2015-07-11 (Sat)

ピサ大聖堂(ぴさだいせいどう)は、イタリア・トスカーナ州、ピサに位置する「ピサのドゥオモ広場」に建てられた、ロマネスク時代を代表する建築物の一つである。1063年から1118年および1261年から1272年と2回に分けて長期にわたり建設された。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。
私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 どの歴史(日本史)の教科書でもいいので、ページを開いてみてください。鎌倉時代と室町時代は「中世」となっています。どの教科書でもそうです。「中世」とは「近代」になる前の、【封建的で粗野な遅れた文化の時代という意味】で使われています。NHKの大河ドラマ『平清盛』に描かれた世界はいかにもそのような世界です。【薄汚れた武士たちが映像化】されていました。

しかし、…鎌倉時代も、…室町時代も、果たしてそういう時代なのでしょうか。

西洋の歴史で「中世」(Middle Age)とは、【「古代」ギリシャ・ローマと「近代」に挟まれた「中の時代」】のことです。この時代は、【ゲルマン民族の大移動】ののち、【キリスト教化】され、現代の西洋といわれる世界が形成されていった時期でした。
ゲルマン民族の大移動については、こちらをご参照ください♥
↓
副島孝彦の論文教室

この時期を担ったのは【古代ギリシャやローマの人々とは異なる民族】で、【宗教も言語も本質的に異なる人々】です。だから、【西洋の「中世」は古代ギリシャ・ローマが発展したものではなく、そこには明らかな断絶】があります。

そして西洋史学の三分法をもとに、19世紀には【マルクス主義による歴史観】がつくられました。「古代」は「奴隷制」の時代。「中世」は「封建制」で農奴の時代。「近代」は「資本主義」で労働者の時代。そしてそのいずれの時代においても人民は搾取されているという生産様式の矛盾した歴史を説きました。それが「進歩史観」と結びついて、「中世」の「暗黒」史観が生まれたのです。

こうした歴史の見方を、【現在でも多くの歴史家たちが信じている】ようですが、そのような搾取の歴史の中からは、…偉大な「文化」は生まれません。強制からは、…大きなモニュメントも生まれようがないのです。「自由」があってこそ、こうした「文化」が生まれ、階級よりも「役割分担」の社会があったからこそ、長い間「社会」が安定してきたのです。統治者はいつの時代でも必要ですし、働く人民は決して圧迫されてきたわけではありません。
こちらもご参照♥
↓
江戸時代に「身分制度」は無かったんです
百姓が大名行列に土下座したという「大嘘」
実は、百姓は、武闘集団でした
「士農工商」っていう身分制度は大嘘でした
江戸時代は百姓の力が強く、武士よりも裕福でした
しかし、その「文化」においても、【西洋の学者たちは自分たちが古代ギリシャ・ローマを受け継いでいると自負している】ため、「古代」と「近代」の間に「中世」を挟んで、いかにも【西洋「文化」が一貫して継続しているように考えている】のです。「ルネッサンス」といわれる時代は、「古代」の「再生=ルネッサンス」であるとされていますが、【実際には「再生」ではありません】。

西洋の「中世」は「暗黒」の時代ともいわれます。【西洋が古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いでいるなら、「暗黒」であるはずがありません】。西洋の歴史が「中世」といっている時代は、正確にいうなら、【新たな「西洋文化初期時代」(Primitive Age)】というべきなのです。いまにつながる西洋文化の世界が形成されたのは、実はこの時代からなのです。


画像はこちらからお借り致しました⇒美術覚書
一方では、この時期の文化の様式を【「ロマネスク」】といっています。これは「ローマ的な」「ローマのような」という意味です。自分たちが古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いでいると考えているからですが、それを【引き継いでいないことは、まったく新しい、キリスト教の文化であることからも明らか】です。その形は、まだ【素朴である】ことが誰にでも見て取れます。【西洋の「ロマネスク」といわれる時代(1000年 – 1200年)の文化は、日本では飛鳥時代(592年 – 710年)の「アルカイスム(胎動期)」の文化に匹敵するもの】なのです。


預言者ダニエルを描いたステンドグラス(アウクスブルク大聖堂、11世紀後半)

飛鳥の石造物 僧(手前)と男(奥) 7世紀前後

法隆寺 金堂釈迦三尊像 7世紀前後
古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いだというか、影響を受けて保存したのは、【西洋ではなく「イスラム世界」】なのです。「イスラム世界」を介して西洋は「古代」ギリシャ・ローマの文化を知り、その影響が「ルネッサンス」につながっていくのです。

こうした【西洋の「進歩史観」】を中国史に導入しようとしたのは、西洋史をなまかじりした宮崎市定氏で、そんな【史観自体が西洋のつくりもの】であることを知りませんでした。ましてや日本にまであてはめようとしたのが、明治の歴史家たちだったのです。しかしもともとそんな歴史はなかったのです。

西洋史をなまかじりした宮崎市定
鎌倉時代は政治が貴族から武士に移ったといっても、【武士はどこかよそからやってきて政治の実権を握ったわけではありません】。武士は貴族政治の中から発生したのです。武士と呼ばれる人々は、もともと「清和源氏」、「桓武平氏」といわれるように、【みんな天皇家、もしくは摂関家出身の人々だった】のです。端的にいえば、鎌倉時代の『新古今和歌集』は平安時代の貴族的な『古今和歌集』をさらに洗練させた傾向を備えており、その継続であったのです。

