2015-08-09 (Sun)

野坂 参三(のさか さんぞう、1892年(明治25年)3月30日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の政治家、日本共産党議長、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記を務め、名誉議長となる。初名は小野参弎(おの さんぞう)。中国では岡野進と称した。


県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会や新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、英国共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂榮太郎に影響を与える。


のち三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。1931年(昭和6年)に妻の野坂龍とともに秘かにソ連に入国。外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン、内務人民委員部(NKVD)のスパイになった。その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。また、1940年(昭和15年)、中華民国の延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行ったり前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本に帰れるようにしてあげます。共産党第八路軍、日本人岡野進」という内容のビラを配布など、日本打倒を目指した活動をおこなった。野坂は第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)1月12日に中国から帰国し、府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。

ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。1950年(昭和25年)に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。GHQのチャールズ・L・ケーディスと親しくしていたが、レッドパージを受けて地下活動、中国に亡命(北京機関)して武装闘争路線を採った。

1955年(昭和30年)に帰国、第一書記に就任する。1956年(昭和31年)に東京都選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって参議院議員を務めた。1958年(昭和33年)に共産党議長となり、宮本が書記長となった。1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長となった。
しかし、『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後中央委員会総会において野坂の除名処分が決定された(名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられた)。その際、野坂は「残念ながら事実なので処分を認めざるを得ない」と述べた。これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中にアメリカからコミンテルンのディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。




戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
さて、「大東亜戦争では、軍部が独走した」、なんて実しやかな嘘が存在しています。
未だに多くの方々が、そんな誤った知識を持たれたままなんです。
いわゆる「陸軍悪玉説」です♥ これは、嘘です。デタラメなんです♥
私たちの日本は、諸外国によって戦争に引き込まれていきました。
そして、そんな諸外国と手を組む「裏切り者」が、日本の中枢に居たんです♥
彼ら、「赤いユダ」の正体を実名で暴いていこうというのが、本書の狙いです。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 近衛が具体的に死ぬ手だてを確保したのが、昭和二十年一月二十日前後であろう…

近衛文麿
それからおよそ三週間後の二月十四日、近衛は実に三年ぶりに天皇に拝謁が叶った。
自死の腹を括っての上奏である。

かつて拝謁してきた明治宮殿は、前年五月の空襲で焼け落ちていた。

詳しくはこちらから♥ ⇒ 大江戸歴史散歩を楽しむ会
いま、近衛が鉄扉をくぐった「御文庫(おぶんこ)」と呼ばれる天皇・皇后の居所はコンクリートで固められた地下壕で、大型爆弾にも耐え得るよう陸軍が極秘裏に造営したものだ。
屋根にはカモフラージュのために土が盛られ、ツツジなどの常緑植物が植え込まれていた。御文庫とは、暗号として付けられた名称である。

木戸幸一
二十年二月、これまで統帥部以外の者を天皇の側に近づけなかった【木戸内府】が、ようやく重臣たちの上奏を許した。
統帥権を盾に、木戸は「陛下にお目に掛かりたい」という重臣はもちろんのこと、高松宮、賀陽宮(かやのみや)など皇族方の拝謁も拒んできたのだ。

戦局は逼迫していた。…
十四日、モーニングで身支度を整えた近衛は、謁見所に入ると一礼した。
「近頃、お目にかかれませんでしたが、いかがでいらっしゃいますか」
天皇が勧める前に、近衛はどっかりと椅子に腰を下ろした。
「近衛はいかがか」
「恐れ入ります。お陰様で元気にしております」
とだけ答えると起立し、モーニングのポケットから和紙の束を取り出して読み上げた。
近衛自書の墨筆で、八枚あった。その概要は以下のとおりだが、長文なので要点のみに絞って引用する。
「 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候(ぞんじそうろう)。
以下、此の前提の下に申述べ候。
敗戦は我国体の瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の輿論(よろん)は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは側知し難し)、随(したが)って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より【最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候】。
つらつら思うに【我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつあり】と存候。…
ソ連は欧州に於て、其の周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余(じよ)の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之(これあり)候。…
ソ連のこの意図は、【東亜に対しても亦同様】にして、現に延安にはモスコーより来れる【岡野(引用者注:野坂参三(のさかさんぞう))を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居り候】。


