が、イスラム世界だけではなく、モンゴルを経由して、西洋に伝わっていったということです。
その典型的な例が【絹】です。…絹を運ぶために絹の道(シルクロード)がつくられ、東西が結ばれました。…

シルクロードについては、こちらをご参照♥
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お酒が飲めない彼女たちに、お酒を強要して乱暴を働く支那
これによって、【マルコ・ポーロ】は日本の情報を西洋に伝えることができたのです。それは、彼の著書である『東方見聞録』の中に、【黄金の島・ジパング】として紹介されています。これが実は、極めて重要な情報だったのです。
『 チパング(訳註 「日本」の中国音ジーベン・グオの訛り)は東の方、大陸から千五百マイルの公海中にある島である。しかも、まことに大きな島である。住民は色白で、慇懃(いんぎん)、優雅な偶像教徒である。ここは独立国で、彼ら自身の君主をいただいて、どこの国の君主からも掣肘(せいちゅう)を受けていない。
莫大な量の黄金があるが、この島では非常に豊かに産するのである。それに大陸からは、商人さえもこの島へこないので、黄金を国外に持ち出す者もいない。いま話したように、大量の黄金のあるのもそのためである。

また、この島にある君主の宮殿の、その偉観について話をしよう。この君主は、すべて純金で覆われた、非常に大きな宮殿を持っている。われわれが家や教会の屋根を鉛板でふくように、この国では宮殿の屋根を全部純金でふいている。その価値は、とても数量で計り得ない。さらに、たくさんある部屋は、これまた床を指二本の厚みのある純金で敷きつめている。このほか広間や窓も、同じようにことごとく金で飾りたてられている。実際、この宮殿の計り知れぬ豪華さは、いかに説明しても想像の域を脱したものである。

真珠も、美しいバラ色の、しかも円くて大きな真珠がたくさんとれる。これは、白い真珠と同じように高価なものである。実際はもっと値打がある。この島では、人が死ぬと土葬にする場合もあれば、火葬にする場合もある。土葬にするときは、死んだ人の口の中に真珠を一つ入れる。これはこの島の風習である。真珠のほかにも、いろいろな宝石を豊富に産出する。その富を語りつくせぬほど、まことに豊かな島である。

クビライ・カアン
さて、この莫大な財宝について耳にした大汗、すなわち今の皇帝クビライは、この島を征服しようと思いたった。そこで、2人の貴族に、大船団と、騎兵、歩兵の大軍とをさずけて派遣した。2人の貴族というのは、アバカンとウォンサニチン(訳註 范将軍の訛り。范文虎のこと)だった。2人ともまことに有能で、しかも勇敢な人物だった。さて、こうして全軍、ザイトゥンとキンサイから出帆し、海に出た。航海はつづき、やがてこの島に着いた。そして、上陸し、多くの平野や部落を占領したが、まだひとつの都会も、ひとつの町の奪取にも成功しないうちに、これから話すような、災難がふりかかってきた。それは、2人の貴族が互いに激しく嫉妬し合って、どちらも、なんとしても助け合おうとしなかったからである。

『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十六【弘安の役】敵船に乗り込む竹崎季長と大矢野三兄弟、応戦する敵船。
ある日のことだった。北風が猛烈に吹き出して、その激しさは、侵入者の弁によれば、島を離れなかったなら、彼らの船は一隻残らず難破してしまうほどだった。そこで、一兵も残さずに乗船し、島を離れて、海上に出た。ところが、4マイルと航海しないうちに、風はさらに激しく吹きつのってきた。そして、彼らの船が非常にたくさんだったために、互いに衝突し合って、多くの船が難破した。ただ、分散して航行し、密集していなかった船だけが難波から免れた。ちょうど近くに別の島があった。――さほど大きくはなかったが。この島にたどりつけた者は助かった。しかも、かなり多くの人数で、少なくとも3万人はいた。島にたどりつけなかった者は、ことごとく溺死してしまった。船も、激しい風に島の岸辺に打ちつけられて、たくさんの船が壊れてしまった。
激しい風も、荒れ狂う風もおさまると、2人の貴族は、海上にあって難波を免れた船――難をのがれた船もたくさんあった――を率いて、この島に引き返し、身分のある者、すなわち、百人長、千人長、一万人長をみな船に収容した。そのほかの兵隊までは、非常に数が多かったので、とても収容しきれなかった。やがて船は島を離れ、故国に向かって出帆して行った。
島に残された連中は――いま話したように非常に多かった――死んだも同然だと思った。そして、すっかり絶望してしまった。一体どうやったらこの島を離れて安全な港に行けるか、彼らには判らなかった。彼らは、あの大嵐を無事に切り抜けた船が、彼らには一顧も与えずに故国に向かって出帆して行くのを見ていた。2人の貴族はこうやって帰ってしまった。兵士のことは少しも考えずに、まっすぐ故国へ航海をつづけて行ったのである。 』 (マルコ・ポーロ『東方見聞録』青木和夫・訳/校倉書房/1960年より抜粋)
おそらく、平泉の金色堂のイメージが、中国人に伝わっていたのでしょう。純金で屋根も床もつくられているわけではなく、木造に金箔を張っているだけのことですが、日本の仏像も同じように金色に輝いており、彼らに強烈な印象を与えたのでしょう。

中尊寺金色堂
いずれにせよ、このマルコ・ポーロの『東方見聞録』ほど、金に飢えた西方の人々の血をわかせたものはありませんでした。』

いかがでしょうか?
このマルコポーロがヨーローッパにもたらした「黄金の国」の情報。
これこそ、ヨーロッパ・白人・キリスト教徒が、東洋・アジアを侵略する究極の目的でした♥
ヨーロッパ・白人・キリスト教徒によって、アフリカ大陸やアメリカ大陸、さらにインドが侵略されたのも、フィリピン、そして支那が侵略されたのも、一連の流れです♥
こういった大きな流れを理解することが、とても重要ですね♥
続きは次回に♥
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