宗教でも法然、親鸞ら鎌倉新仏教は旧仏教をくつがえしたわけではありません。まだ勢力も小さく、旧仏教もまた継続していきました。鎌倉彫刻は天平の古代彫刻を発展させて制作されています。その意味で「ルネッサンス」でもあったのです。
このように【「文化」はすべて連続性の上につらなっています】。【西洋のような断絶はありません】。しかし、日本の学者は西洋の歴史区分を鵜呑みにして、鎌倉時代と室町時代を「中世」に当てはめてしまいました。しかし、それは誤りであり、日本文化の独自性を損なうことになりかねません。』


いかがでしょうか?
少し長くなりましたけど、大切なところなので、まとめておきたいと思います^^

画像はこちらからお借り致しました⇒松岡正剛の千夜一夜
大陸の東側では、漢民族の国「漢」の時代(紀元前200年頃 – 220年頃)が終わり、三国志で有名な「魏」「呉」「蜀」に分裂、そして五胡十六国時代の時代(300年頃 – 440年頃)に入りました。五胡とは、異民族(漢民族以外)に対して差別的な意味合いで使用される呼称で、「匈奴(きょうど)」「鮮卑(せんぴ)」「羯(けつ)」「氐(てい)」「羌(きょう)」の五つの異民族のことです。その5つの異民族と、漢民族が、それぞれがバラバラに群雄割拠した時代が、五胡十六国時代です。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族が前涼、西涼、冉魏、北燕をそれぞれ建てていました。数えると、17カ国ありますが、そこは大陸の東側の文化らしいところですね♥
さらにこの後、南北に王朝が分裂していた時代、南北時代(440年頃 – 590年頃)を経て、隋の時代(580年頃 – 620年頃)、唐の時代(620年頃 – 900年頃)へと続いていきます。隋も、唐も、鮮卑族が治める国です。
つまり、漢民族の国は3世紀初頭に滅亡していて、その原因が、主に北方からの異民族の侵略にあったわけです。

2世紀頃の鮮卑の版図
異民族の侵略に対する防御として、約1800年間もの間、延々と造り続けていたのが、あの「万里の長”壁”」です。
「壁」が良いのか、「道」が良いのか♥
同じように、大陸の西側では、4世紀~5世紀にかけて、ローマ帝国領土へのゲルマン民族の侵略がありました。いわゆるゲルマン民族大移動と呼ばれている出来事ですが、ゲルマン民族がローマに引越してきた訳ではなく、侵略してきて、そして国を造ったんです。その後も、別の民族による侵入は続き、やがて現在のヨーロッパの原型ができます。

2世紀初頭のローマ帝国。緑部分がローマの支配を受けない「大ゲルマニア」(マグナ・ゲルマニア Magna Germania)で、ローマ領となったライン川西部と南部の「小ゲルマニア」と対になる。
お分かりでしょうか?大陸の東も西も、異民族に侵略されて、それまでの文明・文化が断絶してしまったんです。西欧での断絶の時代、これを彼らは「中世」と呼んでいるんです。
私たちの日本は、そうではありません。断絶していません。現代まで、脈々と繋がっていますね♥
それまでのギリシャやローマの時代と違って、異民族のゲルマン民族が、「ローマ風」にマネしてみたのが「ロマネスク」という事なんです♥西欧で「中世」と呼ばれるこの時代に、一度振り出しに戻ったんです。
ロマネスク時代を代表する建築物とされるピサ大聖堂は、11世紀~13世紀にかけて建築されました。

これは、日本でいうと、7世紀の飛鳥時代の様式になります。例えば、7世紀初頭(607年)の法隆寺です。

つまり、西欧の文化は、日本に遅れること600年ということになります。日本の先進性が良く分かりますね♥
ちなみに、ピサ大聖堂の「ピサの斜塔」は傾いてしまっていますが、日本の法隆寺はいまも現存していて、「五重塔」は傾いたりなんてしていませんね♥ しかも、世界最古の木造建造物です♥
ピサ大聖堂のなかにある彫刻は、こんな感じです。

一方、ピサ大聖堂よりも600年も古い法隆寺に所蔵されている「百済観音像」がこんな感じです。

大陸の東側、鮮卑族の国である「隋」や「唐」の時代も、断絶した後の文化です。戦後の左翼、リベラルみたいな妄想思想に凝り固まった一部の人は、西欧や大陸の文化が先行していたなんて、どんでもない妄想をしています。
断絶した、継続していない「文化」が、どうやって先行できるんでしょう?できるはずが、ありませんね♥
事実、大陸の東側からは、「日本に学べ」とばかりに、リスクを冒してまで、私たちの日本へやって来たんです♥
こちらをご参照♥
↓
遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」
さらに、日本の鎌倉時代(1185年 – 1333年)の西欧世界の彫刻って、どんなものだったのでしょうか?
フランスのカオール大聖堂にある彫刻は、こんな感じです。

他にも、こんな感じですw

繰り返しますが、同じ時代の私たちの日本は、こんな感じですよ!


同じ時代の作品ですけど、素人目に見ても、どちらが優れているのかは、一目瞭然ですね♥
それでは、支那や朝鮮は、どうだったのでしょうか?
是非、ネットで検索してみて下さい^^
ちなみに、日本で奈良に大仏が建立されたのと同じ時期に、支那ではこんなものが造られています。
↓

奈良の大仏はとレベルが違いすぎますね♥

そして現代。。。世界最大の発展途上国では、こんなものまで・・・




まさに『進撃の巨人』の世界観ですねw
続きは次回に♥
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