野坂参三(慶應大学卒)
かくの如き形勢より推して考えうるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分にありと存ぜられ候。…
特に憂慮すべきは、【軍部内一味の革新運動】に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、【軍部内革新論の基調】も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にも、此の主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞(そくぶん)いたし候。【職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義を受け入れ易き境遇にあり】…

これら軍部内一味の者の狙いは、必ずしも共産主義に非ずとも、これを【取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)】は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知純粋なる軍人、これに踊らされたりと見て大過なしと存候。

戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の望ありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みもなき戦争をこれ以上継続するは、【全く共産党の手に乗るものと存候】。

此の一味を一掃し、軍部の立て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)。」(矢部貞治『近衛文麿』下)…

矢部貞治『近衛文麿』
「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かつて急速度に進行しつつあり」と上奏され、天皇はおそらく驚愕するほどの衝撃を受けたに違いない。…

多くの重臣はおおむね、「本土決戦のようなことはお避け遊ばされたい」という程度で済ませていた。
近衛のように、「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かつて急速度に進行しつつあり」などと上奏した者はいない。

近衛文麿
「非常の御勇断を」とは「すぐに降参なさい」との意味だが、天皇にそう簡単に言えるものではない。
青酸化合物を懐中に忍ばせていた近衛にして初めて言上(ごんじょう)できる言葉である。』

いかがでしょうか?
自決を決めた近衛文麿は、昭和天皇への上奏に向かいました。
その上奏の内容は、本当の戦争犯罪者を看破したものでした。
それは、当時の日本に巣くう【共産革命主義者】のことだったんです♥
彼らは、日本の戦争を長引かせ、敗戦に追い込み、さらに武装解除、財閥解体等の弱体化(革命に都合が良いように)を図ったうえで、【日本に共産革命を起こし、共産主義の国を造る】ことにありました。支那における、共産主義の国「中華人民共和国」の建国と、まったく同じように。。。
そして、代表例として、近衛は、慶應大学卒の共産主義者・野坂参三の名前を挙げたんです♥



開戦前の御前会議において、昭和天皇は、明治天皇の御製「よもの海」を一部言葉を置き換えて詠みあげられました。
【内閣の最高責任者】の近衛首相と【統帥部の最高責任者】の杉山参謀総長が、揃って「あだ波」と聞き、書き遺しています。
昭和天皇を含め、御前会議の場に居合わせた十六名の出席者のうち、近衛、杉山の二人だけが記録を遺しています。

明治天皇御製「よもの海」

<明治天皇御製>
よものうみみなはらからと思ふ世になど【波風】のたちさわぐらむ
<昭和天皇が詠まれた「よもの海」>
四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど【あだ波】の立ちさわぐらむ
「あだ波」は「敵」を指す言葉です♥
天皇は、「敵が騒いで海が荒れ、まことに困ったことだ」と、替え歌で本心を婉曲に表現してみせたんです♥
「あだ波」に対峙せざるを得ないとの覚悟を替え歌に託し訴えたんです♥
御前会議の場に居た全員が、昭和天皇の詠まれた「よもの海」の真意を理解していたんです♥
だから、その場が凍りついた、「満座は粛然として声もなかった」と近衛は、その時の状況をリアルに書き遺しているんです。
粛然とは、「静まりかえっているさま。また、かしこまり静まるさま。」ということです。
昭和天皇が、「波風」と詠むべきところを、故意に「あだ波」と詠まれた意味を、全員が理解したからこその「粛然」なんです。

近衛文麿
そして、近衛の死後、貴重な史料を元に、「平和への努力」という冊子が刊行されます。

こちらには、近衛の手記の通りに正しい記載がなされています。
ところが、朝日新聞の刊行した冊子では、意図的に書き換えられたんです♥
その朝日新聞とGHQ。ここに「共産主義者」の姿が見え隠れしています♥

同様に、今日でも他にも様々な方法で刷り込みが行われています。
その典型例をご覧ください。
こちら♥(1分40秒あたりから)
↓
替え歌の事実が完全に伏せられていますね♥
巧妙に手を加えています♥

