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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国史 >  そうだったんだ♥ 日本の世界遺産

    そうだったんだ♥ 日本の世界遺産

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    左:広重  右:ゴッホの模写

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    左:広重  右:ゴッホの模写

    ヒロシゲブルー : 歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色特に藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」と呼ばれるヒロシゲブルーは19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちやアール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえ当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつとされている


    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。

    私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 これまで【西洋化】は明治からはじまったと考えられてきました。しかしそうではありません18世紀の初めに、八代将軍【徳川吉宗】は実学を奨励し、キリスト教に関係のない西洋の学問技術自由に学ぶことを許可しました。洋学が発展し、青木昆陽は海外の文献から、飢饉のときに備えて薩摩芋(甘藷(かんしょ))を広めたり、野呂元丈は西洋の博物学を紹介したりしていたのです。

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    青木昆陽

     前野良沢(りょうたく)は『解体新書』を翻訳した医者として知られていますが、その「管蠡秘言(かんれいひげん)」は、西洋の自然科学の考え方の基本を紹介したものでした。日本人は【知識の面】では【18世紀末から19世紀初めにかけて西洋と同じ科学革命を成し遂げていた】とさえいわれています。ドイツ人シーボルトは文政六(1823)年にオランダ商館の医師として来日しましたが、その翌年、長崎に鳴滝塾(なるたきじゅく)を開き、医学、博物学の教育をはじめました。二宮敬作高野長英など全国からやってきた合計37人の洋学者が学んでいたのです。

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    『解体新書』(複製)

     嘉永六(1853)年、【ペリー】が来航したとき、幕府は決して動揺したわけではありませんでした。すでに『オランダ風説書』で、【アヘン戦争】(1840~42年)などの海外情勢を知っていたからです。ペリーの艦隊とすぐに衝突せずに国内の軍備を整える方向で対処できたのもそのおかげです。老中の阿部正弘国内の意見をもとに、安政元(1854)年に日米和親条約を結びました。このとき、ペリーはアメリカ西部からの贈呈品として、鉄道の模型一式電信機銅版写真機ライフル銃ピストル農機具など、アメリカの最新技術を日本側にもたらしました。…

    鉄道

     同じ年、ペリーの一行は、円周約110メートルの線路を敷いて機関車、石炭車、客室つきの鉄道模型を走らせました。時速32キロだったといいます。しかしそれ以前、ロシアのプチャーチンが日本に開国を求めてきたとき、小型の模型をもってきていたので、すでに機関車の情報を得ていました。鉄道は急務であるというので、明治初年には鉄道が敷設され、明治五(1872)年には新橋・横浜間で開業されたのです。

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    イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵

     アヘン戦争中国がイギリスによって侵略されたというニュースは、軍備の必要性を日本人に感じさせました。それは各藩にも伝えられ佐賀藩では天保十三(1842)年に、オランダの技術を得て、大砲の製造所を設置しています。そこで使用する鉄を溶かすために、日本で最初の反射炉を築造しました。

    反射炉 差が
    築地反射炉絵図  詳しくはこちらから♥

     そして幕末までに約200門の大砲をつくったのです。同じ佐賀藩では、精錬方を組織し、汽船を建造する技術まで獲得していました。薩摩藩では、集成館という研究所をつくり、反射炉製鉄所洋式帆船の建造などが行われていました。水戸藩でも、安政三(1856)年から反射炉の操業に着手し、十数門の大砲をつくっていたのです。

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    昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が建造(1854年竣工)した洋式軍艦で、沖縄の防衛が目的だった。後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称。

     ペリー来航の後、幕府は海防が急所だとして江戸に湯島の鋳砲所を設置し、【伊豆に反射炉】の建設を行いました。このとき造られた反射炉は【伊豆の韮山(にらやま)】で見ることができます


    詳しくはこちらから♥ ⇒ 伊豆の国市HP

     湯島では洋風の小銃が製造され、浦賀には造船所1853年)が、長崎には長崎製鉄所1861年)などが、オランダの技術のもとにつくられていたのです。北の南部藩函館奉行でも、高炉による洋式製鋳が行われていました。【明治維新に至るまでにすでに幕府には45隻の洋式艦船が保有されていた】のです。そのうち約4分の1は【国産】だったのです。すべて明治以降の「文明開化」によって軍備が整ったわけではないのです。

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    詳しくはこちらから♥ ⇒ 尚古集成館HP

     軍備だけではありません。薩摩の集成館では、ガラスや陶磁器の工場機械紡績所もありました。…出雲地方では、砂鉄の【たたら精錬】が行われ、刀剣のほか農具や工具が造られ、鉱石による製鉄は、陸中釜石で、木炭を使った高炉が使われていました。【石炭】は筑豊方面で採掘され、【石油】でさえ越後で産出されていたのです。

    驚き顔

    和紙

     特に【和紙】は【楮(こうぞ)を原料とする方法】が開発され、越前奉書紙や、播磨の杉原紙などが使われました。【流漉(ながしすき)という技法】が大量に栽培できる楮を紙原料にすることを可能にしたのです。

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    「江戸の花 娘浄瑠璃」 喜多川歌麿

     その結果、安価な紙が出回ることで庶民による大量消費まで可能にし学問文化を発達させました。その中でも【浮世絵は和紙を使い、絵画を大衆のものにした】のです。』

    驚き 2

    こちらもご参照♥

    江戸時代に「身分制度」は無かったんです

    百姓が大名行列に土下座したという「大嘘」

    実は、百姓は、武闘集団でした

    「士農工商」っていう身分制度は大嘘でした

    江戸時代は百姓の力が強く、武士よりも裕福でした



    日の丸

    いかがでしょうか?

    私たちの日本って、本当に凄いですね♥ 

    あっちも、こっちも世界遺産ばかり^^

    子どもたちには、こんな風に誇れる国なんだって、教えていきたいですね♥

    続きは次回に♥




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