2015-07-10 (Fri)
聖テレジアの法悦(伊: Estasi di santa Teresa d'Avila)はバロック期のイタリア人芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが1647年から1652年にかけて制作した大理石彫刻。ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会コルナロ礼拝堂の壁面に設置された祭壇(エディクラ)の装飾彫刻群の中央を占める彫刻である。コルナロ礼拝堂は、当時の芸術家の第一人者だったベルニーニが内装のデザインから完成までを手がけた建物で、大理石彫刻、フレスコ壁画、絵画はすべてがベルニーニの作品となっており、これらコルナロ礼拝堂の美術作品はローマにおける盛期バロック美術の最高傑作の一つであると見なされている。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。
私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 明治まで続く武家政治は、どのようにしてはじまったのか?
【源氏】とは、【天皇家と同じ源である】という意味でつけられた名前です。天皇家でも、宮廷に残る皇子とは別に、臣籍降下して地方に国司として派遣された者が源氏のはじまりです。【平氏】も同じでした。嵯峨源氏とか桓武平氏というのは、その天皇の名前をとっています。かれらが【武士】となっていきました。従って、【武士が朝廷に反抗することはなかった】のです。
しかし、平安末期、東北で二つの戦いがありました。前九年の役は、…源頼義、義家父子が討伐した事件です(1051~62年)。また後三年の役は、…源義家が、苦戦の末にこれを平定した事件(1083~87年)です。これによって源氏は、東国に地盤を確保しました。その義家に加担した清衡(きよひら)が、【平泉(ひらいずみ)】に陸奥、出羽を支配する【藤原三代の栄華】を誇りました。ここに【武士の時代がはじまった】といっていいと思います。この東国の政権は、決して朝廷に反抗したわけではなく、かえって地方から支持した。のです。
こちらもご参照♥
↓
芭蕉が、わざわざ奥の細道を歩いた理由
詳しくは、こちらから⇒一般社団法人 平泉観光協会HP
中央では、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が勃発したのも、源氏、平氏がそれぞれかつての天皇の後裔だったことにあり、現天皇家の宮廷と複雑にからんでいました。決して【公家と武家が分かれて戦ったわけではない】のです。この二つの乱で、勝利したのは平氏でした。
平清盛
【平清盛】が仁安二(1167)年、太政大臣となり、平氏政権を打ち立てました。藤原氏にとってかわった政権でしたが、福原遷都など無謀な動きをして、没落を早めました。
特に【平氏は、大仏をはじめとして、奈良を焼き討ち】したことが、人々の反感を買いました。
国家鎮護の象徴を破壊するなどということは、朝廷や奈良の人々だけでなく、全国民の憤激を招き、反平氏の動きを強めました。【源頼朝】が平氏討伐を呼びかけると、各地の源氏が平氏打倒の兵を挙げたのです。瀬戸内海に逃げた平氏は、【源義経】の軍勢によって壇ノ浦の戦いに敗れ、寿永四(1185)年、一族は案徳天皇とともに海に沈みました。
源頼朝
義経は都にもどり、後白河法皇に官位を与えられたために、鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、義経を捕らえるために、自分の部下(御家人)を守護や地頭として各地に置くことを認めさせたのです。平泉に逃げた義経は、奥州藤原氏の保護を求めましたが、逆に討たれ、さらに平泉も頼朝によって滅ぼされました。
東大寺大仏殿
建久三(1192)年、頼朝は【征夷大将軍】に指名され、鎌倉を都にして【鎌倉幕府】を築いたのです。これ以後、明治に至るまで武家政治が続くことになります。鎌倉ではまずその寺社の造営などに、平泉の文化を引き継ごうとしました。頼朝は【奈良の大仏殿の復興】に力を入れ、建久六(1195)年の供養の際には数万の兵を率いて上洛しています。この恩義により、承久の変のとき、後鳥羽上皇の召集にも、東大寺、興福寺の僧兵は従いませんでした。…
奈良・東大寺の大仏
鎌倉・高徳院の大仏
美術に焦点を絞ると、鎌倉時代はバロックの時代であるといえます。
「バロック」という言葉は西洋美術の用語で、動きのある写実的な様式を示し、【17世紀のヨーロッパ美術】を彩りました。その傾向が【鎌倉時代の美術】に表れているのです。
一例を挙げれば、再建された東大寺の南大門です。…両脇に安置された巨大な金剛力士像の荒々しい動きのある肉体表現は、バロックそのものです。
南大門の金剛力士像を3Dバーチャル参拝できます♥こちらから。
↓
世界遺産 東大寺 3Dバーチャル参拝
東大寺や興福寺の再建では、【運慶】が参加して多くの仏像を制作しています。代表作は興福寺にある『無箸(むちゃく)像』でしょう。威厳と悲しみの表情をたたえたすぐれた肖像彫刻です。…
定慶の『金剛力士像』は日本人の肉体のたくましさを表現していますが、西洋のギリシャ彫刻とは明らかに異なった、引き締まった姿に迫力があります。…
金剛力士像
このようにして、日本の動勢のある芸術が次々と生まれた活気のあるバロック時代は、西洋が17世紀に同じ動勢のある、装飾的なバロック様式に【先行すること400年前】に花開きました。日本の芸術の先駆性がわかるというものです。』
いかがでしょうか?
私たちの日本の美術は、西欧よりも遥かに先行していたことが、良く分かりますね♥
同じように、西欧近代絵画に絶大な影響を与えたのも、私たち日本の美術でした^^
つまり、西欧は、日本よりも遅れているんです♥
富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
しかし、戦後の左翼、リベラルみたいな妄想思想に凝り固まった一部の人は、西欧や大陸の文化が先行していたなんて、どんでもない妄想をしていますね♥
可笑しいですね♥
滑稽ですね♥
他の国々、例えば、西欧世界の、この時代(日本の鎌倉時代)の彫刻って、どんなものだったのでしょうか?
フランスのカオール大聖堂にある彫刻は、こんな感じです。
他にも、こんな感じですw
繰り返しますが、同じ時代の私たちの日本は、こんな感じですよ!
同じ時代の作品ですけど、素人目に見ても、どちらが優れているのかは、一目瞭然ですね♥
それでは、支那や朝鮮は、どうだったのでしょうか?
是非、ネットで検索してみて下さい^^
ちなみに、日本で奈良に大仏が建立されたのと同じ時期に、支那ではこんなものが造られています。
↓
奈良の大仏はとレベルが違いすぎますね♥
そして現代。。。世界最大の発展途上国では、こんなものまで・・・
まさに『進撃の巨人』の世界観ですねw
続きは次回に♥
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