このTBSが製作したデタラメ特別番組、【 シリーズ激動の昭和~あの戦争は何だったのか~日米開戦と東條英機 】は有名です♥

(以下はwikiより)
『シリーズ激動の昭和 あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機』は、TBS系列で、2008年12月24日の18:55 - 23:32(JST)に放送されたドキュメンタリーとテレビドラマの特別番組。2008年3月10日に放送された『3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実』に続くTBSの「シリーズ激動の昭和」の第2弾であり、ドキュメンタリー(18:55 - 20:40)とテレビドラマ(20:45 - 23:32)の2部構成で放送された。ドキュメンタリー部分のメイン司会は、前作と同じく筑紫哲也が行う予定であったが、筑紫の死去により代役として安住紳一郎と鳥越俊太郎の両名が司会を務めた。

革命思想の鳥越についてはこちらから♥ ⇒ 亡き筑紫哲也の意思を継いだ、リベラル電波人士の正体
制作局 : TBS
演出 : 鴨下信一
原作 : 保阪正康
脚本 : 池端俊策
プロデューサー : 八木康夫、堤慶太、那須田淳
(うはw 左翼ばっかりですね♥)
原作は保阪正康 になっています。
保阪正康について、ここで最近の話題をお一つ♥

保阪正康
今年3月、宮内庁が20年以上もの長い歳月と膨大な経費をかけて、「昭和天皇実録」が編纂・刊行されました。
総ページ数も膨大なのですが、この中には、触れられていない事実が数多く存在しています。
その一つとして著者は、明治天皇の御製「よもの海」を、昭和天皇が替え歌で詠まれていた事実を伏せている、と言っています。
そして、その上で、「替え歌の背景を再検証すべき」だと言っています。
なぜなら、昭和天皇を平和主義者にして、そして軍部に責任を押し付ける、左翼・リベラルや似非保守のプロパガンダの根っこに、この御製「よもの海」があるからなんです。
左翼・リベラルは論外と致しまして、例えば、似非保守の連中が「昭和天皇実録」について分析している本があります。
半藤一利や保阪正康らによって書かれた『 「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書) 』という本です。
徹底的に昭和天皇擁護&軍部批判をしている、まったくデタラメな本です♥
似非保守である彼らは、歴史の見方が歪んでいます。
あるいは、ワザとそのように解釈をし、喧伝しているのかもしれません♥
こういった嘘を見抜くためにも、今回ご紹介する優れた書物は、非常にお薦めです^^
因みに、さきほどの似非保守の連中の主張するところは、以下のような感じです。(wikiより抜粋)

半藤 一利(はんどう かずとし 1930年5月21日 - )は、日本の作家、随筆家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。原子力発電所については人間の手に負えない危険なものとして懸念してきた。大東亜戦争当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的である。昭和天皇については、当時の軍部による暴走を押し留めようとしたことを肯定的に評価しているが、昭和天皇の戦争責任についても否定していない。近年は護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論である。

保阪 正康(ほさか まさやす、1939年12月14日 - )は、日本のノンフィクション作家・評論家・日本近現代史研究者。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『忘却された視点』『安楽死と尊厳死』『愛する家族を喪うとき』『日本の医療』『オモテの議論ウラの議論』など多数。しかし当事者の証言に偏重する研究姿勢には、実証的立場からの批判も多い。また第二次世界大戦当時の軍部については極めて批判的であり、このことにあわせ、「大東亜戦争は自衛の戦争」と主張する靖国神社にも否定的である。そのため総理大臣の靖国神社参拝にも極めて批判的であり、一般人の靖国神社参拝についても「個人の自由」としながらも、「靖国神社に参拝することは靖国神社の主張を受け入れるということだ」と批判的である。学生時は60年安保に反対する学生運動に参加するなど、左翼系の学生であった。しかし、仲間と共に鉄道のストライキを呼びかけた際に鉄道職員から「学生は帰れ!」と野次を飛ばされ、「何か違う」と学生運動に疑問を持ったという。
あらら、まったく保守ではありませんね♥
思想がグチャグチャですね~
こんな作家が書く本は、一切読まなくても構わないでしょう^^
続きは次回に♥
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